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商品性の強いゲームの問題

 今回は久しぶりにゲームを取り上げます。またネタに詰まった時には、ゲーム以外の話題を取り上げるつもりです。
 商品性娯楽性などの語については、前回の記事を御覧下さい。

 今回扱うのは、商品性の強いゲームが何故問題であるか、です。商品性の強いゲームの具体的な内容については、こちらでとり扱っています。
 内容の重複を避けるため、今回扱うのは、商品性の強いゲームが及ぼす影響です。まず、「ゲーム」という存在に対して与える影響について焦点を合わせましょう。ここでのゲームというのは、コンピューターゲームを指した語です。スマホゲームやいわゆるソーシャルゲームのような存在も含めて扱っています。呼称については、スマホゲームやその省略形のスマホゲーといった語をあてがいます。
 ここでのゲームという語を簡潔に述べると、ボードゲームやカードゲームを除外したゲームを想定しています。

 商品性の強いゲームは、スマホゲームに偏在していて、ゲーム全体からしてみれば、その割合はずっと少ないでしょう。ただ、商品性の強いゲームと人気ゲームという語はそう離れていないでしょう。
 ただこのようなゲームを考える上で、ゲームを取り巻く環境の変化を無視する事は、誠実でないでしょう。具体的な数字はさておき、ゲームに金を払う人間が(≒売上)減っている事は事実です。そのため、今までのように「パッケージで売る」という方法は、全く通用しないとは誇張ですが、通用しにくくなっています。
 そのため、基本プレイ無料として参加の敷居を下げたり、スマートフォンでゲームを発表するという事それ事態は問題ではないでしょう。
 問題は、このような新しいゲームの持つ構造と、プレイヤーの変質です。

 プレイヤーの変質というのは、課金額がゲームのやりこみを表す数字になるだとか、課金して得られるアイテムやキャラクターこそが、ゲームで最も価値のあるアイテムである、というような認識をプレイヤーが持つ事です。
 ゲームの面白さを伝えるにあたり、これがどれくらいすごい事なのかをくどくど説明するよりも、このような具体例を示して「すごい」と誇る方が、他人に伝える事が容易です。
 そのような文化がプレイヤーに浸透してしまえば、ゲームの側もそうしたユーザーの意識を反映せざるを得ないし、プレイヤー同士のコミュニケーションもそのようなものになりかねない。
 プレイヤーに踏み込んで言及するのならば、ゲームで他人に自慢できるような事をするというのは、それなりに難しいものです。誰にもできる訳ではありません。
 この点、ゲームのプレイ時間や課金額、あるいは金で解決できる問題を誇るというのは簡単です。課金で得られるアイテムやキャラクターの存在は、洗礼されたプレイングとは無縁です。ある意味でこれは、作業とも近いでしょう。作業と近い、というのは一切のプレイングと無縁であるという点を指しています。
 一言にプレイングといっても、要求される技術はゲームのタイトルによって様々あります。いくつか例を挙げると、コマンド入力の正確さや素早さ、マウスの繊細な動き、相手の動きを読む力、クソみたいな味方にも動じない精神力などが挙げられるでしょう。

 これらのうち他のプレイヤーがそもそも存在しないようなゲームでは、クソみたいな味方にも動じない精神力は必要とされないでしょうし、複雑なコマンド入力を要しないゲームであれば、コマンド入力の正確さや速さは求められないでしょう。
 ただどれも程度の差こそあれど、少なくとも課金するよりかは技術が求められます。そのような技術を迂回してゲームでの実績を誇る(誇れる)というのは、非常に危険です。というのもここには商品性があるのみで、一切の娯楽性が迂回されているためです。
 娯楽性のないゲーム、というのを言い換えると、商品性のみがあるゲームとなります。このような存在は限りなく博打に、つまりギャンブルに近い存在です。
 ギャンブルとゲームの違いはまた別の機会に取り上げますが、筆者のゲームとギャンブルとの認識は以下の通りです。ゲームとギャンブルとは区別して考えますが、確かに近い位置にあります。

 商品性の強いゲームの問題点の一つはここにあります。商品性の強いゲームは、ゲームとギャンブルとの境界を破壊する。
 加えて、プレイヤーをも壊す。これについては、プレイヤーの問題(≒プレイヤーの責任である)という面も確かにあります。
 プレイヤーが「壊れる」というのは、商品性から得られる「単なる刺激」にプレイヤーが慣れる事です。単なる刺激というのは、商品性が発揮する、疑似的な娯楽性と言い換えられます。プレイヤーが壊れるというのを同様に言い換えると、あまりいい言葉ではありませんが、依存症や中毒そのもの、あるいはそれらに近い状態ともいえるでしょう。
 娯楽性、特に狭義の娯楽性は、プレイヤーに思考を促します。将棋の対局で「適当にぼーっとやってたけど、なんか勝った」という事はあまりないでしょう。考える事は多くありますし、より深く考えた方が勝利に近づきます。この思考こそが、狭義の娯楽性が持つ楽しさです。

 対して、単なる刺激はこうした思考を完全に迂回し、プレイヤーを興奮させます。この構造を指して、ギャンブルであるとしています。
 厳密に考えるならば、ギャンブルにも娯楽性、特に狭義のものが存在します。その動機がどれほど理性的であるかはさておき、金を摩るためにギャンブルに参加しようとする人間はいないでしょう。
 商品性の強いゲームのうちガチャのようなコンテンツには、そのようなギャンブルに要求されるような娯楽性すら存在しないという点で、ギャンブルにすら劣るともいえます。
 ガチャのような仕組みはこうです。課金して、神に祈り、ボタンを押し、一喜一憂する。どこにも娯楽性がありません。単なる刺激があるのみです。
 商品性の強いゲームに関わるプレイヤーの全てが、中毒者や依存症という訳ではありません。加えて、単なる刺激のみならず、娯楽性のあるゲームに対して依存する事もあります。そのため、商品性の強いゲームが引き起こす問題としたいのは、このような商品性の影響を受けたもの、つまり「単なる刺激」を有すものとします。
 これが、商品性の強いゲームそれ自身とプレイヤーへの問題です。プレイヤーといっても、このプレイヤーというのは、実際に商品性の強いゲームのプレイヤーに限った話です。
 プレイヤーに留まらない影響もあるでしょうが、これは別の機会に扱います。 

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