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舞台『HELI-X Ⅱ アンモナイトシンドローム』 感想

イモータルとオシリスという魅力的な新キャラを迎えて、よりスケールの大きなストーリーが展開された『HELI-X II』。本シリーズがアイデンティティの物語、つまり、「己が何を信じ、何を主張し、何を決断するのか」「善悪や正義の基準の曖昧な世の中で、いかにして自分自身の生きる道を獲得していくのか」をテーマとした物語であろうことは、前作にて確認した。
(参照:舞台『HELI-X』感想 )

それを踏まえた上で本作では、太古の昔に滅んだアンモナイトに擬えながら人間とヘリックスの対立を描く。淘汰されるのは人間か、ヘリックスか。ヘリックスは人間のバグなのか、進化なのか。人間は、自分とは異なる存在を認められないのだという絶望がより深まるなか、キャラクター達はそれぞれに、生きる道を選択していく。

◆対立と分断、それぞれの選択肢

脚本家の毛利さんがパンフレットにて、「コロナによって生まれた新たな社会に、人間同士の不理解と不寛容という亀裂が走り、それが大きくなっているように感じる」「対立と分断を目の前にして、自分がどちらの側に立つかを明確にしなければならない」と語っているが、この言葉こそが本作のテーマを端的に表していると考えられる。
人間がヘリックスに対して抱く恐れや偏見が、同じ人間同士であるはずなのに社会に分断を引き起こしている。そして、未来に待つのは虐殺だ。昨今のニュースを思い起こしてみるだけでも、思想や価値観、宗教、民族の違いだけで人と人は殺し合うのだということが明白にわかる。ヘリックスが人間達によって命を奪われる未来も、それに対抗してヘリックスが戦おうとするのも、非常に説得力のある設定といえよう。そもそもヘリックスになる人間は、元の性による苦しみからの解放を求めて手術を受けている。さらに本作では、無理やり手術を受けさせられたことが明らかになるキャラクターも現れる。性差別や、ジェンダーの問題の枠に収まらない、社会の最下層で生きる苦しみ……その延長線上にある、人間への不信と、絶望、怒り。あの狭い板の上には、世界の悲劇の縮図が載っているのである。
オシリスは、対立を煽るのが上手い。全能感に酔った愉快犯は、わざわざ進化論を持ち出して自分の行おうとしている行為を正当化しようとしている。オシリスに付き従う者のなかには、真剣にヘリックスの未来を憂える者が多いだろうが、オシリス本人の心がからっぽなのがおそろしい。そんなオシリスの底知れなさを表現する平野さんの巧さにも、痺れてしまう。
オシリスの対抗勢力となるのは、クライとワカクサだ。クライはヘリックスと人間との共存を掲げてオシリスと刃を交える。ワカクサは、そんなクライの理想を夢物語と思いつつも可能性を信じ、己の生きる道を選択をした。
ワカクサと対照的なのはシデンとシュンスイ。劇中、自分たちはユナイトの犬だ、命令されることに従うだけだと何度も繰り返す。その態度は物語のクライマックスまで変わることがない。ヤマトの平和を守ることが使命だとカンザキ大佐が釘をさすものの、ユナイトの言いなりである螺旋機関に残っているシデンとシュンスイの在り方そのものが、彼ら自身の正義がいまだ曖昧であることを表しているように思えてならない。(とはいえ、皆が己の生き方を決めて螺旋機関からいなくなる、というストーリーは寂しすぎるので!アガタとともに螺旋機関の存在価値を彼らが改革してくれたらいいなぁ、そしてワカクサもリュージンも戻ってきて!と願うばかり)
老獪で飄々とした印象だが信念の熱さを垣間見せたイモータルと、オシリスの対峙にもワクワクする。カンザキに覚悟を示すイモータルの台詞、「(人の)命はひとつだ」は、その場にいないオシリスへの明確な宣戦布告であろう。オシリスはリザレクション、不死者の蘇りの能力を持つ。それがゆえに、命の重みを軽んじているとイモータルは考えているのだろう。兵器として数多の殺戮を繰り返し、自身が不死であるイモータルだからこそ、目の前であっという間に喪われる命の儚さ、たった一度しかない人生を生き切る人間達に、思うことがあったのだろうか。自由奔放に舞台を駆け巡りふざけた言動で周囲を翻弄するイモータルだが、信念を語る時だけはその纏う空気を一変させる。想いの熱さで観るものを圧倒する杉江さんの芝居を『メサイア』シリーズでも本作でも味わうことができ、感慨深い。

◆「個」と「全」の対比--アンガーとサッドネスの愛の物語

果たしてヘリックスは人類の進化形として人類を滅ぼし新しい時代を席巻するのか、それとも共存の道を進むのか。その答えの一端を、アンガーとサッドネスの物語が示していたように感じられる。なぜなら彼らの出会いと愛、そして別れの物語こそが、異なる存在を受け入れ、共存して生きうることを表していたからだ。
アンガーはアンモナイトシンドロームの一員であり、オシリスに忠誠を誓う身であることが明かされる。彼の思想に共鳴したアンガーは、ブラックブラッドの構成員を無理やりヘリックスとする実験に加担した。その被害者の一人が、サッドネスだった。
どうして私を巻き込んだの?と問うサッドネスへのアンガーの答えは私に、ナイフで背後から刺されたかのような衝撃を与えた。

「誰でも、よかったんだ」

サッドネスの抱えた苦しみは、いっそ死んでしまいたいと思うほどに大きい。どうしてこんな酷い目に遭わなければならなかったのか、この苦しみに終わりはあるのか。きっとサッドネスは生きているうちの大半の時間を、己の苦悩と向き合うことに費やしている。それなのに、自分がそのような人生を歩まねばならなかった特別な理由は何一つなかったのだ。大勢の、区別のつかない戦闘員のうちのひとりとして扱われた。それは、サッドネスの人格の一切を無視した行為であった。サッドネスがどれほどアンガーに失望したか、その心の傷は計り知れない。

しかしオシリスからサッドネスを庇おうとするアンガーは、こう言ったのだ。
「あなた(オシリス)には、大いなる未来があるかもしれない。でも、サッドネスには彼女だけが辿り着けるささやかな幸せがあるのです。彼女を死なせないでください」

アンガーとサッドネス、そしてこのアンモナイトシンドロームの物語においては、「個」と「全」の対立がキーになってくるように思う。あるいは、特別な存在と不特定多数の存在の対比といってもいいかもしれない。
アンガーにとって、サッドネスははじめはブラックブラッドの暗殺者たち、つまり不特定多数のうちのひとりでしかなかった。しかしサッドネスの人格に触れ、彼女を愛することとなる。その時点で、サッドネスはアンガーにとっての特別な、たった一人の存在になった。
愛する、とは誰かを特別にすることだし、愛されるとは、誰かに特別にされることだ。なんでもない、どこにでもいる、ありふれた存在は、愛されて何者かに、「特別」になる。
サッドネスは、アンガーに出会う前はきっと何者でもない存在だった。でもアンガーはサッドネスを愛して、彼女を特別にした。
アンガーはオシリスの思想に共鳴したと言っていたけれど、アンガーにとっては名前も知らない不特定多数のヘリックスより、たったひとりサッドネスの幸せの方が、ずっとずっと、大切だったのだ。女でありたかった、女としての幸せを得たかったサッドネスに「おまえは女だ」といったのはサッドネスらしさの肯定であり、肉体の性別に縛られることなく「おまえのありたいように生きろ」というアンガーの切なる願いでもあっただろう。HELI-Xの世界観においては、肉体は魂を入れる箱であり、その肉体に魂の自由を縛られる不条理にキャラクターたちは苦しめられ、もがきながら「個」を獲得する闘争に身を投じる。そしてHELI-Xの物語の根幹を成す問いは「おまえは、誰だ」であるが、つまりサッドネスはアンガーにその魂を愛されていたことを知って初めて、名もなき「全」ではなく人格のある「個」を獲得し、己の人生を歩み始めることができるのである。
星元さんの全身全霊の演技も、塩田さんの抑制された演技も、目が離せなかった。特に、多くを言葉にはしないが滲み出る、アンガーのサッドネスへの溢れんばかりの愛情、包容力が胸に迫った。正直に言えば、お二人がアンガーとサッドネスというキャラクターを愛し、深めていく過程をもっと見ていたかっただけに、ここでお別れになるのはとても悲しい。

◆ヘリックスと人間の共存、その鍵を握るゼロとアガタ

さて、アンガーとサッドネスの「個」と「全」の対比の物語は、オシリスとクライの対比にもそのまま重なるように思う。オシリスは人間とヘリックスは淘汰し合うしかないという全体的な話をするが、対するクライは、共存の道を説く。ひとが自分とは異なる存在を排除するのではなく受け入れ、認めることがどれほど困難かはワカクサの言う通り歴史が証明しているのであるが、しかし「個」と「個」の共存は例えば世界史を見ても敵対する兵士同士でさえ行われうるし、前作『HELI-X』ではアガタとリュウジンが歩み寄りを見せ、そして本作でアンガーは、サッドネスを愛するにいたった。偏見や固定観念に縛られていても、その人の人となりに触れれば価値観がガラリと変わる経験を、誰でも持っていることだろう。
クライやワカクサの目指す道は、遥か険しいのかもしれない。しかし、アンガーがかつては化け物だと思ったサッドネスの人格に触れて愛しさが芽生えたように、「個」と「個」の融和を繰り返すことでいずれは、人間とヘリックスも互いに互いを受け入れ、認め合う世界が創れるのではないか……そんな希望を、抱いてしまうのである。

ヘリックスと人間の共存。それはカイやアガタが望む「誰もが皆幸せに暮らせる世界」と近しいものを感じる。
本作では、蘇生させられたカイの肉体に植え付けられた人格がアガタであるという新事実が判明した。それではアガタという人物は、果たしてこの世には存在しないのか?自分がアガタとしてたった今考えていることや、これまで生きてきた時間は、いったい誰のもの?ゼロを守りたいと思うのは、自分の身体がカイのものだからなのだろうか?ヘリックスではなく人間のアガタもまた、HELI-Xのメインテーマ、「おまえは誰だ」の問いに真正面からぶつかっていきながら、「アガタタカヨシ」という自己を獲得していくのだろう。「誰もが皆幸せに暮らせる世界」、それは確かに、かつてカイが標榜した夢だ。だがアガタがアガタとして生きてきた時間のなかで悩み、導き出した夢でもあることは間違いない。
ここからは私の、この先の展開はこうだったらいいなぁ〜という妄想になるのだが、ゼロとアガタには、人間もヘリックスも幸せに暮らせる世界を創り上げる「鍵」になってほしい。
ゼロの見た未来は、この先どう足掻いても変えられないのかもしれない。これまでの人類の歴史が証明するように、人間とヘリックスの対立と殺戮は止められないのかもしれない。だが、今はヘリックス側と人間側に分断されてしまったものの、螺旋機関でバディを組んでいたときは、互いに歩み寄りを見せていた二人である。
ゼロが、カイではなくアガタという人間の存在を肯定すること。アガタが、カイではなくアガタとして、ゼロをからっぽな暗殺者の闇から光の射す方へと引き上げ、人間に戻すこと。これらが相互に作用しあい、互いが互いを救済することでゼロは殺戮の手を止めるだろう。ヘリックスのゼロと人間のアガタの強固な結びつきがバタフライエフェクトのように世界に波紋を広げて、未来を変えていくとよいなと願う。
本作の菊池くん、随所に垣間見える軍人としてのアガタの生真面目さの表現(お辞儀や丁寧な語尾など)も良かったし、カイの気持ちなのか自分自身の気持ちなのか迷いつつも、ゼロを一心に思うという一点においては決してブレることはなく、純粋な気持ちがまっすぐ届いてきてよかった。前作はゼロの半生を想い、今作はカイの半生の記憶に涙を流していたアガタ。誰かの痛みや苦しみをスポンジのように吸収して「救いたい」という気持ちに変える優しい彼の、次回作での活躍を心から楽しみにしています。

(2021.10.15執筆)

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