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映画『グリーンブック』感想


トニーとドン。好対照なキャラクターの会話の妙味に魅入られ、目が離せない2時間だった。主演のヴィゴ・モーテンセンは、LotRシリーズ以外で初めて出演作を観たのだが、アラゴルンとは違ってお腹の出た粗野な中年男性!驚きつつも、素晴らしい演技を堪能する。また、ドン役のマハーシャラ・アリの美しさには、背筋が震える思い。気品があり、憂いがある佇まいが印象的だった。
運転手と雇い主が、車中というプライベートな閉鎖空間で言葉を交わし、互いに心を開いていくロードムービーという展開は、制作年はあとになるものの「ドライブ・マイ・カー」と同様の雰囲気も感じ、改めて「車」という舞台装置に想いを馳せるきっかけにもなった。
本稿では、トニーの表現の如く「複雑」なアメリカ社会の差別構造と、「居場所」を求めて旅する物語構造について、感じたことを述べたい。


◆イタリア系アメリカ人と、地位を得た黒人コンビが炙り出す差別社会

私は知らなかった。アメリカにおいて差別される人種が、黒人、アジア人のみにとどまらないのだと。本作の主人公、トニーは一見すると「白人男性」という最も上位のステータスを持った人物に思えた。しかし彼に学がないこと、決まった仕事がないこと、男一人で家族を養っていることはすべて、彼特有の事情なのではなく当時の「イタリア系アメリカ人」の一般的な特徴であることを学んだ。彼らはアメリカの社会構造の中で貧困から抜け出せず、粗野で無学であるとレッテルを貼られ、純粋な「白人男性」としての扱いを受けられないこともあったのだ。
はじめ、本作は白人男性と黒人男性の対立の話なのだと思われたが、トニーもまた被差別側の人間であるとわかった途端、物語の見え方が変わってきた。差別とは一対一の対立構造ではなく、階層のようになっている。差別をされる側の人間も、誰かを差別して生きているのだ。そうしてピラミッドの頂点に立つ限られた白人男性のみが、すべてを搾取して笑っている。
「俺はイタリア人がピザばかり食べていると言われても構わない」、そう言い放ったトニーだが、
もしも本当にその台詞を、「白人男性」が侮蔑した表情で言ったなら、彼は怒らずにいられるのだろうかと思う。私には、ただの強がりに聞こえた。トニーは、ドンに対して差別的発言を行い、非難されてもやめなかった。自分の言っていることは、差別なんかじゃないと言い張って。その姿がなんだか、自分達が日頃言われている内容は差別的発言なんかじゃないと、無意識に言い聞かせているように見えた。
自分は「下層」の人間とは違う、俺は被差別側なんかじゃないと、必死に自分たちの尊厳を守ろうとしているから、差別されている側の人間に対しても、「こんなことは差別なんかじゃない」と言えるのだろう。
トニーは本来、差別される側の怒りや悲しみを知っている男だ。だが、自分が差別される側の人間であることを、彼自身が認めたがらない傾向にあったのではないかと思う。逆説的ではあるが、彼はイタリア系らしさを誇ることで、差別から自分の心を守っていた。そうした心理的な背景もあり、無学な、粗野な自分を頑ななまでに全肯定するトニーという人物像が出来上がっていったのではないだろうか。そんなトニーが、ドンとの交流を通じてどのように変化したのか。それは、後ほど語ることとする。

イタリア系アメリカ人のトニーと共に、本作のユニークな愛すべきキャラクターとして、天才ピアニストのドンを語らないわけにはいかない。
ただ、彼がユニークであるのは当時のアメリカ社会において「地位も名誉も金も得た黒人」であるところによる部分が大きい。またこうした人物が映画で取り上げられること自体も珍しく感じてしまった。それはまさに、私が現在もなお続く黒人差別社会に生きていることの証左にほかならない。地位も名誉も金もあり、黒人を雇う白人男性のキャラクターはなんら特徴を見出せないのに、なぜ黒人が地位も名誉も金も持ち、白人を雇った途端に、興味深い設定に思われるのか?自問自答し、自分の中の差別意識の根深さ、視野の狭さに、ゾッとさせられる。どうか数十年後には、ドンという存在が平凡なキャラクターであると受け止められる私になっていますように。
さて、ドンが黒人であることによって旅のいく先々で差別を受けてしまうことは想定の範囲内ではあったものの、その壮絶さには腹が立って仕方がなかった。個人的な差別感情ではなく、地域のしきたりだからという建前でドンを締め出すレストランのオーナーには、バーで絡んできた白人男性よりもタチの悪さを感じる。ステージを降りれば彼はただの黒人でしかなく、ステージに立っていてもなお、彼自身には敬意は払われない。「みんな教養人でありたいから演奏会に来るのだ」という台詞には深い悲しみを覚えた。ここにも、誰かを押しのけて差別階層の上に立とうとする人間の醜さの一片を、感じざるをえない。

◆「居場所」を求めた旅物語

上記のように、主たる登場人物を語る上で人種差別の問題は切っても切り離せないものであるが、しかし本作はどんな物語であったかを一言で表現するなら、"「居場所」を求めるロードムービー"ではないだろうか。

居場所、と一言でいってもいろんな意味があるが、簡単なものでいえば「家族」だ。トニーは妻と子どもを愛し、長期的に家を離れることを厭い、クリスマスまでに家に帰れるかどうかを心配し、苦手な手紙を書いていた。トニーには家族という確固とした居場所がある。ドンがトニーに手紙の書き方にアドバイスをし、クリスマスまでに家に帰れるよう気遣ったのも、トニーを尊重する気持ちと、彼の居場所を尊重する気持ちがイコールだったからではないだろうか。
ドンほど、居場所のありがたみを知る人間はいないだろう。彼が本作において単なる人種差別に苦しんでいたのではない。彼はずっと、自分の居場所のなさに苦しんでいた。
家族とは疎遠になってしまった。
黒人ではあるが、同じ黒人からは白い目で見られてのけ者にされている。
白人からは壮絶な差別を受ける。
さらに同性愛者に対する差別も受ける。
結婚できず、家庭を持てない。
彼はどこにいても居心地が悪そうだった。農作業をしている黒人たちから冷ややかな視線を浴びる時、車の後部座席で、警官から懐中電灯で顔を照らされる時、黒人専用のホテルに泊まっている時。
自分には、誰も理解者がいない。どこにいても部外者である。その孤独は、どれほどのものだろう。だが彼は苦難の果てに手に入れた地位を手放すことなく、差別されないよう必死に身につけた教養と品性を武器に、自分の尊厳を守るため、孤独に玉座に座り続けるしかなかった。ドンの心は、冷えて固い、氷のようだった。
そんなドンが、自分とは真反対の粗野なトニーと出会い、変わっていく。素手でチキンを食べることを知り、彼の嘘に目くじらを立てなくなる。そんな些細な粗野な行動くらいで彼を貶す人間がいない安心感を、ドンは知った。
変わったのはドンだけではない。トニーも、そうだ。綺麗な発音を練習し、彼のアドバイスを受けて手紙を書いた。黒人に教えを受けることを恥と思うことを捨て、これまで自分を規定していたイタリア系らしさを、変えていくことを己に許したのである。
彼らは、互いに互いを尊重し合いながら、ゆっくりと絆を深めていく。これは、たんに人種を越えた理解が深まったというより、互いが個人的に纏っていた心の鎧が剥がれていったとみても良さそうだ。
ドンの変化が印象的なシーンをまずひとつ挙げるならば、オレンジ・バードでの演奏シーンだろう。差別を決して良しとせず演奏を辞退したドンとトニーは、黒人の集まるバーにやってくる。そこで彼は、ピアノの上に置かれたグラスを床に置きなおし、クラシックを弾いた。天才的なピアニストにしてショパンの名手、ルビンシュタインに倣ったのだ。もともとクラシックを修めたが黒人にはクラシックは無理だと言われた彼の、魂の演奏がこの小さなバーで披露される。圧倒される観客。そこから彼は一転、セッションを楽しみながら音楽を奏で、観客たちを喜ばせる。あんなに高級ピアノにこだわった彼が、黒人専用と書かれた、ピアノで。差別と戦い抜いたがゆえに孤独になった彼の柔らかな笑顔には、じんわりと胸が温かくなるものがあった。 
「寂しい時は自分から手を打たなきゃ」
トニーがドンにかけた言葉は、ドンを大きく変えるきっかけになっただろう。自分が孤独なのは、黒人だからではない。自らの正義を貫く姿は立派だが、侮られまいとする必死さの裏返しの、頑なな高慢さは、人を遠ざける。
ドンはトニーの影響を受け、居場所を見つけるために、玉座を降りることを決意した。それがラストシーン、彼が運転手を務めることの意味合いであり、彼がドンの家を訪問することの意味合いである。南部への旅はある意味で、ドンが居場所を求める旅でもあった。本作のタイトル、『グリーンブック』は、黒人専用ホテルを紹介した冊子のことだという。作中、その冊子にとあるホテルが、「自宅のようにくつろげる」と紹介されていた。宿泊施設とは、いうなれば「居場所」を意味する。だがドンのくつろげる場所は、黒人専用ホテルでもなく、バーでもなく、一人住まいの自宅でもなかった。彼はトニーの家に、自分で「居場所」を見つけようと手を打ったのである。そしてトニーはそれを、温かく迎えた。かつて、黒人が家に入ることすら嫌がった彼が。二人は長い旅路の末に、真の友情で固く結ばれた。互いの隣を、心安らげる居場所にして。

(2023.8.16鑑賞)

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