ぼんやりとした不安に向き合う
芥川龍之介が自殺する前に遺した「僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」という言葉があります。
これは芥川龍之介が友人に送った手紙の中に記された言葉で、自身の自殺の理由のひとつとしてこの言葉を使っています。
今日は「ぼんやりとした不安」に自分なりに向き合ってみようと思います。
①「ぼんやりとした不安」とは何か
まず、この「ぼんやりとした不安」とは何か。
それは理由のない不安。何が不安なのか分からないけれど、将来自分はどうなるのか、健康でいられるのか、成功できるのか、そんな今の自分からは測れない将来に対しての何となくの不安。
これの厄介なところは、「どうにもできない」ことが往往にしてあるからだと思います。
「自分が将来どうなるか」「ローンはちゃんと払えるのか」「ちゃんと結婚できるのか」「子供はしっかり育ってくれるのか」
それらは全て、今の自分が直接的に結果をコントロールすることはできません。できるのは小さな積み重ねだけです。
大変なことに、人生はそんな大小様々な不安を絶えず感じながら過ごさなければならないものなのです。多分ね。
②自分の不安の正体を知る
でもだからって、何もできずに不安に震えるのか、芥川のように人生に見切りを付けるのか、というと、その必要はないと思っています。
そもそも、その不安はどこから来ているのか、正確に分かっているのか?
いやむしろ、正確に分かっていないこと自体が不安なのではないのか?
何がどう不安なんだ、と自問自答し、紙でも何でも良いですが、とにかく書いてみる。ひたすらに書くと、自分が本当に不安に思っている「核」に近づけると思います。
その「核」の場所が分かれば、もう十分だと思います。
やること、やれることを考える余裕も少しずつ生まれるはずです。
③一旦立ち止まる
これは、「怒り」でよく使うんですが、「怒り」を覚えた時に一瞬立ち止まって振り返り、何にどのように怒っているのか考えます。
これは自分を落ち着ける効果もあるし、自分が怒れる「価値観」を見つける機会にもなるはずです。
同じように「不安」にも使えると思っていて、「何に対してどれくらい不安なのか」一回立ち止まることで、不安から逃げずに向き合えると思っています。
ごちゃごちゃ言いましたが、所詮一個人の考えだし、当てはまらない人も多いとは思います。
実際自分自身も怒ることも不安になることもたくさんあるし、完全にコントロールするなんて無理だと思います。
でも私はこうやって自分の不安の居場所を探して、「何とかなる」と思うことにしています。
重い話をしてしまったので、最後に日記っぽいことを書いておこうと思います。
今日は2月26日。
私は思い切ってnoteでたくさんの人をフォローしてみました。
最初は斜に構えて「自分からはフォローしないぜ」と思っていましたが、気になるジャンルの人をたくさんフォローするとタイムラインに興味深い記事がたくさん流れてきて、昨日までのnoteと別のサイトになったような気分です。
noteを初めて約3ヶ月。遅すぎる発見。
あ、あとコンビニに売っているタリーズの烏龍ミルクティー、当たり前だけど烏龍茶感が強くてびっくりしてしまいました。
それでは。
無理は言いませんし、そう簡単に得られるとも思っていませんが、サポートしていただけたらそのお金で買ったことのない飲み物を買います。