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意識的に否定しない


「否定」

嫌な言葉である。
一方で、否定するべきこともあると思う。
しかし、否定のみをしていても何も変わらない。
と思う。

尖りに尖っていた大学学部時代。
他のみんなと同様建築の沼にはまっていった。

「建築を見に行きなさい」

と先生にひたすら言われ
建築の見方も何もわからぬまま
とりあえず、有名建築家の「作品」を見に行った。(作品。この言葉についてもまた書きたいのでメモ)

安藤忠雄、隈研吾、伊東豊雄、妹島和世、平田晃久、藤本壮介などなど
建築雑誌も読み、設計課題も真剣に取り組んだ。

だが、何もわからないのだ。本当に。良さが。
何も感じない。いや、感じることができない。
今は少し知識がつき、わかるようになってきたが、当時は何を言われてもさっぱりだった。
というのもあるが、感性でたとえ良い空間と分かっていても、理屈が通っていないのに納得いかなかった。

そして、拗らせていた自分は

「否定」に走った。

設計課題をやる意味がわからない
建築を新しく建てる意味がわからない
デザインって何?考えて何になる?
なぜ、空き家ばかりなのに、こんなに建物で溢れているのに、新しく建物を建てる?
有名建築家の作品は何が良い?お金があればできるじゃない?


本気で設計課題を与えられても、そこに建物が必要かどうかわからなかった。なぜ考える必要があるのかどうかわからなかった。

それだけ真剣に向き合っていたのだと思うけど
否定に走ってしまっていた。
自分は建築という行為でコミュニティを形成したり、社会問題を解決させたりしたかったのだけど、建築デザインでは何も解決しないと本気で思っていた。だから、ハード面よりもソフト面、建築のシステム、都市計画に一時期とんでもなく興味があった。人と建築についてずっと考えていた。


今ではわかる。デザインを極めるのも建築の1つの面白さだし、建築のデザインによって、人も、場所のあり方も何もかも良い方向に変わることがある。

しかし、当時の自分は否定ばかりで、もっとこうしたい!こう考えたい!がなかったのだ。そんな自分にもイライラしていた。


もったいないことをしていたなぁと思うけども
その時の自分がいなかったら今の自分はいないと思う。


そこから修士でともに「つくる」概念に出会い、色々動いていた時に尊敬している「DIT」をコンセプトに設計施工をしている方の現場をお手伝いさせていただいた。そして、現場後、飲みながらたくさん話を聞かせていただいた。猛烈に覚えている言葉が


「意識的に否定をしないねん。そら、ちゃうやろって思うこともたくさんあるけど、否定したら自分の器はその大きさのままやん。それじゃあ新しくて面白いことは出来なくなってしまう。だから、意識的にでいいから否定しないねん」


長くなったが、どの言葉も外すことができない。
「意識的に」で良いから否定をしない所以。

たしかに。否定をしていてはその考え、価値観の良さがわからなくなってしまう。この世は0か
100で出来ているわけではない。

そして、行動に移している。

何か「ん?」と思うことを聞いても
まずは「なるほど」と言ってみる。
そして、良いところを見つける。
言った上で、自分の考えや思ったことを上乗せする。



そこから建築がもっと楽しくなったお話は行動で示していこう。
この言葉を身に宿している限り、自分はなんかわからんけど、大丈夫やと思う。


ちょっとは大人になれたやろうか。
そんなことを今思ってしまった。
子どもの自分と大人の自分を身に宿して
今日も今日とて心豊かに。

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