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◆読書日記.《デイヴィッド・J・リンデン『40人の神経科学者に脳のいちばん面白いところを聞いてみた』》

※本稿は某SNSに2020年6月4日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 デイヴィッド・J・リンデン『40人の神経科学者に脳のいちばん面白いところを聞いてみた』読了。

デイヴィッド・J・リンデン『40人の神経科学者に脳のいちばん面白いところを聞いてみた』

 リンデンはジョンズ・ホプキンス大学医学部教授であり、神経科学者としての研究だけでなく、一般向けの著書から大学の講演、ラジオ出演などによって脳科学の知識の普及にも努めている一線の研究者。

 脳の可塑性については国際的なリーダー的な存在だったそうで、そのリンデンが現在の脳科学分野での「ドリーム・チーム」を選出し、それぞれの分野の学者・研究者に「その分野について、一般向けにいちばん話したい事は何か?」というお題でショート・エッセイを書いてもらったものを集めた脳科学エッセイ集。

 勿論エッセイと言っても軽い読み物というわけではなく学術的な内容のものが集まっており、ちゃんと原注として参考論文や参考文献のリストも掲載している。

 冒頭ではリンデン自らが、本書を読む前の基礎知識として細胞レベルの脳科学の基本的な知識を解説する。読者はそれを元に以降のエッセイを読んでいけば良いわけだ。

◆◆◆

 本書は全体を5パートに分けており、それぞれ「発達と可塑性」「脳のスペック」「知覚と運動」「脳の社会性」「思考と判断」といったくくりで分けて各パートごとに専門家の文章が揃っているという形式になっている。
 それぞれの分野で現在、分かっている事と分かっていない事が明確に示されている点などは参考になる。

 さすがに37(二人で一つの文章を書いているものもあるので全体で37話分の文章が掲載されている)の文章が一冊にまとめられているので、一つ一つの文章は短い。「え~っ!もっと知りたいのにぃ」と思う事もしばしばある。

 また、エッセイ集という事もあるので一貫した読み物というわけではない。
 ので、多少「散漫」な印象になっているかもしれない。しかし、さすがに著述家ではない科学者たちに書かせたものだけあって、記述は慎重で、大胆な予想も発想の飛躍もない。

 実に今まで散々知られてきている基礎的な知識を敷衍したようなものも多くあるので「面白い読み物」というわけにはいかなかったようだ。

「読み物」として読むとそういう印象を受けるかもしれないが、現時点での脳科学トピック集として考えてみれば、適切な時期に適切に各分野の知識にアクセスできれば実質的に参考になる「インデックス集」としても本書は役に立つだろう。
 まあ、エピローグとしてリンデンが書いた本書の総括は、だいぶ苦しそうだったが(笑)。

◆◆◆

 ……という本書の概括を踏まえたうえで以下、ぼくなりに今回気になったトピックや興味を引いた知識などについてぱらぱらとまとめていこうと思う。

 まず、リンデンお得意の「脳の可塑性」というものについてはなかなか面白い。

 人の脳細胞は成人したらほぼ増減することはなくなってしまうと言われている。
 人のニューロンは完成した時には約一千億個あってこれが増減する事はほとんどないのだが、このニューロンは一つに付きだいたい五千箇所のシナプスから情報を受け取っている。
 で、総合して脳のネットワークには中継箇所としてのシナプスが合計500兆あって、これが同時並行的に並列処理を行っているのだ。

 コンピュータの処理速度は脳の処理速度の約一千万倍早いと言われているが、コンピュータの処理は逐次処理×CPUコアの個数(デュアルコアで2個、クアッドコアで4個)であって、500兆個のシナプスの同時並行処理とは全く処理方法が違っている。

 また脳の処理方法も、デジタル&アナログ処理の両方あると言われている。

 コンピュータがチェスや将棋などの限定されたルール下での勝負だったら人間には勝てるが、総合的にまだ人間の能力を大きく上回ることが出来ない理由はここら辺にある。

 本書のラスト近くに出て来る文章でも、人間の脳を上回る機械が出来るか否かという問題も、出来る/できないで意見が分かれているのが面白い。

「出来る」派の人間の主張は、途方もなく巨大な処理能力を備えたコンピュータが出来れば可能となると言っていたが、これは恐らく我々が生きている間に完成する事はなかろうと思われる。
 人間の脳に備わっている能力と言うのは、それほど巨大なものだし、それだけにまだ判明していない事が多すぎるのだ。

 で、この脳の500兆にもわたるシナプスのネットワークというものは、日々大変大きく変化していくことで記憶の変化や学習効果などになっていく。

 ニューロンの個数は変わらないが、ネットワーク自体は大きく変化するということで、脳の中というのは様々な能力の場所取り合戦のような様相を呈しているのだそうだ。

 例えばロンドンのタクシー運転手は2万5千本もある市内の通りと2万か所もあるランドマークを理解して、A地点からB地点までの最短ルートを地図を見ずに答えるという訓練を行うそうだ。
 現役タクシーの運転手は環境の空間的な表象に関わる海馬の後部が前部と比べて拡大しているのだと言われている。

 タクシー運転手を志望している人間の海馬の状態を4年間調べる調査では、タクシーの資格試験の勉強をする事で海馬の後部が拡張する事が分かっている。
 タクシー運転手の空間ナビゲーション機能は上がるが、その代わり視覚空間課題――例えば複雑な形を覚えて絵に描く課題等――の成績が悪くなるのだそうだ。

 因みにタクシー運転手は引退するとこの空間ナビゲーション能力は下がって海馬後部は通常の大きさまで戻る。
 その代わり視覚空間課題の成績は運転手出ない人たちと同じレベルまで戻る。

 人間の脳というものはこのように柔軟な部分は柔軟にネットワークを日々変化させていると言われているのである。

 こういった脳機能の研究はfMRIやPET等といった非侵襲的な脳画像検査が可能になった事で飛躍的に進歩したそうだ。

 だが、人が何かをしている時に活性化している脳領域はかなりの部分判明してきたにも拘らず、その領域でどのようなプロセスを経て人間が活動しているのかという事はなかなか分かっていない。

 だからそのために神経科医のラマチャンドランが行っているような脳障害患者の症例研究であったり、実験動物を扱った研究というのがこれからも必要となる。

 例えば、カエルの目の基本設計というのは人間とよく似ているそうで、人間の目の構造を理解するためにカエルの目とその脳との関係を調べる研究などもあるという。

 動物の行動とその脳の構造とを人間の脳と比較する事によって人間の脳について理解することが出来るという研究もある。
 これは先日も紹介した小林朋道『ヒトの脳にはクセがある 動物行動学的人間論』で紹介されていたアプローチだった。

 つまり人間は頭蓋骨を開いて脳に電極を差すような研究ができないからこそ、非侵襲的な画像解析やその周辺の症例研究、動物実験などなどの方法の総合知によって脳を理解していかなければならないのだ。
 脳を直接観察することが出来ないのだから、人間の脳というのはまだまだ分からない事が多く残っているのである。

 脳の研究で興味深いのはやはりフロイト的な「無意識」の部分だろう。
 リンデンも最後のまとめに次のように書いている。

「私たちは自分が自律的で完全に合理的な存在だと感じているが、実は無意識の強力な動因に完全に従っている。動因の大半は生存と生殖に関連するものだ」

 つまりはこれが、フロイトのエロス論の事となる。
 フロイトは人間の欲動は大きくエロスとタナトスに分かれていてリンデンの言う「生存と生殖」というのはどちらも「エロス」に関わる欲動としてフロイトが説明している。
 という事は、フロイトのいう「タナトス(破壊衝動・攻撃欲)」については間違っているか、もしくはまだその部分についてはよくわかっていないかのどちらか、といった所であろうか。

 しかし、我々人間が、自立した意識によって完全に合理的に行動している訳ではなく、常に無意識によって操られている存在なのだという認識は、フロイト学説と似たような結果となっていて、これもまた面白い意見であった。


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