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そもそもゲームって

 そもそもゲームって何よ、みたいな話。ある人には暇つぶしでしかないだろうし、趣味の人がいれば、仕事の人がいるかもしれない。

 少し話が逸れるが、縄文時代の家で火を囲んだ事がある読者はいるだろうか?筆者はで経験した事がある。早い話が、「我々の祖先がしていた生活を体験してみよう!」という事。昔の生活というと、電子レンジもないし、テレビもないし、ガスもないし、電気もねえ。東京でももちろんそういう生活になる。山はいくらでもあるはずだ。とはいえ実際に体験したのは、竪穴住居に入って焚火を囲むとかそれくらいだから、槍を片手に夕飯を狩ってくるとかはしなかった。
 で、そのキャンプファイヤーみたいなイベントだが、これはとても楽しい。楽しいというと正確ではなく「安心する」という方が近い。揺れる火がパチパチと音を立てて燃えているのを見ていると、とても心が落ち着く。
  それもそうだ。人類の歴史のうち、今のような生活、つまり電気やガスやカラオケがある生活というのは、どう頑張っても150年はないだろう。文明にしても、せいぜい1万年程度だろう。人類の祖先である猿人の出現が450万年前、現代の人類に近いとされているクロマニョン人の出現も8万年前だ。
 この部分は、『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』の20と21ページを参考にしました。筆者の持論じゃないよ、という事。以降も「~万年前」という記述が出てきたら、間違いなくこれを参照してます。

 話を戻すと、私個人の生活としてはともかく、人類の歴史に馴染みがあるのは上記のような竪穴住居のような建物だという事。
 人類の歴史に馴染みのある生活というのは、竪穴住居のような所で火を囲んでいたり、槍もってマンモスなりを追い回す生活なのだ。
 その次に定住社会が始まり、文明が発達する。これがおおよそ1万年前。文明のある、ひいては今現在のような生活スタイルの方が人類史では異例な暮らし方になる。なので肩はこるし、腰を痛めるし、ボケ老人が徘徊したりする。文明以前の生活、このような事が起こる前にみんな死んでたに違いない。
 そんな生活では、家のように火のある場所は安全地帯であったに違いない。そのため、火を囲んで、パチパチはじける音が家(竪穴住居のような)の中で反響して聞こえ、放射熱の温もりを感じる、などの感覚は安全な場所に居る事を実感させる。遺伝子レベルでそうなっているのだと思う。つまり、誰がここの焚火イベントを体験しても、同様の安心感を得るに違いない、と考えてる。どの程度の安心を感じるかはさておき、どうしようも無く不安になるような人はいないのではなかろうか。
 余談だけど、その焚火を見ているとなんだかぼーっとしてくる。とても気分が良くなって、とてつもなく幸せになる。催眠術のようなものは、たぶん人間のこのような反応を利用しているのだろう。このような状態の時に「カレーはまずい」と言われながらカレーを食わされでもしたら、本当に口から吐き出しかねない、そんな気分になった。

 前置きが長くなったが、ここからが本題。今までの話で大事なのは、遺伝的にそうなる人間の反応がある、という事。人によって好き嫌いがあるとかそういう次元じゃなく、人間なら皆こうなるよね、という現象が世の中にはある。遺伝的というのは、姿形が似るとかそういうのではなく、人間の生理現象としてそうなる、という意味で使ってる。タンスに足の小指をぶつければ、誰だって痛かろう。この場合では、痛覚が人間の生理的な反応として存在する事がわかる。猫に猫じゃらしをほわーーーーとやると、必死に追いかけるとか、そういうのと同じ。
 ゲームをやって「楽しい」と感じるのも、おそらくはこのような人間の仕組みとして楽しく感じる出来事を呼び起こされるから楽しいんだろう、というのが筆者の主張。
 狭義の娯楽性(筆者の用語。リンク見てね)が、何故成立するのかというのもこう説明できると思う。つまりマンモスなんかを追い回している時の思考―ここに落とし穴を設置したからこう追い込めばよさそうだぞ、みたいな―を思い起こさせているのかも知れない。

  広義の娯楽性は狩りの楽しみではないだろうが、言葉の楽しみのような部分がある。言葉の楽しみというのは、詩とか歌とか、卑近な例だと駄洒落などもそうだろう。もっとも、何のひねりもない駄洒落を面白く感じるのは小学生までだろう。少し工夫がなされている(ひねられてる)何らかの出来事に対する風刺だとか、一種のお約束だとか、そういったものを踏まえて組み立てれば、小学生じゃなくても十分に面白く感じるはずだ。
 言葉自体の面白さという部分から離れて、言葉が描写するストーリーという意味での面白さもこちらに含めてもいいだろう。
 こちらの起源については、おそらく神話のようなものだと思う。神話は至る所で見られるし、「型」がある。神話の世界では、「~しちゃいけない。絶対だぞ!」という約束は大抵守られない。間接的に「やれ」といっているようなものでさえある。
 「振り返るな」と言えば振り返って塩の柱にされたり生き返れなくなったりするし、「覗くな」言われれば覗きたくなるしなんか鶴がいたりするし、「この事は話すな」と言われたのに話しちゃって嫁に逃げられたりするし、「絶対に押すなよ、絶対だぞ!」と言われれば押したくなる。
 このようなルールが支配的なのが、広義の娯楽性、特に物語が組み込まれているものはその影響を強く受ける。このようなルールを満たしている物語を見聞きすると、我々は「面白いな~」と感じる訳だ。ツンデレええな~とか、ヤンデレええな~、とかそういうの。
 神話に見られるような物語の構造は、人間の頭に元から備わっている基本アプリのようなもので、ラーメンにおける醤油ラーメンみたいなもんだろう、というのが筆者の考え。先程の痛覚のようなもので、人間が面白いと思う、あるいは思いつく物語のプロットはそれなりに似るのだろう。

 とまあ、長々と書いたけど筆者のゲームに対する理解は大体こんな感じになる。万人が楽しいと思うゲームは現実的ではないが、多くの人が楽しいと思えるであろうルールを基に作られている。でもまあ好き嫌いはあるし、ゲーム以外にも娯楽はあるし、その娯楽も同様の作りをしているのではなかろうか。

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