映画『母なる証明』感想

観終わったあとの、このなんとも言えない余韻。絶妙に、気持ちのいいところに落ち着いてくれなかった。腹の中に渦巻く感情に翻弄されながら、良いものをみたのだと思うことにする。

◆貧しい庶民の描き方がエグい
本作は『パラサイト-半地下の家-』の監督、ポン・ジュノの2009年上映作品。私はパラサイトの方は映画館で鑑賞したので、どうしてもパラサイトを作った人の作品、という目で見てしまう。だからなのか、貧しさ、の表現のエグさが際立って目についた。
主人公のトンジュは知的障害があり、母親はそんな息子を溺愛し、殺人の嫌疑がかけられても無実を証明するために奔走する。私がここで注目したのは、次々と移り変わる殺人犯の真犯人候補が、揃いも揃って貧しさのなかに生きる者達であったことだ。トンジュの悪友はすぐに金をせびるし、次に真犯人と思われた男は廃品回収を営んでいた。最終的には親のいない天涯孤独の男が犯人として逮捕される。そもそもはじめにトンジュが捕まり、真相も明かされぬまま犯人に仕立て上げられようとしたことも、彼が障害があり、貧しく、弁護人すらまともに雇えない社会的に立場の弱い人間だったからだ。そんな人間たちの間で、犯人役が次々とバトンパスされていく。
そして殺された女の子も、貧困にあえぎ身体を売っていた。自分と寝た男の写真を撮り、ケータイそのものを捨てたいと言った彼女の苦しみには、涙が出てくる。
悪友のジンテの言葉が印象深い。「町全体がおかしい」と。弱い立場の女の子を寄ってたかって食い物にしたかと思えば、殺人犯の役柄すら、ろくな捜査もされずに貧しい者たちに押しつけられる。
この町ではベンツが走っているだけでその行き先がわかる。金持ちなど一人も住んでおらず、皆が程度の差こそあれ、裕福な暮らしは送っていない。貧困とは、そのまま無知、教育の行き届かなさに繋がる。そしてその無教養は人を恐るべき方向に捻じ曲げる。
本作では母親の、息子への狂気じみた溺愛ぶりが描かれるが、彼女があのように生きねばならなかったその根本には、貧困、があるような気がしてならない。
彼女は漢方の原料を売り、ハリの闇治療を行うことで生計を立てている。働けない息子を養うのに十分なお金が稼げるとはとても思えない。きっと、五歳のときに無理心中を行おうとしたのも、女手一つで障害のある息子を育てていく困難が、彼女を苦しめたからなのだろう。
彼女が漢方とハリを行なっている、というのが示唆的だ。映画ではこの二つは、非科学的なもの、迷信じみたもの、を象徴するものとして登場しているように感じた。そしてそういった非科学や迷信に囚われることと教養のなさは直結する。
息子への盲信、過保護な態度、バカと言われたらやり返せをひたすらに教え込む、その狂信的とも言える母親のあり方は、貧困の暮らしのなかで懸命に息子を育てたことで醸成されたのだろうか。彼女の世界は、自分と、息子だけでできていた。母親が愛する息子と、自分自身のプライドを守るために教え込んだ「バカと言われたらやり返せ」が、純粋無垢で虫も殺せないトンジュが少女を殺すキッカケになってしまったのは皮肉としか言いようがない。社会の最下層同士が出会ってしまった、誰も悪くない殺人事件なのだ。
ラストシーンに、自分の太ももをハリで刺し、自分の心の中の罪悪感、不安それらをすべて忘れ去ったようにして躍る母親の姿はなかなか強烈で、忘れられないものとなった。彼女の教養のない愚かしさと、図太さ、強さには恐れ入る。「清貧」なんて言葉を嘲笑うかのような貧しい庶民のえげつなさ、強さを見せつけられた感覚に陥ったのは、『パラサイト』同様だった。

◆溺愛、という言葉では綺麗すぎると思わされる、母のトンジュへの愛
一般論として母親というものはとかく、息子に対して過保護であることが多い。母にとって娘がもう一人の自分なら、母にとっての息子とは永遠に「自分のもの」である。母がトンジュに対して恋人を見るかのように女の顔を見せるという感想を見かけたこともあるし、そうではなくていつまでも可愛い五歳の頃のままのように見えているのだという感想も見かけたことがある。個人的には後者に近い意見だが、きっとどちらの側面も持ち合わせているのだろう。(またそのように意図的に撮影されている可能性もある)
どちらにせよ、この母親の異常なところは、息子と自分との区別がしっかりついていないところだ。息子は自分の意のままになると思っているし、息子と生死を共にすることが愛だと思っている。それは立派な暴力だというのに。
五歳の頃、無理心中を図ったというあたりからも息子を自分とは異なる人格として認めていないのがわかるし、あの時死んでいれば幸せだったのにとさらりと言ってしまえる母親は、きっと自分の残酷さに無自覚なのが恐ろしい。
自分達は一心同体。その言葉を体現するように、息子が犯人だと知る目撃者を衝動的に殺してしまう。この時引き金になったのも息子と同じ、バカ、という言葉だった。人を殺して現場から逃走し、侘しいススキ野原に現れる母親。ここで冒頭の踊りのシーンが、このシーンに接続するのだとわかるのだが、鳥肌が立った。
わたしには、あのススキ野原が彼女の求めた天国の花畑に見えたのだ。本当なら息子が可愛い可愛い五歳の時に、一緒に行けたはずの美しい天国。
今も相変わらず苦しい生活を強いられ、息子は捕まり、自分は人まで殺した。でもそれは全部、息子のため。息子がいなければ自分はもはや何者でもない。彼女には、トンジュしかない。だから、息子と同じ殺人犯、一心同体になったことに悔いはないだろう。だけど、それでも、なぜ自分達は生き延びてしまったのだと思う心は消えないのだ。消えないけれど、生きねばならない。現世は天国のように美しい花畑などなく、侘しいススキ野原が茫々と広がるのみ。だけどそこで、踊って、幸せだと言い聞かせて生きていくしかないのである。
出所後のトンジュと母親が二人で食卓についているシーン、水を飲んでいるのがとても不気味で、さすがの演出だった。なぜなら本作では、水、が"罪"を示唆する舞台装置として機能しているからである。
物語の初めのほうに、立小便をするトンジュに母親が薬を飲ませるシーンがある。彼の体外に流れ出る液体は黒くないが、体内に流し込まれる薬は黒い。これは、彼がこれから罪を犯すことを示唆している。また、真犯人かと思われた悪友ジンテの部屋でペットボトルの水をこぼしたシーンも伏線だ。透明な水が彼の指に触れることは、彼の潔白を示唆していた。そして母親が廃品回収の男を殺したシーン。頭から流れるドス黒い血は彼女の犯した罪を示す。どちらも人を殺したのにそれを隠して生きる二人が、まるで自らの罪をなかったものとするかのように仲良く最後に透明な水を飲むのは、なんと恐ろしい場面だろう。だが本作は、そんな二人の在り方を人でなしだと単純に非難するものではないだろう。
人を殺してまで貫きたかった息子への愛。
人を殺してまで生き延びなければならない現状。
そんなものを抱えて彼女は、日常の暮らしをこれからも営み続ける。
監督は、ニュースや新聞で取り上げられるような殺人鬼の人生記ではなく、ありふれた貧しい町に住むひとりの母親の人生を克明に、ときにコミカルに描くことで、ただ、生きることの困難と、苦しさと、汚さとを語ろうとしたのだろうか。

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