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映画『燃えよ剣』における、雪の人物像脚色に関する覚書

映画『燃えよ剣』は、膨大な原作小説のエピソードや複雑な史実をうまく処理しつつ、原作者・司馬遼太郎の描いた「己の美学に生きる土方歳三」を、監督・原田眞人のフィルターを通してうまくスクリーンに現出させた作品であると感じる。なかでも近藤勇、土方歳三、沖田総司といった主要キャラクターの再現度の高さには感服させられる。たとえ語られるエピソード自体は映画オリジナルだとしても脚本の隅々にまで"司馬遼太郎らしさ"が行き届いており、原作のイメージと大きく乖離することはない。

ゆえに本作のもう一人の重要人物、雪のキャラクター設定に、現代的な女性となるよう脚色が加えられていることは注目に値する。

男に愛されるためだけの、都合のいい女。
人物像に深みのない、主体性のない女。
かつて多くの作品にはそういった類のヒロインがなんの疑問もなく描かれ、消費されていた。

では小説の雪はそういった類のヒロインとして描かれたのか。私は、そこまでの批判を加える必要はないとしつつも(後述の通り映画版の多くの脚色は、小説版の描写を膨らませることで成り立っている)、映画版はそうした旧来的な女性像を明確に否定していると断言する。
そこで、小説版と映画版の差異を整理しながら、雪がどのように、生き生きとスクリーンで躍動しうる女性に生まれ変わったかを考えていきたい。


◆芸術家としての共感

まずは彼らの初対面のシーンから紐解いていこう。
小説版の土方の、雪に惹かれるまず第一の理由は、彼女が江戸の女だったからだ。これは土方歳三という男が京都にのぼってからも武州のバラガキである(=喧嘩師であり続けるという美学を貫いている)ということを暗に示すものであり、京の女にかまける近藤との対比でもある。また土方が雪に、母の面影を見る描写もある。
雪の心情描写はなく、土方が自分への好意を感じ取るのみである。

映画版においては、まず土方が雪の出身を聞き、名を聞き、そして雪、から連想して俳句を読む。ここで雪はその句の元ネタを察し、「松尾芭蕉の句は好きです」と風流に言葉を交わす。とても新撰組副長と武家の未亡人の会話とは思われない。美的なものを愛する人間同士の会話であり、二人の間には共感に基づく好意的な空気が醸成される。
さらに土方は、雪の残酷絵を見て「私の住む荒野によく似ている」という。このシーンからも、精神的に近しい者同士が共感しあい、好意を寄せていくさまが読み取れる。
剣で人を殺しに殺しに、新撰組を日本一の喧嘩師に仕立て上げることを目指す土方は、己の荒涼たる生き方と、残酷絵に描かれる血みどろの死体のおぞまさしさとを重ねたのだろう。
映画ではその後も、雪が絵を描いて生きる人間であることがたびたび強調される。隊服のデザインを請け負ったり、家の中に墨で描いた絵が干されていたり、土方達の似絵を描いたり。これらはみな、映画オリジナルのシーンだ。

小説においても雪は画家であり、四条丸山派の絵を習っていたことが記されている。だが記述量は多くないし、ましてや残酷絵など描いてはいない。
ただ、死んだ夫が、芸術や美を解さない人間であることを示唆する描写はある。
土方が雪の家の庭の紫陽花を愛で、そういえば雪は紫陽花をよく描く、と気づいた時のこと。雪はいうのだ、死んだ夫は庭に紫陽花が咲いていたことに気づいていたかも怪しかったし、彼女の絵とも"他人"だったと。つまり小説版の雪も、夫と異なり、土方とは美への共感で結ばれていたことが示唆されている。

◆雪の生きる理由

「たったひとつの命で、たったひとつの詩を書いている」

燃えよ剣という作品を象徴する名文。これは小説版・映画版ともに雪のセリフである。
しかし小説版ではたんに、土方という男の形容にすぎないセリフである。一方、俳諧にも通じ、かつ絵を描いて生きる、つまり詩人と同じ芸術家の側面が強調されている映画版のお雪がこのセリフ発すると、別の意味合いが付与される。
つまり、「彼女もまた土方と同じ、たったひとつの命でたったひとつの詩を書いている人間のひとりであるのだ」というメッセージに、聞こえてこないだろうか。

それを裏付けるのが、雪の映画オリジナルのセリフである。

かつて夫の亡骸を見て愚かだと思った雪は、残酷絵に縋って生きてきた。その彼女の絵に、土方は「私の住む荒野によく似ている」と言った。そのアンサーが、
「土方様の生きる荒野は、雪の探していた荒野です」
なのである。土方の人生と、雪の人生が交錯する瞬間が、詩的なセリフで印象的に語られる。ここで初めて、二人はキスし、情を交わす。
「旦那様」
と雪は土方を呼ぶ。

小説版でも雪が土方を旦那様、と呼ぶシーンがあるのだがシチュエーションが大きく異なる。いよいよ江戸へ引き上げるというときに土方は、追いかけてきた雪と、今生の別れとばかりに大坂で二日間宿を取り、夫婦ごっこをしながらイチャイチャするというロマンスが描かれる。ここで雪は土方を、旦那様と初めて呼ぶ。
二人が深い仲になることも、旦那様と呼ぶことも変わらない。しかしそこにいたるまでの経緯に、絵画が深く関わっているのが映画版ということができよう。

だが、映画の雪が
「雪は土方さんの絵を描きたい」
という表現で土方と共に生きようと決意を表す場面は、小説の雪のある行為から着想を得ているように思われる。

大坂の旅館で、二人は綺麗な夕焼けを見る。夕焼けを、
「この世で最も華やかなものだ、そうでないなら華やかたらしむるべきものだ」
と土方は言う。それを受け、土方と別れた雪は、風景画は得意でないとしながらも旅館に残り、夕陽を描こうとした。
夕陽とは言わずもがな土方歳三の比喩である。こうした雪の行動のさりげない描写を、映画の脚本は大きく膨らませて、雪の人物像を創り上げているのだろう。

「雪は土方さんの絵を描きたい」

土方歳三という男の生き様を後世に伝えるため、映画版の雪は自分の生き様である絵を通じて、土方と共に生きていこうというのだ。
土方の背中を、速写用の木炭で書き写す雪。スケッチにおいて大切なことは、対象物の観察である。描きたいものをよく見て、その本質を見極め、紙の上に描き出す。
土方の絵を描きたい。それは単に彼の姿形を紙の上に現出させるだけの行為ではない。彼の生の煌めきを、生の一瞬一瞬を、しっかりと目を見開き、よく見て、己の魂に刻みつける行為でもある。

雪は、ただ男に愛されるために存在する主体性のないヒロインではない。心と心で結ばれた愛する人のために、自分の人生を生き抜こうというひとりの人間の矜持が、物語の中にしっかりと浮かび上がっている。

『燃えよ剣』は、尊王攘夷を掲げて日本を導こうとする男の物語でもなければ、武士の美徳を謳う男の物語でもない。喧嘩という"美学"に生きた男の物語である。映画の脚本の素晴らしかったところは、どんなに原作エピソードを削っても、土方の美学を語ることを徹底した点にある。だからこそ芯のぶれない、良い作品になった。小説版の雪の人物像を膨らませ、彼女を芸術家として描き、美を通じて土方を理解し愛するというキャラクターにしたことも、そうした脚本上の戦略のうえでのことだったのかもしれない。

この映画は、おもに土方の回想という形で進行する。だが土方が回想をやめて最後の戦に向かうと、それを受け継ぐように一度だけ、土方という男の生を後世に残していきたいと語った雪が、語り部(モノローグ)の役割を担う。
そして、土方は散っていく。

ラストシーン、雪の赤い羽織は非常に印象的である。石畳と、まるで雪のように舞い散る桜。映画の冒頭のシーンと全く同じ構図。題字の『燃えよ剣』の色が、雪の羽織と同じ真紅であることは、彼女が土方歳三の語り部である証ではないかと想像するが、考えすぎだろうか。

◆土方と対等なヒロイン像、土方歳三の妻として

映画の完全なオリジナル要素として、雪に医学の心得をもたせて戦場に向かわせたことも、雪のキャラクター像に大きな変化をもたらしている。

幕末の時代、戦争は男のものであった。
ゆえに新撰組モノにおいても池田屋事件、鳥羽伏見の戦い、箱館戦争と主要なシーンに女性の登場人物はひとりも出てこない。(余談だが、だからこそ浅田次郎『輪違屋糸里』は面白い)
しかしそれでは雪の登場シーンは、彼女の家の中だけになってしまい、生き生きとした女性像を書くことは難しい。そこで、彼女に医学の心得を持たせ、池田屋事件にも箱館戦争にも関われるようにしたのだろう。
なお小説版の雪は、医学の心得なんかなくてもただ土方恋しいばかりに実は函館まで着いてきて、再び土方と逢瀬を重ねるのである。だがこういった女性像よりも、持てる知識と技術を活かし、戦場で確固たる役割を果たして奔走する女性像の方が魅力的だと感じる方は多いように思う。映画の雪は、ただ待つだけの女でも、ただ戦場で抱かれるだけの女でもない。
「怖かった」
と彼女はいう。土方が戦っている時に、斬られた指の散らばる戦場で、自分がなにもできないことが。だから、人を必死に救っていた。
箱館戦争で高松凌雲と出会い赤十字の精神を知るシーンは、彼女もまた女性でありながら新時代の波の中で、新しい世を創り上げていく人間であることを感じさせる。
そして、そこで出逢ったのは「燃えよ剣」における土方の因縁の相手、七里だ。
土方と七里との関係は武州のバラガキ時代が始まりで、京の都に上っても長州の手先と新撰組として喧嘩を続けている。
しかし小説版では七里は中盤に殺され、以後一切登場しない。対する映画版では、七里と土方との対峙は確かに複数回描かれるものの、あまりライバルという描き方をされていない。どちらかといえば、同じ武州の地から京にのぼり、しかし長州側と新撰組側とで運命が大きく別れた、土方の合わせ鏡のような存在である。
そんな土方因縁の相手・七里と、函館の地で出会うのは土方でなく雪だったことは、示唆的だ。
雪は負傷兵から刀を取りあげながら必死に、彼らの命を守ろうと声を張り上げる。そこに現れた七里は負傷兵の命を守ることを約束し、番兵を置いて欲しいという雪の願いを聞き入れる。
七里は土方歳三のゆかりのある人物を尋ね、雪は毅然とした態度でこう答えた。

「私は土方歳三の妻です」

七里は長州側の人間なのだから、土方の縁者と知られれば、殺される可能性だってあった。だが彼女は堂々と命を賭けて、土方歳三の因縁の相手と渡り合い、己のアイデンティティを示したのである。
雪のこの宣言が心に響くのは、彼女が常に自分自身の意志によって土方を愛し、自分の人生を選び取ってきたからだろう。
戦場で名乗りをあげる、武士のような。
そんな気高さで雪は、自分は土方の妻であるという。
強烈に美しい生き様で、我々の心を掴んで離さない、土方歳三。
そんな彼と肩を並べられる対等なヒロインとして雪もまた強く美しく、スクリーンに顕現したのである。

ちなみに近年、男女が対等な関係にないことをイメージさせる「家内」や「女房」という言葉に代わり「妻」という言葉がよく使われるようになっている。妻、という言葉は奈良時代から使用され、現在に至るまで「人生を共にするパートナー」という意味は変わっていないようだ。

◆現代的視点保持者としての沖田総司の役割

このように、現代的にアップデートされている雪の人物像はともすると昭和に書かれた歴史小説の世界観の中で浮いた存在になり、主人公たる土方歳三とうまく価値観が合わなくなるというリスクをも孕んでいる。
そんな土方と雪との間にたって橋渡しをした沖田総司の存在も、最後にやはり語っておくべきだろう。

沖田総司という青年は「ふしぎな」人物で、子どものように無邪気かと思えばひどく悟ったようなところのある人物として描かれる。明るく澄んだ沖田の人柄を土方は愛しており、鬼の副長の仮面を、沖田の前でなら脱いでしまえる。
そういう立ち位置の沖田であればこそ、幕末らしくない女性観を持っていても、それを土方に諭していても、不思議と妙な感じがしない。

冒頭、
「男磨きの道具にされる女の身にもなってくださいよ」
という物言いからも沖田が、現代人にも通じる価値観を持った人間として描かれていることがわかる。
「俺の生き方は女を不幸にする」
そんな土方の自分勝手な物言いに、
「そういう女性を見下したような言い方は嫌いです」
と返す沖田も良い。どちらも、映画オリジナルのセリフだ。
極め付けの最高傑作は、
「どうなる、は婦女子の言い草だ。男にはどうする以外の思案はない」
という土方への、
「婦女子にだってどうするの思案はあるんです」
と返す沖田の映画オリジナル台詞だ。
土方のこの、「どうなる、は婦女子の〜」の台詞は、『燃えよ剣』の名言としてわりと世に広く知られている節があり、確かに土方らしくてカッコよくはあるのだが、2020年代にもなってさすがになんのこだわりもなく無邪気に、「どうなる、は婦女子の言い草だ」なるセリフに、かっこいい〜と痺れられない。沖田のオリジナルのセリフが、いったいどれだけの鑑賞者の心を救ったか。

映画では、扉を開ける、閉める動作がその動作を行う人間の心が開かれる、閉じられることを示唆するように演出されている。
「婦女子にだってどうするの思案はあるんですよ」
「そんなものはない」
沖田の言葉を否定しつつ、土方は沖田と共に、窓を開く。するとそこには、雪の生けた梅の花。
土方の中の女性観が、沖田の言葉によってゆっくりと変わっていく。のちの函館のシーンで彼女を拒絶するのではなく、抱擁することの伏線のようなシーンにも思えるのである。


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