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長田健吾のストーリー

<ただいま>

 小さいころ、仕事から帰宅した父親が言う「ただいま」が嫌いだった。
活力なく疲れだけの「ただいま」だった。
笑顔で温かく私といる父とは別人だと小さい頃の私は感じていた。
そして、父を全く別物にしてしまう大人の社会や父が毎日通っている会社というものが怖いという感覚を知らず知らずに得ていたのだろう。

それから約30年後。私も父親になっていた。

企業勤めをしていた仕事帰りのある日のこと。
玄関で言った私の「ただいま」が父親にほんとうにそっくりだったことに気づく。
子供のころに嫌いだった「ただいま」を私が家庭に持って帰ってきたこと。
そして、それを大切な家族に届けていたことが、衝撃であり悲しみであった。


<父のようになりたい>

 小さいころ、親戚などまわりの大人に「お父さんはすごいのよ」「お父さんみたいになるのよ」ということを何度もいわれた。
一流の大学を出て、一流の会社で早く出世している父みたいになるようにということが人生の目的として、いつのまにか私の心の中におかれていた。

5歳のときだとおもう、何かの話しの流れで高卒の母が

「きっと、おばあちゃん(私の父の母)は、お父さんは学歴も家柄も良くない私となんで結婚したのと思っている」

と話したことがあった。

心の中で、私がいい学校に行かないと母の居場所がなくなってしまうのではないか。そんな事も思っていた。

<自慢の息子>

 父に追いつくことはなかったけど、誰もが知っている大学に入り、誰もが知っている会社に入っていた。会社でも順調に出世もしていたし、大きな仕事や難しい仕事をまかされていた。学生時代から付き合っていた彼女が、妻となり母となっていた。休みをつくっては旅行にいったりしていた。

絵にかいたような家族になっていた。

そんななか、実家に帰省した際に母から聞いた一言。
「長田さんの息子さんは有名な会社にお勤めで、家庭も築いてお孫さんの顔も見せてもらえていいわよね。うちの子なんか・・・」

その言葉をきいて私は母にこう伝えていた。
「自慢の息子をもって幸せでしょ」


<出会い>

 技術畑を歩んでいた私が人事に異動となり「組織・人材開発」を担当することになった。
「偉くなって戻ってくるんでしょ」と周りから激励されるとともに、その後のステップを約束されている感覚もあった。

そこで、ある方と一緒に仕事をすることになる。年間何兆円を売り上げる企業の社長や学会の会長も歴任された、経営者としても技術者としても超一流の方であった。

その方にはじめてお会いした際に伝えられた言葉。
「長田くんの仕事は、人の気持が分かる人を育てることだよ」「耳編の聴くを知ってる?」

会社の目標や上司の期待に応えるために仕事をしていた私。人をどの様に動かすかを考えていた私にとっては、「その気にさせて人をうごかすんでしょ」という感覚でこの言葉をうけとっていた。

それは、大間違いだったと気づくのは数年先。

「恩師」との時間がはじまる。


<聴く>

 恩師の教えは、ビジネスの世界で成功を収めるための知識とスキルがあれば大丈夫だと思っていた私にとっては???の連続だった。
 ただ、よくわからないなりにも「聴く」をやりつづけようとした私がいた。

ある日のこと、たまたま本屋で手にした「マンガでやさしく分かるU理論」。

手に取った瞬間から立ったまま2時間で読み切った。
「聴く」とはこういうことなのか。
わたしの「聴く」が加速しはじめる。

まわりで一緒に働く人の想いを聴く。「あなたの想いを聴く」がどんどんと重なってくる。
いままでと違う感覚で人と接している。ひとりひとりの想いが表出してきている。
いつのまにか、目の前に現れる世界が異なっている。

そんな体感を得る日々がはじまる。何かしら手応えを感じていた。

<自分自身の想いを聴く>

 「そろそろ技術に戻ってきなさい」という言葉が組織から私に届く。
 それは、「1つ上の立場で働ける」ことであり、昔の私なら喜んでいただろう。
 その時は違った。「嫌だ」と想った。

 今までの私とは違うものを大切にしている私がそこにはいた。

 それを口に出すのはものすごく勇気がいることだった。
 口に出すことで、いままで私のことを大切にしてくれた人を困らすかもしれないし、もしかしたら裏切りと思われるかもしれない。
 組織の中では飲み込まなければならない言葉があることも知っていた。
 
 でも、私は口に出した。

 願いはかなわなかった。
 
 「自分自身の想いを聴く」がはじまっていた。

 異動後に、冒頭の「ただいま」を耳にする。

 子供のころに嫌いだった「ただいま」を私が家庭に持って帰ってきたこと。
そして、それを大切な家族に届けていたことが、衝撃であり悲しみであった。

「自慢の息子を持って幸せでしょ」と言っていた自分が薄く見えていく。

それは、周りの期待や世の中にあると思い込んでいる正解を追い求めていた自分が崩れた瞬間だったのだと想う。

 「私の幸せってなんだろうか」
 「一回しかないこの人生で私が何を大切にしたいのか」
 
を問い始める。

 
「自分自身の想いを聴く」がどんどん重なってくる。

諦めていた自分、やればできるのにやらない自分。いろんな自分に出会う。

小さいころから電車が好きだった私を思い出す。
いままでお世話になった人の顔や教えを思い出す。

選択をとることで、どれだけ妻に不安な想いをさせるのか想いをはせる。
選択をとることの怖さが聴こえてくる。

「諦めたくない」

17年間勤めた会社、定年まで働くものと思っていた会社を辞める選択をする。


<ひとりじゃなかった>

 「よく独立したね。」「生活できるの?」「転職は考えなかったの?」

 人事領域での転職も考えたけど、17年間社会人生活の殆どを技術畑ですごした私の人事領域での市場価値は0だった。転職をさせてもらえなかった。

 勝算なんてなかった。でも、自分の人生を諦めたくなかった。

退職後の生活がはじまる。
ひとりで歩き始めたとおもっていた。

 「おさっち、いま何しているの?」 「ちょっとランチでもしようよ」
 
たくさんの方が声をかけてくれた。みんなが心配してくれているし、応援してくれている。うれしかった。

ひとりじゃなかった。たくさんのものがあった。

そんな時に、合同会社withfeelingの創業メンバーとなる佐藤瑠依と伊藤恵子と出会う。

3人で活動しはじめのころに、「何にもないわたしたちとどうして一緒に活動してくれるの?」と 恵子に問われたことがある。

なんと口に出したかは覚えていない。

でも、こころの中でつぶやいていた。
「僕は何もないと思って歩いていた。寂しいと思っていたこともあった。でもいまは違うよ」と。

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