見出し画像

舞台『物語なき、この世界。』感想

この舞台の感想を書くことはとても難しい。それは本作がとても難解であるとかそういうことではなく(至極簡単な内容というわけでもないが)、「どうしてみんな映画を観るんだろう、自分の人生が退屈だからじゃない?」なんてセリフを聞いた私という観客、そう、主人公でも脇役でもなく「観客だった私」がなんのてらいもなく「今日は舞台を観てきたよ⭐︎やっぱ非日常の空間で物語に浸るのって幸せだよね〜楽しかった!」なんてどのツラをさげて書けるというのか、という意味である。

◆我々観客もまたあのゴジラロードを、映画を観に歩いていた人間の一人だったとすれば

どうして私は舞台を観に行くのだろう?
それは岡田将生が出るからである。
ではどうして岡田将生を観ずにはいられないんだろう?岡田将生と、彼が演じる「物語」を求める私とは何なのか?
わたしは、舞台作品を観てそこに自己を投影し、自分が主人公の物語を創り出そうとしているのか?
そういう自問自答を始めていくと、とてもじゃないがなにか感想を書こうという勇気が出ないのである。

だいたい、この文体もなんだか恥ずかしい。物語なき、の「き」みたいなイヤラしさ。「〜のである」「というのか」なんてとってつけたような言葉を使って感想を書いている私はいかにも、舞台の物語に浸り、この物語に自分なりに意味づけを行い、私の人生において本作を観たことになんらかの意味を見出そうとしているかのよう。つまりまさに、「私が主人公の物語」を創り出そうとしているのである。例えば「休日に劇場に足を運び、充実した時間を過ごすOLの私」、のような物語を。
少しだけ話は逸れるが、昨日私はそれこそトーホーシネマズで、映画『東京卍リベンジャーズ』を観てきた。吉沢亮が観たくなったという欲望がそもそもの理由であるが、久しぶりに天気が非常に良く青い空が爽やかで、家の中に閉じこもって昼寝をしているだけではなにか無駄な気持ちになったことも大きかった。私は、私の一日という物語が無為に終わることを恐れて映画館へ出向いた。少なくとも映画館に行けば私の人生には、なんらかのドラマが生まれるはずである。マスコミは、「熱くなれる」「エモくなる」「泣ける」と声高に叫んでいる。
封切り直後ということもあり、映画館にはたくさんの老若男女がいた。みんななんでここに来たんだろうって率直に思った。この世の中には、土曜の昼から映画を観ようって思う人がこんなにいるのか。みんな、何を思い何を求めてこの場に集まっているのか。
ほんとに、そんなことを昨日思ったばかりだったから、舞台の台詞が刺さりに刺さりまくった。今日もシアターコクーンを出た後、劇場から出て三々五々帰路に着く人々を観ながら、この人達はどうして舞台を観にきたんだろうって思ったし、それぞれの観客のなかでこの舞台がどんなふうに「彼らの物語」になっていくのだろうと考えてしまった。
今、目の前に歩いている恋人たちがなにか感想を話している。彼らにとってこの舞台とは、二人のデートを彩る思い出、という物語になるのだろうか。その物語のなかでは、舞台の主役たちですら彼らにとっての「脇役」である。
そして斜め前には女の子たちがいて、少し遠い席だったが初めて岡田将生を観れてよかったと嬉しそうに話している。めちゃくちゃ、気持ちがわかる。彼女達の物語のなかでは、本日の舞台のメインテーマは「好きな俳優を生で観ることができた」かもしれない。だがそれの何が悪い。いや、良いも悪いもないのだ。だって「自分」は物語の主人公。自分の視点こそが、物語の全てである。劇中、自分達は主役だと確信した菅原と今井が「あいつらはモブ、あの警官にはもう台詞はない」などと得意げに言ってのけたにも関わらず、彼らにも名前と人生、そして物語の続きがあったことと同じように。
物語を求めて日々生きる人間の一人である私もまた『物語なき、この世界。』の感想をまとめ、この舞台を観たことに意味を見出すことで、「物語」を創り上げようとしている。それはまるで、自分の創り上げた物語に陶酔する、自殺したあの冴えないおっさんと同じではないか?「物語」を拒否しながら、自分が元夫を死なせたのだという自責の念から逃れるように結局は自分にとって都合のいい「元夫の死の真相の物語」を作り始めたバーのママと私は、何が違うというのだろうか?あ、ほらこうやって私は自分を、物語のなかの登場人物に投影してしまっているのだ。


◆自分の人生の希薄さに耐えられない

本作は徹底して、「物語らしさ」を忌避することでストーリーが進行する。
菅原とヘルスで二度目の邂逅を果たしたおっさんは菅原にエールを送るが、そこに大音量で流れるあいみょんのわざとらしさは、彼が創り上げようとしている「奇跡と感動の物語」を茶化しているようだったし、人殺しの犯人というサスペンスの主人公のようなポジションを手に入れた菅原と今井はしかし、物語の登場人物のように振る舞うことができない。物語によく描かれる劇的な感情は自然に沸き起こるものではなかったのだ。無理やり見知った物語に自分の感情を当て嵌めようにも、ちぐはぐになってしまう。
ラストシーンで菅原は、単独主演だよと今井に言われながらカメラを向けられる。俳優志望の彼なら本来喉から手が出るほど欲しいサクセスストーリーだろうに、菅原の口をついて出た言葉は、「そんなことより早朝ソープいかね?」であった。

誰かの創り上げた物語(それはあいみょんや菅田将暉の歌であったり、トーホーで上映されている映画であったりする)に乗っかって自分を語ることも、自分のエゴで他人を語ることもせずに生きていけばそこに何が残るのか。その答えが、「人生とは、物語になれなかった記憶の残骸」というセリフだろうか。
人生には、記録されることも記憶されることもなく、とりとめもなく意味もなくなんのドラマもないどうしようもない時間が膨大に横たわっている。それこそこの2時間45分で菅原と今井が過ごした時間のような、無意味でくだらない時間を何年も、何十年も。我々は物語を作り上げることのエゴと物語のない人生の虚無を、舞台という物語を通じて見せつけられた。誰の創り上げた物語にも乗っからず、自分を主役に祭り上げるエゴに塗れた物語をも語らずに丸裸の、「私そのもの」でいることはのつまらなさと虚しさを、見せつけられたのだ。そして、この舞台を退屈だと思うにしろ刺激的だと思うにしろ、物語を求めてやまない人間の性を思い知ることになるのではないかと思う。なぜなら退屈だと感じるということは、自分の人生に意味のある時間を与える物語を欲しているということだろうし、「物語のなさ」に刺激を受けているのならば、その刺激はまさに、『物語なき、この世界』という物語から得られているからである。

脚本・演出の三浦さんは本作を執筆するきっかけになった出来事として、ゴジラロードを通って映画館に向かう人々を見ながら、なぜ人は物語を求めるのかと思ったことを挙げている。
その問いに対して私は、「自分の人生の希薄さに耐えられないから」ではないかと答えたい。つまり「人生とは、物語になれなかった記憶の残骸」であることを受け入れられるほど強い人間など、ほとんどいないのではないか。
人生は長い。何十年もの長い長い時間、自分に降りかかる出来事になんの理屈もつけず意味も見出さず、自ら物語の主人公になろうとするエゴから逃れて生きることは、苦痛で仕方ないのではないか。だから人は、自分を主人公とした物語に陶酔し、励まされて生きている。或いは自分で物語を創り上げられなければ、出来合いの物語に自分を投影する。
仕事に邁進するひと、家族を大切に日々を過ごす人、趣味に忙しい人、さまざまな人々がいるだろうが意識的にしろ無意識にしろ皆ひとしく、物語のない人生の希薄さに耐えられず、自分の人生に「仕事を頑張る」「家族と幸せになる」「趣味に人生を捧げる」という意味やストーリーを見つけだそうとしている。
歌や舞台、映画やドラマ、小説といった物語は、退屈な時間を少しでも意味のあるものにするために消費されていく。特に近年はアマプラやネトフリに代表されるようなサービスで映画を手軽に手元で観れるようになったし、以前に比べて漫画を読む人は増加した。みんな、何かしらの物語を時に「みんなが観ているから」という理由で追われるように消費しているような印象すらある。情報化社会の中で「人生の成功者」の物語を大量に目に入れることができる状況が、菅原や今井のように自堕落に主人公にもならずに生きることを許さない風潮を生んでいるのだろうか。
では物語を消費することが悪なのかというと、私はそうは思わない。物語は無用であり、人生の本質ではないからこそ、救い、といっても良いだろう。苦痛に満ちた無意味な時の流れ、滅多なことでは主人公にはなれない、誰も自分のことなど見てはいない人生を、「自分を主人公にした物語」に変えてくれる「救い」。私は、バーのママが元夫の死の真相の物語を創り上げた時、どうしようもない彼女のエゴを感じると共に、これは遺された彼女の心を救う物語なのだなと感じたのだ。
本作は、物語を求めてやまない人々のエゴを引き剥がし、物語の無意味を説いて人生の本質を提示して見せたけれども、じゃあ物語なくして我々が生きていけるのかというとそれは話が違ってくる。つまるところ「人生は物語」ではないけれども、「人生は物語だと思わなければやってられない」のである。

◆岡田将生の印象

普段、岡田将生さんを微力ながら応援させていただいてるのだが、今回のような徹底したダメ男の役はわりとめずらしいのではないだろうか?特に舞台では現実離れした美しい容貌を生かした役柄も多かっただけに、「風俗に行ってるかんじ」が滲み出る猫背がすごく良くて、観ていて楽しい。こういう、陰気な人間くささが滲む役はもっといろいろ観てみたいと感じた。
あと、相変わらず台詞が聞き取りやすくて声が通ることに感動。
中盤くらいから項垂れてじっとしてる場面が多く、これで主演なの?と思わずにはいられないこともあったものの、「物語なき、この世界。」において主演は語り手の視点によって変わるものというメタファーであると考えれば納得。それに、主役になれない男達の話だし……でも最後に、床に転がってヤダヤダしてるおっきな赤ちゃんみたいな岡田さんは完全に優勝してたし、ホッコリしてしまったよね……なんかあの時だけ岡田さんのファンの心が「カ ワ イ イ」で一致団結したような気がした……床を転げ回って駄々をこねる事が可愛いで許される成人男性、国宝です。

(2021.7.11観劇)

この記事が参加している募集

舞台感想

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?