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ましろのひとりかくれんぼ配信から考えた色々なこと









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深夜3時、1万人以上の集団が一つの音声波形を凝視していた。
音楽が流れているわけではなく、心地よい音が囁かれているわけでもなく、奇抜な音が鳴っているわけでもない。そこにあるのは深夜3時の静寂そのままであり、そして静寂の中でかろうじて聴き取れる微小な音の破片と、それを示す青い音声波形のあやふやな振幅。2万個以上の眼球が凝視する単なる青い線の振幅が、1万人の心臓の鼓動を恐怖で支配していた。
それは異様な配信だった。
にじさんじ所属Vtuberましろの、ひとりかくれんぼ配信である。


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2020/10/18深夜3時、ましろはひとりかくれんぼ配信を行った。
ひとりかくれんぼで、何が起こったか。
アーカイブは残っている。儀式の最中に起こったことは克明に記録されている。
Twitterを遡れば、この配信に言及したツイートが大量にある。この日「ひとりかくれんぼ」はトレンド入りし、合計で2万件近く呟かれた。
何が起こったのかは、それらを見れば今からでも十分に知ることができる。
ましろ本人の言葉を借りれば、「ありえない」ことが起こったのだった。
そしてひとりかくれんぼ配信後、ましろはネット上で消息を絶ち、謎の失踪を遂げる。


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ひとりかくれんぼ配信画面


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もちろん本当は失踪などしていない。消息を絶ったのはたった3日間だ。失踪というには短すぎる。
「謎の失踪」とは、あのひとりかくれんぼ配信を観た一部の人々の観測に過ぎない。
ましろがひとりかくれんぼ後に、ツイートも配信もしないことを心配する声が続出したのだった。そもそもましろはTwitterをほとんど使わないVtuberだ。ツイート数は現役にじさんじライバーの中でも(幽霊Vtuberの語部紡を除けば)最低であり、活動告知以外のツイートとなるとさらに希少である。一週間以上ツイートしないこともざらにある。
「今日の配信来てくれてありがとう」等の配信後の感謝ツイートをしたことは、遡れる限りにおいて一度もない。
それどころか「おはよう」などの日常挨拶ツイートも片手で数えられるくらいである。
このようにツイートの少ないましろだから、ひとりかくれんぼ配信後に音沙汰がなくなることは、普段から彼の配信を観ているリスナーにとってはまったく特別なことではない。
また、ましろは配信頻度も他のにじさんじライバーと比べて非常に少ない。週に1回配信があれば多い方だ。だから、ひとりかくれんぼ後にしばらく配信がないことも、まったく特別なことではない。
しかし一部の人々(上記のましろの性質をそもそも知らない人々、またそれを心得ているはずの人々)は、ひとりかくれんぼ後に一切音沙汰のないましろを確認すると、様々に想像をたくましくした。
彼らによれば、ましろにはその後、”何か”があったのかもしれないという。
彼らがその”何か”を怖がる様子は、配信の切り抜き動画のコメント欄や、当時のTwitter、また後日当該配信を話題にした別のVtuberの配信チャットで確認することができる。


「ブイチューバーがひとりかくれんぼして失踪したらしいけど馬鹿すぎる。完全に自業自得」といった感じのツイートが印象深かった。


もちろん本当は失踪などしていない。
数日後、何食わぬ顔をしてましろは自身の歌ってみた動画の発表をTwitterで告知した。
MOSTERという曲で、本当はハロウィンに合わせて発表したかったが、完成音源が届くといてもたってもいられず、ややフライング気味の発表となったそうだ。



You didn't think I was done, did ya?

その通り。

I see how you going crazy
Always thinkn'bout me
Baby on the daily

その通り。

そして結局のところ、ましろの思うつぼなのだろう。

Feed me your negativity
Talks more about me
I know that you love me,love me

まったくもって、その通り。


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ハロウィンの日に怪物に仮装するのは、季節の変わり目に現れる悪霊の類を、脅かして追い払うためらしい。つまり魔除けである。
しかし一説によれば、人々が仮装する怪物は実は悪霊そのものの姿であり、「お菓子をくれないとイタズラしちゃうぞ(Trick or treat!)」という脅しは本来、「生贄を捧げなければ村に災厄がもたらされる」という古代ケルト人による切実な人身御供、土着の血生臭い宗教的祭事だったのだという。魔的な存在に対立するのではなく、供物を捧げることで懐柔し、あくまでも調和を保とうとする古代人のしたたかな知恵がそこには読み取れる。

魔的な存在に対する戦略の変遷、すなわち供物による懐柔戦略から魔除けという直接対立への移行は、キリスト教の影響力の拡大と並行している。
キリスト教は悪魔と対決する。そこに悪との調和などというコンセプトはもとより存在しない。
神と悪魔の対決というキリスト教世界における伝統的な構図が浸透することにより、本来の供物による懐柔戦略は徐々に魔除けの祝祭へとその形式が変化していき、そして悪霊だったはずの禍々しいハロウィンの怪物は、魔除けのための子供の愛嬌ある扮装となり、生贄はご褒美のキャンディーとなった。
キリスト教化によって毒気を抜かれた怪物は、遂に現代に至って資本主義という新たな世界宗教の布教(マーケティング)により、10月末の渋谷の路上でゲロを吐くだけの酒臭いゾンビにまで腑抜けるのだ。

一方、ましろのハロウィンはどうだろう。
深夜3時にひとりかくれんぼという降霊術を行い、「ありえない」ことによって1万人を震え上がらせたましろ。悪霊やら呪いやらなにやらを一身に受け(それはハロウィンの起源により近い、禍々しい”仮装”だ)、そのために謎の失踪を遂げたとさえ思われた矢先、不意に、何食わぬ顔をしてぼくたちの目の前に現れたましろは、自らをMONSTER(怪物)と名乗った。
そして彼はこう叫ぶ。

Are you ready for the monster?

サビで脅迫するように繰り返される、この挑発的なフレーズこそがましろのハロウィン、Trick or treat!の強烈な一声なのだ。

そしてリスナーはスパチャの準備をする。まるでキャンディーを用意するように。


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ひとりかくれんぼ配信から数ヶ月たった今でも、「ましろくん生きてたのか」「ましろ、生きててよかった」というチャットが脈絡なく配信に流れることがある。

彼らにとって、ましろは事実、失踪していたのだろう。ぼんやりと。なんとなく。意識さえしない想像の中で。
だから「生きてたのか」と、ぼんやりと思い、なんとなく書くのだろう。


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ひとりかくれんぼは降霊術である。
降霊術とは、厳格に定められたプログラムにしたがって儀式を遂行することにより、霊魂の類を観測可能な形で現前せしめる術である。
恐山のイタコなどが有名だ。イタコとは、故人の霊魂を口寄せし、自らの肉体に憑依させる霊媒師たちのことで、イタコの口を借りて故人の霊魂と会話することができるのだという。
さらに有名なものだと、コックリさんがある。
西洋のヴィジャ盤と起源を等しくするというテーブルターニングの一種で、紙に五十音と「はい」「いいえ」を書き、その上にコインを置いて指を乗せる。「コックリさんコックリさん~」と呪文じみた定型句を決められたように唱え質問を投げかけると、霊魂(その多くは動物霊だという)による謎パワーがコインをひとりでに動かし、紙に書かれた五十音表と「はい」「いいえ」によって霊魂との問答が可能になるのだという。
そしてもうひとつ、ネット上で報告され有名になった都市伝説の一種で、ある意味で現代的な降霊術があり、それが他ならぬひとりかくれんぼである。


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言うまでもない当然の話だが、幽霊など存在しない。幽霊も悪霊も霊魂も呪いも存在しない。あの時ましろ自身が声を震わせて「ありえない」と言ったように、ありえないことは、あくまでもありえないのだ。
つまりそれは、すべて気のせいに過ぎない。


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ひとりかくれんぼは降霊術である。
しかし一説によれば、それは本来、儀式者自身を呪う呪術なのだという。
だからこそ、ひとりかくれんぼは他の降霊術よりも危険なのだと考えられている。
しばしば比較されるのは丑の刻参りだ。
呪う対象となる人の髪や血や唾液、その人の一部分を藁人形に入れ、これに釘を打つことで対象に害をなす、フレイザーの整理した共感呪術の一種。それが丑の刻参りだ。
そしてひとりかくれんぼには、これとほぼ同型のプロセスが組み込まれている。
ぬいぐるみに自分の爪や髪や血や唾液を入れ、ぬいぐるみを刃物で突き刺すという部分がそれに当たる。
ひとりかくれんぼのこのプロセスでは、丑の刻参りと同じ呪術が発動しているのである。
だからこそ、儀式者はこのプロセスの後、逃げて隠れなければならない。
自らを呪い、その呪いから逃げ隠れながら、同時にその呪いを解除することを目指すマッチポンプゲーム。
ひとりかくれんぼを呪術として理解しようとするなら、ひとまずそのようなものとなるだろう。


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ひとりかくれんぼは数あるオカルト儀式の中でも奇妙なほどに信用されている。
「ひとりかくれんぼとコックリさんはガチだから遊びでやっちゃダメ」などと言われる。遊び以外でそんな儀式をする機会も動機もまったく想像できないが。
コックリさんは数十年の伝統があるためひとまず置くとして、2000年代になってようやく広まったひとりかくれんぼが信用を獲得しているのはなぜかと考えると、手順が多く面倒であることと、一人で行わなければならないことが理由としてあげられる。
ひとりかくれんぼは面倒なのだ。

ぬいぐるみを用意して綿を抜き、米を詰めて自分の髪か爪か血を入れて、慣れない裁縫をして勇気を出し、気合を入れて刃物を握りしめ、孤独に丑三つ刻を待つのである。
必要なアイテムはすべて簡単に揃えることができる身近な物のくせに、セッティングが無闇に煩雑な上に手順も厳格でとにかく面倒なのだ。この面倒臭さがなにを意味するかといえば、それを本気でやるやつが少ないということである。
コックリさんであれば面倒な準備も複数人で行える上、準備しているときも友人たちと緊張感を共有して楽しいかもしれないが、ひとりかくれんぼは一人であるという性質上、友人と盛り上がることもなく、ただひたすら孤独に淡々と面倒な準備を行わなければならない。
そのハードルは意外なほどに高い。
そして一人で行うということは、証人も目撃者も必要なく(むしろ原則的に排除せねばならず)、いくらでも自らの体験をもっともらしく脚色できるということである。
目撃者も証人もおらず、実行者がそもそも少なく、体験レポには存分に脚色された外連味と同時に、妙なリアリティがあるということ。
ひとりかくれんぼはネット上で広まった儀式だが、その拡散にはそうした性質が大いに寄与しているだろう。

加えて、かくれんぼというモチーフも秀逸だ。
かくれんぼで隠れているときの幼少期の心細さは誰にでも容易に想像できるものであり、驚くほどにリアリティがある。
オバケが出るという噂のおぞましい廃墟を探検したり、指を乗せたコインが勝手に動く恐怖よりも、かくれんぼで一人で孤独に隠れているときのなんとも言えない心細さ、ぼんやりとした不安、寒々しいかすかな恐怖のほうが、多くの人にとってリアリティがあり、想像しやすい。ぼくたちは、幼少期に誰もが、そのような孤独や不安や恐怖と人知れず親しんできたはずだ。
そして、かくれんぼの相手に、まさしくそんな子供時代の友人であるぬいぐるみや人形をわざわざ用意するのだ。
ひとりかくれんぼは、そうした身近な原体験をグロテスクなほど鮮明に拡大し、オカルティックな装いで追体験させる儀式でもある。


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呪術としてのひとりかくれんぼを考えるとき問題となるのは、そもそも呪術とはなにか、ということである。
一言で言ってしまえば、それは暗示に導かれた多種多様な「気のせい」、すなわち無意識による認識の偏向のことである。
具体的にどういうことか。

ひとつの例を出そう。
深夜、あなたは夜ふかしして、部屋で一人、本を読んでいる。
その時、どこからともなくパキッという音が聴こえる。あるいはペチャッという音でもよい。音に反応してふと顔を上げると、時計が目に入る。時計は4時44分を指していた。なんとなく不吉だな、とあなたは思う。そしてそのまま、さっき音がしたことをすっかり忘れ、4時44分の小さな驚きの余韻だけを感じながら、ふたたび本を読み始めるだろう。
さきほどの、どこからともなく聴こえてきた音は家鳴りか、あるいは水道の音が偶然静寂の中で際立って耳に入っただけだと、極めて日常的な解釈で無意識に処理されたのだ。

では次に、その読んでいる本がホラー小説だった場合を考えてみよう。
深夜、どこからともなくパキッという音が聴こえる。あるいはペチャッという音でもよい。唐突に聴こえたその音に、反射的に顔を上げると、時計は4時44分を指していた。この時、あなたは確かな恐怖を感じ、さきほどのパキッだかペチャッという音が気になってしょうがなくなる。その音と4時44分の間に、偶然ではない何かを感じ、恐怖と不安がかきたてられ、非日常的な解釈をめぐる様々な想像が、あなたの中にわき起こるだろう。そしてその恐怖に導かれた様々な想像は、もちろんすべて「気のせい」にすぎない。

呪いとは何かといえば、後者におけるホラー小説と、その読書によって、無意識に認識が(この場合なら恐怖に)偏向させられることである。
前者と後者の違いは、読んでいた本がホラーであったか否かという違いでしかない。しかし決定的に、聞こえた音に対する認識が異なってしまう。そのような、無意識による認識の偏向こそが呪いの効果だ。
後者のあなたはその時、ホラー小説に呪われていたのである。
認識の偏向を準備する暗示として、ホラー小説が機能したのだ。
まるで触媒や、呪具のように。

このように呪いを、無意識による認識の偏向と考えると、オカルトに関する様々なことを整理して理解できる。
ひとりかくれんぼが丑の刻参りのバリエーションであり、自分自身を呪う呪術だということも、「認識の偏向」をキーワードに考えれば、極めて明晰にその儀式プログラムの意図するところを理解できるはずだ。

・幼児的アイテム(もっとも精神的に無防備であった時代の玩具)であるぬいぐるみを用意して綿を抜き、
・米(日本人にとっての米が持つ神聖性を考えてみよ)を詰めて、
・その中に自分の髪か血か爪か唾液(それらは自分の体から離れた途端、汚れ=穢れとして排除する習慣のあるものだ)を入れて、
・慣れない針(「恐る恐る」使わなければ怪我をする)をつまんで不器用な裁縫をし、
・これらの面倒な作業を一人で孤独に黙々とこなし勇気を出して気合を入れ刃物を握りしめて丑三つ刻を待つ時、

既に呪術は発動しているのだ。

これまでにネットで収集してきた膨大な量のひとりかくれんぼ体験レポを反芻しながら、孤独に準備をしているこのプロセス自体が、「これをすれば何かが起こる」という確信に近い予感によって自己暗示となり、さきほど例にあげたホラー小説と同じく、認識の偏向を準備する強力な暗示として機能する。

丑三つ刻、セッティングを終えて部屋の電気をすべて消す。
テレビの砂嵐(動画で代用可。ホワイトノイズは胎内の波長と相似し、赤ん坊が泣き止む退行的効果を持つ)を流し、暗い部屋を刃物片手に歩いて風呂場へ行き、「■■■■みつけた」と言ってぬいぐるみを突き刺したその瞬間に(丑の刻参り)、呪術は完成する。
風呂場に冷たく反響する自分の声と、ぬいぐるみを刃物で突き刺す音は、既にこの世のものとも思えない禍々しさで耳に入ってくるはずである。刃先から伝わるぬいぐるみの中身の感触は、おぞましく手首から全身へと怖気を走らせるだろう。
それだけではない。あらゆる物音。心臓の鼓動。呼吸音。嗅ぎなれているはずの臭い。鼻腔を抜ける空気の質感。喉の湿り具合。服と肌の接触。髪の毛が耳や首筋に触れる感覚まで、それらすべての知覚から日常性が剥ぎ取られ、すべての知覚が自らを恐怖へと駆り立てる、非日常の異界が現前するだろう。

この呪いを解除するには、かくれんぼに勝利しなければならない。


そしてもちろん、そのすべてが気のせいである。


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ひとりかくれんぼにはこのようにして「認識の偏向」を準備する暗示プロセスが念入りに組み込まれている。
他方、丑の刻参りの「認識の偏向」とはどのようなものか。

ひとりかくれんぼが自分自身を呪い害をなそうとする呪術である一方で、丑の刻参りは他者を呪い害をなそうとする呪術である。
「認識の偏向」によって、はたして本当に他者に害をなすことできるのか。
結論から言えば、可能である。
なぜなら、他者が何らかの害や不幸を偶然に被るまで、儀式は続行されるからだ。
重要なのは「偶然に」という部分だ。
本当に丑の刻参りによって、何らかの負の霊的エネルギーとやらがスピリチュアルな仕組みによって、呪いたい相手に届き害をなしたのではない。
呪った相手は偶然に不幸な目に合ったに過ぎない。しかしそれを儀式者は「丑の刻参りで呪ったからだ」と解釈する。
これが、丑の刻参りの呪い、「認識の偏向」である。
そもそも丑の刻参りは一日で成就する呪いではなく、伝統的には7日間連日行わなければならないと信じられてきた。また、その様子を他人に見られると効力を失うという厳しいルールさえ設けられている。
ここに、「認識の偏向」としての呪いを発動するための狡猾な仕掛けがある。
そもそも、わざわざ丑の刻参りで他者を呪おうとする悪意に満ちた人間が、一日で諦めるはずがない。執念深く儀式を行うはずであり、したがって、呪う対象が偶然不幸な目に合うまでのある程度の時間稼ぎが、当初より用意されているのである。
さらに伝統的な作法では7日間連日行わなければならず、途中でやめてしまえば、効力がなかったとしても仕方ないと解釈される。あるいは執念深く、作法通りに7日間連日儀式を遂行したとして、それでも効力がなかった場合は、今度は「知らないうちに儀式を他人に見られたために効力を失った」のだと認識が偏向するだろう。

このようにして、丑の刻参りは”作法通り”に行えば必ず成功するのである。そして殆どの場合、そもそも作法通りに行えずに失敗するのである。偶然に、儀式者が納得しうる程度の不幸が、呪う対象に訪れない限り。


そしてもちろん、成功も失敗も、そのすべてが気のせいである。


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ひとりかくれんぼ、丑の刻参り、その他オカルト儀式全般に言えることだが、皮肉なことに、信心の強さが呪力の強さに比例するという冗談のように漫画・ゲーム的なオカルト観は、ここではむしろ真実となる。

強く信じれば信じるほど、認識の偏向は強化され、その呪力、霊力を増すだろう。


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2020/10/18深夜3時、ましろはひとりかくれんぼ配信を行った。
この配信には2つの呪いがあった。
2つの呪術/呪いが、同時に発動していた。
ひとつは、ひとりかくれんぼの儀式であり、対象は儀式者当人であるましろ。
もうひとつは、ひとりかくれんぼ”配信”であり、儀式者は配信者のましろ、対象はその配信を見ていた1万人を超えるリスナーである。



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ましろが呪ったのはましろ自身だけではない。配信を見ていたリスナーをも呪っている。
見ると呪われる、素晴らしい呪いの配信。
求めていたのは、まさにそうした”劇薬”ではなかったか?
笑い死ぬ配信が歓迎されるならば、呪い殺される配信も歓迎されよう。



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刃を出し切り裂く音



これはましろが「アナベルみつけた」と言った直後、カッターの刃を出してぬいぐるみを切り裂く音、その音声波形である。
風呂場に設置された高感度マイクが集音し、その音声波形を2階の隠れ部屋にある配信PCで観察する。


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触媒/呪具は3つ。
チャット欄と、ましろと、そして録音(青い音声波形)である。

自称霊感強い人の香ばしいイキり講釈、野次馬愉快犯による虚言煽り、衣擦れにビクつく小心者の病的誇大妄想、過剰にましろの身を案じる杞憂民の神経症的不安、ガチ恋リスナーの突発性見当識障害によって脈絡なく発せられる「愛してる」等の場違いでおぞましい言語的愛撫、真っ赤に茹で上がった指示厨が分泌するネトネトした粘着質な苛立ち、
配信音声の静寂とは裏腹の、地獄の釜を開けたような混沌としたチャット欄。
みな正気を失っている。
振り返ればこれほど滑稽な混沌もない。
しかし後から振り返ってどれほど滑稽であったとしても、この混沌こそが呪いを完成させる重要な触媒の一つなのだ。
正気を失うこと。狂うこと。
「認識の偏向」とは、呪いとは、つまり狂気の沙汰だろう。
恐怖と狂気は感染する。
ましろの恐怖と狂気がリスナーに感染し、正気を失ったリスナーによる狂ったチャット欄はまるで呪文のように、それを読むリスナーを狂わせる。
静寂に耳を澄まし、チャット欄の混沌を尻目に、青い音声波形を凝視しよう。
その波形の振幅は、まるで催眠術師が揺らすコインの軌跡のようではないか。
だんだんあなたはおかしくなる。
だんだんあなたはおかしくなる。
だんだんあなたはおかしくなる。
だんだんあなたはおかしくなる。
だんだんあなたはおかしくなる。
だんだんあなたはおかしくなる。
だんだんあなたはおかしくなる。
だんだんあなたはおかしくなる。
だんだんあなたはおかしくなる。
だんだんあなたはおかしくなる。
しかし狂人は自らの狂気を自覚できないから狂人なのだ。
おかしくなったのは自分ではない、おかしいのは目の前のこれだ。

ましろは目を見開き、異様な軌跡を描く青い振幅と同調するように、ひきつった声を震わせて「ありえない」と言う。

その「ありえない」ことが、目の前で起きている。

気がつけば、あなたはそう信じている。



こうしてぼくたちは呪われたのだ。

もちろんすべて気のせいだが。


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(未完)                                                                                                             

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