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娯楽性について

 娯楽性はというのはもともと、筆者がスマホゲームを分析するにあたり、ゲームから分離した要素だ。娯楽性には狭義のものと広義のものとがあり、さらにまた娯楽性とは別に、商品性というものも存在しています。
 娯楽性の前に、商品性についてを軽く触れておきましょう。説明、と言っても商品性が指す内容は単純明快。商品性とはつまりゲームでの金の事です。ここでの金と言うのは、例えばゲーム内通貨やそれに準ずる立場にあるものではありません。現金の事、つまり円やらドルやらです。
 
 ゲームの話に何故現金の話が割り込むのかと言うと、この娯楽性やら商品性いう言葉が出て来たのが、スマホゲームの問題点を洗い出す事を目的とした場であったためです。詳しくは『スマホゲームのここが変だよ』を参照の事。以上販促。

 さて、娯楽性の話に戻りましょう。
 筆者は娯楽性を、前述の通り、狭義と広義の二つに分けて考えます。まずは狭義の説明から行いましょう。
 狭義の娯楽性と言うのは、ゲームのクリア方法や効率の良い進め方を考える事、あるいは行為そのものを指します。どうすれば一度の攻撃で、より多くのエネミーを倒せるか、あるいはどうすれば先のステージに進めるか、などの思考です。
 対して広義の娯楽性と言うのは、狭義の娯楽性ではないゲームの楽しみを指す語です。ゲームのアイテムをコレクションする事だとか、ゲーム内で繰り広げられるドラマが目的であるとか、そういったものが広義の娯楽性に属します。
 何故、「広義」の娯楽性なのかと言うと、これらはゲーム以外の娯楽や楽しみ、趣味から持ち込まれたものであると考えるためです。
 
 少し話が逸れますが、厳密な事を言うと、狭義の娯楽性と言うのもゲームに固有の要素であるとは言い切れません。狭義の娯楽性は、自身の利益を最大化する、と言い換える事ができるでしょう。
 利益を最大化する思考や行動、と言うのは例えば、取引だとか何かを選択する場面でしばしば現れる事があるでしょう。
 狭義の娯楽性に関しても、この点を指して、ゲームに固有ではないと言う事は十分に可能でしょう。
 しかし同時に、狭義の娯楽性を広義の娯楽性と比べた場合に、よりゲームの核に近いという事も可能でしょう。
 例えば将棋や囲碁のような、コンピューターゲーム以前から存在していたボードゲームで顕著な娯楽性は、狭義のものでしょう。
 これは筆者の仮説で踏み込んだ話ですが、コンピューターゲームに見られる広義の娯楽性は、コンピューターゲームの発展の過程で組み込まれた要素でしょう。

 話を戻しましょう。
 広義の娯楽性は、狭義の娯楽性以外のゲームの楽しみを指すという点から、指し示す範囲が広く、種類も多くなります。ゲームのシステムやコンテンツに限らず、ゲームでの人間関係を(便宜上)含める事もあります。そのような広義の娯楽性は、ゲームの周縁部と言えるでしょう。
 ゲームの人間関係と言うのは、ゲームの周縁部に存在するとはこういう事です。
 つまり、人間関係がゲーム、とは言い切り難いが、ゲームよっては逆の言い方、すなわち、「人間関係がゲームの一部に組み込まれている」という言い方が可能であるという点です。
 このようなゲームの人間関係というのは、厳密に考えた場合には不適当であるかも知れませんが便宜上、広義の娯楽性として扱っています。

 娯楽性の位置についても触れておきましょう。娯楽性の位置、と言うのは、娯楽性がゲームに存在しているのか、あるいはゲームのプレイヤーの側に存在しているのと、どちらだろうかという話です。
 これについて筆者は、原則的には、ゲームに存在するだろうと考えています。ゲームに存在しているそれら要素を、プレイヤーが楽しんでいる、という見方です。
 ただ言葉の使い方としては、プレイヤーの楽しみを指して使う事も可能でしょう。例えば、プレイヤーがアイテム収集を楽しみとしている状況を指して、「プレイヤーにとって広義の娯楽性である」というような使い方をするという事です。

 ちなみに、そのようにゲームに存在する娯楽性は、複数あっても良いでしょう。
 RPGを例にしてみましょう。RPGには複数の娯楽性、つまり物語やアクション、ミニゲームでのパズルゲームなどが娯楽性として存在すると考えられます。同時にそれら娯楽性のうち、どの娯楽性がプレイヤーの楽しみであるかは、同じタイトルを遊んでいるプレイヤー同士でも一致するとは限りません。
 ネットゲームなどに見られる「地雷」と呼ばれるようなプレイヤーについても、娯楽性の点からある程度説明ができるでしょう。
 
 余談になりますが、筆者は当初「地雷」と呼ばれるようなプレイヤーの区分をゲームとの距離で分けられると判断していたのだが、後に訂正しました。この「残滓」は前述の『スマホゲームの~』で目にする事ができます。

 話を戻しましょう。地雷が地雷たる所以はこうです。
 つまり、地雷が求めている娯楽性、つまり地雷がゲームに対して持っている目的が、他人の利益と解離しているためです。
 例として、勝つことが目的の対戦ゲームなどで闇雲に相手陣地へ突撃する、などの行為を挙げてみましょう。
 突撃している本人は敵陣に飛び込んでいく事がこの上なく楽しいのかも知れないが、そのような行為は大抵、勝利には貢献しません。
 プレイヤーの楽しみ方はいろいろあるだろうが、この場合は「相手に勝つ事」がゲームの想定されている遊ばれ方と言えるでしょう。
 そのようなルールが多くのプレイヤーの理解とされているゲームで、勝利に貢献しない行為を楽しむプレイヤーは、地雷の謗りを免れません。
 娯楽性についてを扱っているのに関わらず、地雷についてここまで熱が入っている理由は、筆者の私怨です。
 さて、その影響で何をどこまで扱ったのか少々怪しいのだが、再び話を戻します。

 娯楽性の区分は、それ単体では個々人の好みの問題でしかありません。広義が狭義に劣るだとか、あるいはその逆だとかを言うつもりはありません。
 というのも娯楽性と言うのは、ゲームを細分化して考えるにあたっての補助線に過ぎないためです。
 以上が娯楽性についてです。
 
 娯楽性と同様に、商品性と言うのもあるのだが(繰り返し言っているが忘れている訳ではありません)、これはまた別の機会にもう少し踏み込んで扱う事にします。
 商品性はそれ自体では悪さをしないのですが、娯楽性との関係次第ではゲームのバランス、ひいてはゲームとプレイヤーとの関係をも歪ませるような事が多々あります。

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