それはARのように

 街を歩いている。僕だけではなく、いろんなひとが歩いている。すれ違うひとや前を歩くひと、そのなかの誰かに目をとめることがある。一瞬そのひとの印象が記憶に残る。「ギター背負ってるから、バンドやってるのかな」とか「ずいぶんと足早に歩くなぁ」とか。
 それはそのあと思い出されることのない記憶かもしれない。脳の奥底に沈んでいって、浮上してくることはないだろう。けれど、どこかにはある。部屋のなかで、いつのまにか失くしてしまったおはじきのように。

 同じことがきっと僕に対しても起こっている。街を行く誰かがなんとなく僕を見て、その印象が残る。それはそのひとのどこかに、僕の欠片があるということになるのかもしれない。世界には僕の欠片が無数に散らばっている。
 そこでふと、考える。不運にもその誰かが死んでしまったら。その瞬間、僕の欠片も死ぬことになるんじゃないか。無数に散らばった僕の小さな死。欠片はそこここに散らばりながら、同時に別のところで死んでゆく。

 世界についても同じことが考えられるだろうか。ひとや動物(植物も?)は、この世界を知覚する。世界の欠片が、あちこちに散らばる。僕や近所の猫なんかのなかに世界の欠片が残る。
 そして、世界の欠片を持つものたちが死ぬと、世界の小さな欠片が死ぬ。世界の屍骸が堆積する。

 僕らは世界を知覚する。その世界には、新しく散らばった世界の欠片と堆積した世界の屍骸が重なっている。その欠片や屍骸は見えるわけではない。けれど、こうやって言葉のフィルターを通すと、見えてくるような気がする。
 それはちょうど、スマホをかざしてARを見ることに似ているかもしれない。
 そんなことをぼんやりと考えていた。

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