見出し画像

更新する遺影 1

「遺影を撮りたい」
そう話すと、周りの人たちは黙った。

中には、どうして?と関心を持ち聞き返してくれる人もいたが、ほとんどの人は話題を切り替えるか、気まずそうな素振りを見せた。

「どうしてそう暗いことばかり考えるのか」

「不謹慎」

「死をなんとも思わないの?」

「こわい」

そう言われたこともあった。

みんな死にまつわる話しを避けたがり、タブーだと言わんばかりの視線を向ける。


わたしにとっては仕事、将来の目標、関心のある分野、やり甲斐、それと同等に遺影のことを話している。それでも、死を考えるだけで気持ちが暗くなるだとか、死ぬ準備をしているみたいで嫌だと拒絶されてしまう。

死は暗くない。死を思っているから遺影を撮りたいのに。全員がいつかはちゃんと死ぬのに。この世に生きている全員に、平等に用意されているものが死なのに。


いつからか自分が取り組みたい活動として、遺影を撮るという野望のような目標を掲げるようになっていたが、そのはじまりは身近な人の死がきっかけだった。

以前『ウィッチンケア vol.10』という文芸誌に「叶わない」というエッセイを寄稿した。その中では祖父、祖母をはじめとする家族との話を中心に、葬儀のときにはじめて感じた“遺影への違和感と疑問”について、当時このように綴っていた。

“死を前もって予言するなんてことはもちろん出来ず、彼、彼女らは事故や病、中には自殺で、突然この世から姿を消してしまった。葬儀場へ行くと、たくさんの花に囲まれた遺影が目に入った。それは過去の卒業アルバムの写真や、旅行などの合間に撮られた記念写真の一部を切り取ったもので、急な死への間に合わせだと簡単に想像することができた。写真の中で笑顔を見せている人は、何度照らし合わせても目の前にいる本人とは似ても似つかず、少なくとも、私が知っているその人たちの姿とはまるで別人だった。故人を送り出すその時に、何年前のものかも分からない写真が堂々と掲げられている様子に違和感を抱き、そして虚しくて腹が立った。”

“人生の中で誰にでも必ず訪れるもの、どんな人生の節目より、たくさんの人が会いに駆けつける日、それが死ぬ時だと思っている。そんな一番大事な日に、人生最後の日に、故人は写真を選ぶことができない。”

“生きているわたしにできることは、写真を撮ることだ。”

生きていると、しあわせな瞬間を記録することが多い。ウェディングフォト、マタニティフォト、ニューボーンフォトなどがそうだ。

「最高の瞬間を残す」
「幸せを形に残す」

誰のために?
それは“自分・自分たちのために”だ。

それならば、遺影はなんのために残す?
“大切な人たちのために”
“生きている人のために”だろう。

葬儀に参列する、いま生きている、これからを生きていく、この世にいる人たちのためにだ。

眠っているその人の最期と、生きていたその人の姿が唯一重なる瞬間。

遺影を見るのは故人じゃない。
生きているわたしたちだ。

全員がいまこの瞬間も死へ向かって生きている。その時間軸に寄り添うように積み重ねていく肖像たち。

わたしは更新していく遺影を撮りたい。
生きている人たちのために、大切な誰かがいる人のために、そして自分自身のために。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?