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新型コロナウイルスの流行で考えた~人の命より重いもの~

日に日に増加する新型コロナウイルス感染者とそれに伴う自粛ムードの拡大。イタリアなど諸外国の事例を見ればこの傾向はしかるべきといったところだろう。春になったというのにこの新型コロナウイルスは今のところ収束を垣間見せることなく拡大している以上この先もこのウイルスは「撲滅」されることなくこの地球上に残り続けていくのではないかと勝手に予想している。しかしそれはとても恐ろしいこと…だろうか?

よく考えてみてほしい。身近で類似した例であればインフルエンザがある。もはや冬の風物詩ともいえる存在になっているインフルエンザであるが、この病もご存知の通り不治の病などではない。が、直接的および間接的にインフルエンザの流行によって死亡した人の数は毎年1万人にのぼるともいわれる。(厚生労働省のHPより)1万人もの人の命が毎年インフルエンザによって失われている。これは死亡者数であるので感染者数はこの何倍にも上る。にもかかわらず私たちは何の変哲もない生活を毎年送っている。せいぜい学校のクラスで流行が認められれば学級閉鎖を行うくらいか。なぜそのような事態を我々は当たり前のように受け入れているのか。それは「慣れ」という重りと日常生活を載せた皿とインフルエンザへの恐怖を載せた皿を吊り下げている天秤を我々は持ち合わせているからである。「慣れ」の重りは当然重たいので日常生活を載せた皿のほうへ天秤は傾く。この「慣れ」の重りは、予防接種といった具体的な対処法や罹患した際には病院へ行きタミフルを処方してもらうなどといった経験則など様々な要素から成り立っている。この重りのおかげで私たちはインフルエンザの流行シーズンになっても支障なく「インフルエンザへの感染の可能性が高まる日常生活」を送ることができている。このような状況では現在のような自粛をする者はいない。だが2009年のようなインフルエンザの大流行といったような状況になれば当然「慣れ」の重りは通用しなくなりインフルエンザへの恐怖を載せた皿へ天秤は傾く。そうなればインフルエンザへの恐怖に対処する何らかの策を人々は講じる。

別の例を挙げよう。

自動車の免許を持っている人は多いだろう。ドライブから物流まで自動車は社会のあらゆる面に多大なる影響を与えている。それほどまでに自動車は便利だからだ。だがこの自動車にも当然負の側面が存在する。それが交通事故である。平成27年のデータによると1年間に4117人もの人が交通事故によって命を落としている。これは約2時間に1人が命を落としているという計算になる。(全日本交通安全協会のHPより)が、しかしである。ちょっと窓から外を眺めてほしい。よほど辺鄙な地でない限り、窓からは道路、自動車の姿、音、轍といった自動車に関連する景色が映っているはずだ。毎年4000人近い人の命を奪う凶器がそこら中に存在しているにもかかわらず、人々はそれを当たり前のように受け入れている。それは、自動車の利便性に加えて「慣れ」の重りを載せた皿と交通事故で死ぬこともしくは加害者となることへの恐怖を載せた皿を天秤にかけた結果、自動車の利便性と「慣れ」の重りを載せた皿に天秤が傾くからである。4000人もの人が亡くなるということは4000人近くの加害者がいることになる。といっても日本の人口を1億とすればその加害者になる確率は0.004%である。大半の人間はこの数字を小さいとみなすし、大半の人間はそのような重大な事故に直面したことがないという「慣れ」を積み重ねている。もちろん自動車の物流によって支えられている食料網などを考えるとこの天秤はもう少し複雑になるのだがここでは直接的な関係のみを考える。

インフルエンザと自動車の例、全くかけ離れた例に思えるかもしれないが「慣れ」の重りを用いることで死への恐怖を和らげているという共通点がある。そうすることで私たちは何の変哲もない日常生活を送ることができている。しかし、両者のケースとも死者を0、もしくは0に近づけることはできる。簡単なことだ、インフルエンザの場合なら流行シーズンになれば今回の事態のように外出自粛といった策を講じれば感染者、死者数は減らすことができる。自動車の場合はもっと簡単である。自動車を運転しなければよい。そうすれば4000人もの命は助かる。すべての人が鋼鉄の物体に身を任せてペダルを踏まずハンドルを握らないだけで4000人もの命が救えるのである。現在ネット上では家にいるだけで世界が救えるなどという文言が流行っているがそれと同じくらい簡単である。にもかかわらずこの社会はそのような動きを見せることはない。死因が新型コロナウイルスであろうが、インフルエンザであろうが、交通事故であろうが同じ命が落とされたことには変わりないにもかかわらず、だ。なぜか?それほどまでにあの天秤は正確だからだ。「慣れ」の重りがあるだけで天秤は人命より重いほうへ傾くことがあるからだ。このことは極端な言い方をすれば命より大切なものが社会に存在するということを意味する。

今回の新型コロナウイルスの流行に伴う死者数は、俯瞰的に見れば現時点ではインフルエンザの毎年の死者数、交通事故による毎年の死者数には遠く及ばない。(もちろんこれからの感染状況によってはその数字に追いつく可能性はある)にもかかわらずこれほどまでに社会全体で外出自粛をはじめとする様々な策を講じているのは「慣れ」の重りが全く存在しないからだ。この重りが存在しない以上天秤は新型コロナウイルスの流行に伴う死への恐怖に傾く。が、このまま新型コロナウイルスの流行が収束する気配がなかったら…ワクチン開発などを契機に新型コロナウイルスはインフルエンザのように社会に定着するのではないか。新型コロナウイルスが収束して日常生活に戻ることができるのが最善であるが、このウイルスと共生していくプランも考えておかなければならない。2つの例からわかるように本来人間の天秤は日常生活を載せた皿のほうへ傾く傾向があるため、今の状態を永遠に耐え続けることができるほど人間は強くない。その時には新型コロナウイルスに対応した「慣れ」の重りが完成している必要がある。その重りさえ出来上がれば今のような恐怖におびえることはなくなる。が、それにはまだ時間がかかるであろうことは言うまでもない。

*この記事は深夜テンションで1時間で書きました。批判等ご自由にどうぞ。

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