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騙されてはいけない!「人に迷惑をかけるな」は傲慢で危険な思想
不倫たたきやTwitter炎上に見る違和感
Twitterを遅まきながら始めて1年ほどなのだが、フォローしている層でよくわからないところで非難されていたり炎上しているのをよく見かける。
一番違和感を覚えるのはこんなことすると…に迷惑がかかる!みたいな言い分だ。色々思い浮かぶが、わかりやすい例で言うと、浮気不倫叩きだろう。せいぜい本人と妻と不倫相手、そしてその人たちの家族ぐらいにしか迷惑かかっていないのに、鬼の首取ったかのように皆が叩きまくる。
叩いている人は特に迷惑を被っているわけではない。彼らは「人に迷惑をかけるな」という錦の旗を掲げてSNSで叩く叩く。使われすぎてもはや現代思想の印籠と化している感もある。
印籠は時代的に分からない人もいるだろうから解説。水戸黄門というドラマで、「この紋所が目に入らぬか!恐れ多くも、先の副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ!」。ドラマのクライマックスは、格さんが印籠を取り出してその場にいる人々に示しながら言うシーン。これを聞いた悪代官らは「ははーっ」と即座に平身低頭するわけです。
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ははーっ!!
「人に迷惑をかけてはいけない」
一見全く反論のない正論に見える。このフレーズを出せば、印籠よろしく大体の議論は収束してしまうだろう。
でもこれって本当に正しいのだろうか?
迷惑をかけないことが正義?
こんな教え方は親と言うより、友達関係、あるいはSNSの炎上で植え付けられている教えの気がする。事実自分の親からそのような教えを受けた覚えはない気がするし、他の国でも困っている人は助けなさい、というような教えが多いと思う。
このように見てくると、「他人に迷惑をかけるな」という消極的道徳よりも、「困っている人を助けなさい」という積極的道徳の方が、むしろ普遍性があるのかもしれない。
東大の相談室からの引用だが、さすが東大、他人に迷惑を掛けるな、は消極的道徳、困っている人を助けなさい、は積極的道徳ですな。ってか上の相談室の内容で今回のテーマ語り尽くされてる気がするんだが。気にせず進みます。
道徳に消極的と積極的なものがあるかについては、調べてて初耳だったのだが、調べてみると最近話題の渋沢栄一の持論だったようで、引用する。
「消極的道徳」 というのは,「なすべからざることをするな」 という道徳であり,健全さを求めるためのもの です。
それに対して第二の「経済=道徳説」でいう道徳は積極的道徳です。これは「なすべきことをせよ」という道徳で,活力にかかわります。今の言葉で言えば,使命とか職責とか責任といったものにかかわります。
消極的道徳は現在で言うコンプライアンスであり、積極的道徳は活力に関わると、なかなか示唆に富む内容です。これは最終的に経済と道徳をどのように両立させるか、という論理の一環であり、あくまで渋沢栄一個人の考え方であることも付け加えます。現代は消極的道徳が優勢になり、積極的道徳が下火になっている印象。
脱線した。それはさておき、人に迷惑をかけるな、という考えの何が悪いかというと、その教えを突き詰めると自分を含めて人間が生きていることが悪い、消えるべきというところに行き着いてしまうところである。まるで少年漫画の悪役だ。
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イエスキリストは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」と言い、誰も石を投げず帰ったというが、罪を迷惑、と置き換えても良い。
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あなたは人に迷惑をかけて生きていないのか?
この言葉に胸を張ってYesと答えたとしたら、あなたは想像力が足りなすぎると思う。
なぜなら人間は存在そのものが罪を背負う動物である。例外はいない。
「ガンジーが助走つけて殴るレベル」で有名(?)なガンジーも
わたしたちが身を置く場には、幾百万という微生物が棲息していて、わたしたちがそこにいるというだけで被害をこうむります。それでは、わたしたちはどのように身を処せばよいのでしょうか。自殺をすればよいのでしょうか。そんなことをしても、なんの解決にもなりません。
同様の描写は宮沢賢治、よだかの星でもある。
また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓うえて死のう。
わかるだろうか。まずあなたが生まれるには当然栄養が必要であり、それは動物、植物の犠牲無くしてはあり得ない。呼吸するだけで酸素を食い潰し、二酸化炭素の排出を増やす。
そしてあなたが育った場所も、教育を受ける場所もさまざまな犠牲を払って作られた場所なのである。当然あなたが発する言葉や行動によっても傷つけられ、迷惑を被る人がいる。
社会人になって仕事をして自立してもそれは消えない。まずあなたのポジションは他の入りたかった誰かが欲しがっていたポジションである。あなたがいるがために不幸になる人間は必ずいる。そしてあなたは生きているだけで食事はもちろん他の資源を食い潰すことになる。
じゃあ死ねばいいのか?死ねば迷惑をかけなくなるかもしれないが、死んだ後は社会に夥しい迷惑がかかる。死体の始末、住居の始末、葬式など。よだかの星では最後星として燃え続けるエンドだが、これはどちらかというと宮沢賢治の願望だろう。
それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐りんの火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
こう考えると、迷惑をかけたくなかったら今すぐ世の中から自分に関する記憶と記録ごと消滅するしかないのである。SF小説の最終回みたいに。でもこれは不可能だ。
この考えは突き詰めるとあなたの存在と生きる意味を否定し、毎日を楽しく生きるのに有益なものを何一つ提供しない。
「人に迷惑を掛けるな」という考えの圧倒的傲慢さ
もう一つは、この考えは一見謙虚なようでいて、そもそも自分は社会に迷惑をかけていない、という圧倒的傲慢の上に成り立っているということだ。こっちもタチが悪い。先程も言及したとおり、罪を背負っていない人間なんかいない。
自分の罪を自覚していない、というのは厄介だ。ソクラテスも無知の知、で言及している。知らないことそのものより、知らないことを知らない方が罪なのである。自分が既に生きているだけで迷惑をかける存在ということをわかっていない。
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傲慢は人間関係を破壊し、周囲を含めて幸せにしないことは議論の余地はないと思う。無自覚な傲慢であるがために、より気づきにくく、たちが悪い。自分でこの考えの傲慢さに気づくまで、ずっと人間関係を破壊し、不幸を生産する、終わることのない呪いにかかる。
上の東大のホームページに書かれている通り、人に迷惑をかけるなを読み替えると、人に迷惑をかけた人にはどんな非難を浴びせても良い、なのである。この教えを是とするなら、誰もテラスハウスの木村花さんを救えない。この教えを規範として良いのだろうか?
結語 この考えは誰も幸せにしない、あなた自身を含めて
まとめると人に迷惑をかけるな、と言う思想は突き詰めると自分の存在意義を失わせ、その傲慢さから周りとの信頼関係を崩壊させる可能性の高い、自分を幸せにしない考え方である。
どんなに自分の正義に合わない人でも、この印籠を使って責めるべきではない。なぜなら使った地点であなたの考えの奥深くに刷り込まれ、見ている人にも刷り込まれ、あなた自身を含めた不幸な人を増やすだけだから。
もしもあなたがこの考えに囚われて毎日の可能性を狭めているのなら、今からでも遅くない、一日も早く開放されるべきだ。あなたのためにも、周りのためにも。
〆
追記:なぜこの考えが世の中に浸透したのか
深く考えると、酒鬼薔薇事件の頃だったように思う。色々な考え方が相対化されすぎて、どんな考えもそれぞれ正しい!みたいになっていた頃に酒鬼薔薇事件は起こった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/神戸連続児童殺傷事件
この時人殺しはいけません!という教えも相対化され、なぜ殺人がいけないの?という問いかけに答えられない親が多かった、みたいなことがあったように記憶している。この頃はとにかくダメなものはダメなんだ!みたいな教え方は良くないという風潮もあったため、なぜ人殺しは良くないのかと言うことを子供に理解させるのは難しかった。しかし一見当たり前に見えることを説明するのは思ったより難しかった。
そこで出たのが人に迷惑をかけてはいけません、という教えではないかなーと。なるほど、こういうときに便利な考え方ではある。あと日本の高度成長期が終わり、コンプライアンスが重視されて来たこともあるのかもしれない。これまでOKだったグレーな部分を今後はだめですよ、と納得させるのに便利な考え方でもある。あくまで個人の考えですが。
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