【女子高生エッセイ】『誰が世界平和を願ってもいいじゃん!』#創作大賞2024 #エッセイ部門
授業中に起こされた時。
待ち合わせに遅刻した時。
友達の話を聞いていなかった時。
何かに対して言い訳をする時ぜひ使って欲しい言葉。
「今、世界平和願ってたんで。」
「こいつ、何言ってるんだろう。」
相手は疑問に思い一瞬は怒りを逸らすことができる。
まぁ、その後に絶対怒られるんだけど。
言い訳をする場面に出会ってる時点で、私がおおむね悪い。
「君のようなただの女子高校生が世界平和を願っても意味がないんだから。」
そう言われたことがある。
こういう人間の考えている[世界平和]。
戦争や紛争の終結、環境破壊の抑止、貧困問題や食糧不足の解決、あるいは愛する人との永遠、人類の不滅といったものだろうか。
声を大にして言いたい。
世界平和とは、そんな壮大なものではない!
私の願う世界平和はもっと日常の何気ない瞬間に溢れているものである。
◆炭酸我慢で世界を救え!
冷蔵庫から出した炭酸水をコップにトクトクとそそぐ。
少しだけ甘い味のついた炭酸水を飲むのが好きだ。
新年が始まって1週間。
ドアを挟んだ外の世界は寒いなんて言葉で表せるものではない。
今こそ冷えきったキンキンの炭酸水を飲むのだ。
明日から始まる学校を、風邪をひいて休むために!!
馬鹿は風邪を引かないと言うが、私は馬鹿ではない。
『冷えた炭酸水を飲んで風邪を引く』という発想がそもそも馬鹿だと言われるとそれは否定できないけど。
炭酸がしゅわしゅわ音を立てているのに耳を澄ます。
冬休みに入る前、理科の教師がふざけたことを言っていたのを思い出した。
「炭酸水も元は二酸化炭素だから、環境汚染だぞ〜」
隣の席の男の子が机の上に置いていた微炭酸のジュースをこっそりとカバンの中に入れた。
私は気づかないふりをして話を聞き続けた。
近年の温暖化について散々語った後の話だったので、意外とクラスメイトには響いていたようだった。
その後も黄色にくすんだ歯を見せながら地球温暖化に関する授業を進めた。
炭酸よりお前の吸っているタバコの方が立派な環境汚染だと言ってやろうかと思った。
キーンコーンカーンコーンとちょうどチャイムが鳴り授業は終わってしまった。
今、目の前にある炭酸水の、ぱちぱちと湧き上がる小さな気泡たちが、環境汚染をしているのかと思うと何ともいえない気分になった。
私は今年に入っての初の"炭酸水に環境汚染をさせた"第一人者であるかもしれないと言う事実に気づいた。
無性に誰かに伝えたくなったので、キッチンで洗い物をしている母に声をかける。
「お母さん、私、今年に入ってから、炭酸水で環境汚染をした最速記録の保持者かも。」
「何言ってんの。明日から学校なんだから準備しなさいよ」
はいはい〜と返事をして2階の自分の部屋へ炭酸水を運ぶ。
泡達の勢いが弱くなっていくのを見て、自分の部屋で注げばよかったなぁと後悔する。
そういえば、『あの理科教師が出した課題やってないなぁ』と思ったが、やる気は全く起きなかった。
今は、目の前の炭酸水について考えるのが先決だと思った。
暖房をつけてあたためていたので、部屋の窓は結露で真っ白になっていた。
コップも少しだけ汗をかいていた。
暖房で部屋の空気は乾燥していた。
私は乾いた咳をひとつして、もしかしたら風邪ひけるかもと思った。
そこで初めて炭酸水を飲んだ。
少しぬるくなって炭酸が抜けたコップの中の液体はお世辞にも美味しいとは思えなかった。
炭酸水、おまえは私のせいで環境を汚染したのか?
翌朝、結局風邪を引けずに仕方なく学校に向かった。
駅の自販機の前に立ち止まった。
いつも選ぶ500mlの炭酸に目をやる。
少し迷ってから、その下にあった200mlのコーラのボタンを押した。
ほとんど値段変わらないのになぁと思いながらプシュッと音を鳴らして蓋を開ける。
少しずつでいいや。
私は炭酸水300ml分世界を救ってやったぞ。
明日もほんの少しだけ世界を平和にしてやろう。
◆桜の花はそれでも舞い散る
毎年、3月の末にかけ桜が咲き始めるとその花びらの美しさと華やかさに圧倒される。
それと同時に、自分1人だけが冬とも春とも呼べない曖昧な季節に置いて行かれた気分になる。
新しい季節の訪れを素直に喜べず、今年もまた始まるのかと言う気持ちが私を億劫にした。
今年初の桜は1人で近所のコンビニに昼ごはんを買いに向かっている時に見た。
昨日も通った道が鮮やかな桃色に彩られていて、昨日とは全く違う道のように感じた。
その道はどこか春のきらめきのようなものを放っていて、いつも通りの私はこの空間では異質なものだと言われているようだった。
「昨日までは、みんなつぼみだったのになぁ。」
寂しい思いを押し殺しながら小さな声で呟いた。
コンビニに着き、中に入ると少し冷房がかかっていて肌寒く感じた。
目的の鮭おにぎりと卵入りサンドイッチを買おうとすると、桜味のスイーツが期間限定の広告が目に入った。
なんとなく1番そのコンビニが押してそうだったカップに小さく切られて入った桜のシフォンケーキを手に取りお会計をした。
店員さんに一瞥してコンビニを後にした。
そこから歩いて行きに見た桜の木の横にある小さな公園に寄った。
公園の角にあるカップルベンチに1人で腰をかけてビニール袋からシフォンケーキを取り出す。
桜を見ながら最初にデザートを食べるというなんとも贅沢なのかもよく分からない行動をしてみる。
そして、何度口に運んでも桜味というものがさっぱりわからない。
桜を食べたことがないし桜ってそもそも食べるものなのだろうか。
食べたことのある人はいるのだろうか。
でも、りんごジュースもりんごの味があんまりしないからそれと一緒なのか?
そんなどうでもいいことを考えながらケーキの入っていたカップをビニール袋にもどす。
口の中の水分がほとんど奪われてしまったことに気がついて飲み物を買えばよかったなぁと後悔する。
まだまだ新しい季節が始まったという気にはならなかった。
おにぎりとサンドイッチを袋から出しても食べる気にはならず桜をしばらく見つめた。
明るいピンク色でいっぱいに染まった視界を瞼を閉じて真っ暗にする。
そうやって目でシャッターを切る真似事をした。
さっきまで広がっていた雨に濡れたのかきらきらと桃色に輝いた花たちを目の奥の真っ黒なスクリーンに投影する。
それをじっくり脳内の写真フォルダーに焼き付ける。
これをするのは今年で何回目だろう。
そうして、私は桜の木へと思いを馳せた。
桜は私の悲しみの象徴であった。
私の中では『植物は枯れ果てるまで精一杯に栄養を身体中に回して、命を全うするもの』であった。
だが、桜は花が枯れてしまう前に散っていく。
満開になって散っていく桜は、零|《こぼ》れ桜と呼ばれる。
そのほとんどが地面で花としての最期を迎える。
人間に踏まれるという、屈辱的な仕打ちを受けながら小さくしぼんでいく。
枝にしがみついているか、地面に張り付いているかだけの違いでしかない。
それなのに人間は茶色の上で輝くピンクの花を褒めることしかしない。
彼らの視界に地面のピンクは映っていない。
まるで散った瞬間に桜としての一生を終えたかのように扱う。
その事実に悲しみを覚えた小学生の頃の私はこの自然の摂理に何日間か憂うことになる。
自分ではどうしても変えられない、悲しい桜の生き様に同情するしかなかった。
長い休み時間に同級生が桜の花をちぎって汁が垂れ出て汚いと笑いながら遊んでいる。
その横で私は1人地面の桜を見つめて涙を流した。
自分以外にこの感覚を持つ人がいないことも哀しかった。
休み時間が終わり目を腫らしたまま教室に戻った。
「どこか痛いの?」と担任の先生から心配され「心の奥が痛い」という小学生にしては随分パワーワードな回答をしたので見事に担任を困惑させることとなった。
その時期から毎年初めて見た桜は目に焼き付けるようにしている。
一年間、次のつぼみが開花するのを見るまでは私の頭の中に枯れるまで散らない桜の木を育てよう。
そんな子供時代を抜けて今もそのルーティンを辞めれずにいる。
高3になった今私は舞い散る桜の花弁を数えては同じ数だけ溜息をついている。
"桜は花が咲いたら、散ってしまう。"
そんな誰もが分かりきっていることを私は未だ理解できずに過ごしている。
もちろん、文章の意味はわかる。
そう言うことではなくてなぜ桜の花の生い立ちに対して哀しいと感じたり少しでも長く枝と過ごして欲しいと思ったりする人がいないのか理解ができない。
なぜ人間は、散った後の桜を愛せないのだろうか。
有限だから儚い、美しいという気持ちはもちろん理解できる。
でも、散らなくてもいつかは桜も枯れるじゃん。
これをただ主張したいだけなのだ。
もし私が桜の木の住人なら、一生つぼみでいたいと願うだろう。
開花してから枯れてゆくまでの自分の人生を振り返る間もなく、開花してすぐの1番良い頃に散っていく。
そのくらいなら、花として輝く可能性を持ったままつぼみとして朽ち果てる方が良い。
零れ桜になんてなってやるものか。
誰の目に止まらなくても周りがどれだけ綺麗に咲いても、私はつぼみのままでいい。
きっと大抵の人が私と同じ側の人間だと思う。
でも実際、人間社会でそんな風に生きるにはどれほどの気力が必要だろうか。
何も成し遂げることなく、つぼみのまま枯れていった先人たちはどんな気持ちだったのだろうか。
散った花たちは、勇気を持って開花した。
その事実を私だけでも覚えておこうと思った。
そう思いながら、ベンチから立ち上がり結局食べなかったおにぎりとサンドイッチをビニール袋に入れて公園から出た。
帰宅して脱いだスニーカーを揃えようとした時、靴の裏についた桜の花びらに気がついた。
花びらから染み出した水が、まるで泣いているかのようだった。
悲しい気持ちになり、その桜の花を今でもファイルに挟んで残している。
水分が抜けて萎んでしまって元の形もないけど。
人間は考えるだけでなく行動しなければ、実質外見は何も変わらないこと。
世界から人間が消えても『桜が枯れる前に散る』という事実は変わらない。
だから人間として桜の生涯と向き合う必要がある。
次こそは零れ桜を大事に看取る。そう誓った。
私は今日も頭の中で散らない桜を育てていく。
桜の生涯に少しでも寄り添える人間が増えた世界はきっと今より平和だと思う。
◆セミが泣き叫ぶのは何のせい?
朝起きた時、緊張している時、走っている時、はたまた熱風邪を引いた時、私は鼓動を確認するのが好きだ。
全身に血が巡っている感覚に出会うたび私は今を生きているのだと感じる。
ドクドクドクとリズミカルに拍を刻む心臓はずっと同じリズムであっても必要以上に速く感じる。
そしてその時間が永遠に続くようにさえ感じる。
あえて深呼吸をすると新しい空気に驚いた肺が仕方がないという風に膨らんだ後ゆっくり縮む。
血管の中をたっぷりの酸素を含んだ血液が駆け抜けていく。
目に見えないが感じる。
身体の隅々にまで新しい酸素がめぐっていく。
最近は、朝の電車に乗り遅れそうになって走った後の鼓動が1番生きているリアルを感じる。
満員電車の中で少し熱くなった体から出た汗が先週クリーニングに出したばかりの白いセーラー服にじんわりと染みていく。
なぜかそれが心地良く感じる。
私はこういう朝を体験をするたびに汗をかくのは生きている証として大きな意味を感じる。
そして、私は夏が好きだと気づく。
夏といえば?と聞かれると必ず思い出してしまうことがある。
中3の頃の親友と『何故セミは命が尽き果てるまで叫ぶのをやめないのか』を語った日のことだ。
毎日、下校時間になると別のクラスの彼女は私を教室まで呼びに来た。
その日も普段と同じように私を呼びにきた。
昨日の夜、雨が降ったせいで蒸し暑い上に太陽の光がお構いなしに私の少し焼けた肌を刺していた。
夏休み前、最後の学校だった。
学校から彼女の家までの10分ほどを歩きながらしりとりをした。
彼女は私が手を抜くと少しだけ怒った。
セミがひどくうるさく鳴いていて私は何度か彼女の言葉を聞き返した。
彼女は私の耳元に白い手をやりささやくのかと思いきや大きな声で「だから、マイケル•ジャクソンだってば!!」と言った。
「『ん』ついてるじゃん」と私が同じように耳に手を当て言い返すと、「ん?」と首を傾げて聞き返してきた。
少しして自分で語尾に『ん』がついていることに気がつくと、必死になって気づくか試しただけだという風なことを言った。
そもそも私が『さんま』って言った時に固有名詞はダメって言ったのは彼女の方。
そして私が言った『さんま』は秋の旬の食材の方。
今思うと彼女は俗にいう天然というものなのかもしれない。
そんな彼女の白い肌は彼女の心の純粋さを表しているようでとても好きだった。
彼女の家に着くと教科書や夏休みの課題がたっぷり入った重いリュックを下ろし玄関前に2人で座った。
それから私たちは長い長い放課後を過ごした。
私たちはいつも放課後に漠然とした概念のようなテーマを話した。
環境破壊、宇宙の果て、動物の生態にまで及んだ私たちの話は、もはや中学生の雑談の域を超えていたと思う。
毎日、変わらない景色を見ながら2人ではどうしようもない規模の話をして自分たちの無力さにため息をついた。
そして、その日も彼女はネットで読んだセミの悲しい生態の話を始めた。
正直、私はそこまでセミに興味はなかったが彼女が話すのをやめるまで聞き続けた。
途中で「セミは鳴いているんではなくて、泣き叫んでいるのだ。」と彼女は表現した。
文字に起こして話した訳ではないから彼女は鳴き叫ぶと言っていたかもしれないが私は『泣き叫ぶ』ととらえた。
とても面白くて残酷な表現だと思った。
私たちに到底わかることのないセミの気持ちを勝手に嘆いていると捉えたその表現は人間ならではの同情という言葉そのものだった。
その後、1,2時間ほどその話題について話した。
「セミが泣いて叫んでも人間はただただうるさいと言う。」
「セミは1週間しか生きられないのに長く生きる人間はセミに対しての生命的な敬意がない。」
私にとってはだいぶ耳の痛い話だった。
「もし本当にセミが自分の寿命が少ないことを嘆いているなら人間はもっとセミの短い寿命を重んじるべきだ。」
私は彼女にそう返した。
私はセミが7年ほど幼虫の期間を過ごしていることを知っていたしセミがメスへの求愛として鳴いていることを知っていた。
だから、『もし』なんて言葉で誤魔化した。
でも、なんとなくセミをうるさいと表現するのは今日でやめようと思った。
こういう大きなテーマの話の時は、彼女に「結局は私たちにはどうしようもないね。」というと、話の終わりという合図になる。
同時にこの話は諦めようという暗黙の了解になる。
でも、その日はなんとなく放課後を終わらせたくなかった。
だから中学生らしい話題を振って話を続けた。
誰が誰を好きだとか先生がクラスで怒ったとかあのグループが仲間割れしたとか。
彼女は私の話に退屈そうに相槌を打ちなまぬるい湿った風に文句を言いながらあくびをした。
私は話を続けた。
彼女も話を聞き続けた。
ジリジリと地面から水蒸気が上がっていくのを見つめながら。
水筒のぬるくなった麦茶をゴクりと飲みながら。
私の退屈な話を聞き続けた。
彼女が本格的に飽きてきたことに気づいた私は少しずつ話をフェードアウトさせた。
彼女はそのタイミングで時代に合わない有線のイヤホンを家の中から持ってきて、私と半分こにしてゆずの「夏色」を流した。
「これ好きでしょ?」と彼女は言うがその時初めてフルサイズで聴いた。
今はすっかりハマって冬でも聞いてしまうようになったけど。
彼女はあの時何を思っていたか知らないが私はその年で1番夏を感じた日だった。
話が途切れた時にふいに「暑いね」となんの変哲もない言葉を口にした。
自分でもこんなに全身で夏を感じているくせに何を言ってるんだろうと思った。
暑さってやっぱり怖いなぁとか適当なことを思っていたら、彼女は「なんで夏が今に始まったみたいに言ってんの。」と笑いながら返した。
私の話には一つも笑わなかったくせに。
別に気にしてないけど。
そして私は『誰も夏の始まりなんて知らないのに。』と思った。
珍しくこういうことを声に出さなかった。
彼女がまたあくびをした。
私も大きく伸びをして彼女に言う。
「そろそろ帰るね」
「もう帰るの?」
すでに4時間か5時間話したところだった。
やはり、お互いに2人の時間は心地よいものだと感じた。
私が重いリュックを背負って彼女に「バイバイ」と手を振る。
いつの間にか黙っていたセミたちがまた大きな声で鳴き始めた。
何時間か前に私たちが諦めたばっかりの生命が私たちに助けを求めているように聞こえた。
彼女はきっとそう思った。
セミの鳴き声を傍らに彼女に何と声をかければいいか困りながら苦笑していると、彼女は真剣な顔をして口を開く。
「やっぱり、明日もセミについて話そう。」
彼女がそんなことを言うのは初めてだった。
一度諦めたものを、もう一度話題に出すことはなかった。
話題どころかしりとりにさえ名前を出そうとしなかった。
彼女の中でその生物は、死んだ(絶滅した)も同然だったのかもしれない。
その場合、その生物を助けることを諦めた彼女が、彼女の手で殺したと言うことにはなるが。
トカゲの尻尾が切れる話も、ハシビロコウが動かない話も、雑草が命を持つ話も、全部諦めた彼女が、セミには諦めなかった。
「わかった。またね。」
驚きながらそう呟いた。
明日から夏休み。
学校に行く予定はないし、私たちの放課後はない。
だけど、1人で帰りながら何故かすごく嬉しくなった。
そっか。セミは諦めないんだ。
ちょっとにやけた後にもっと彼女のことを知りたいと思った。
あの夏の日から私たちは親友と呼べるものになったと思っている。
家に帰ってからも言葉では説明できない嬉しさが溢れ出てきた。
オレンジのような赤いような暖かい気持ちが全身を震え立たせた。
あの日の私の鼓動は人生で1番速かった。
後にも先にもあれより生きている心地のした鼓動はない。
ある夏の日の、私と彼女の物語。
あれから私は自分の鼓動を感じることが好きになった。
そんな夏の思い出がどうしても忘れられない。
あれから3年、「今年の夏はどう乗り越えよう」と5月に考えている私の心は既に夏に焦がれている。
やっぱり夏がいつ始まるかなんて誰も知らないじゃないか。
聞こえないはずのセミの声がもう頭の中に響いている。
今も彼女は新たな大きなテーマにぶつかり自分の無力さを感じているのかもしれない。
セミの生態に寄り添える人間は、きっと世界を平和にする力を持つ。
少なくともあの放課後を共に過ごした君の旧友は世界平和を願っている。
セミに寄り添う心が世界を少し平和に変える。
次に彼女に会う時はセミの話をもう一度したい。
世界平和の種はあなたの日常にも数えきれないほど落ちている。
その種を拾えばあなたの生活は少しずつ豊かになる。
世界平和とは壮大なことではない。
世界平和とは願うことで少し幸せな気分になれる、そんな魔法でもある。
だから、私は言いたい。
ただの女子高生だって、誰だって、世界平和を願ったっていいじゃん。
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