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◆読書日記.《矢口高雄『釣りバカたち』1巻》

※本稿は某SNSに2019年9月6日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 矢口高雄『釣りバカたち』第一巻読みましたよん♪

矢口高雄『釣りバカたち』1巻

 ぼくの中で近ごろ矢口高雄の再評価が進んでいる。
 本書は「釣りを趣味とする生き方を選んだ人達」を描いたオムニバス短編集で、共通して登場するキャラクターはいない。

 第一巻では「山女魚(ヤマメ)」と「岩魚(イワナ)」等の川釣りをする人達をメインに描く。

 例えれば、『男どアホウ甲子園』や『ドカベン』なんかの水島新司が『野球狂の詩』で「野球を一生の趣味として選んだ人間たちの野球にかけた人生」をオムニバス形式で描いたように、本作は「釣りを一生の趣味として選んだ釣り人たちの人生」を描いてきた矢口高雄の、釣り人版『野球狂の詩』なのだろうと思う。

 矢口高雄にとって「釣り」とはイコール「自然とのぶつかりあい」のようなものなのかもしれない。
 川魚を捕って食うと言うのは、肉や野菜のように養殖や栽培によって「人に飼いならされた自然」から食料を採るのではなく、自然のままの生き物と真剣な戦いを戦ってやっと掴み取る事のできる、原始そのままの「狩り」なのだ。

 ぼくは以前も矢口高雄の『激濤マグニチュード7.7』を評したときに、矢口マンガの特徴としてひとコマひとコマすべてに丁寧に背景を描き込んでいる事を指摘した。
 本書でもその特徴はそのままなのだが、本書での圧倒的な自然描写を見ていると、その徹底ぶりが矢口高雄自身の自然観からきているのではなかろうかとも思えてきた。

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 例えば――これは特に少女漫画に言える事なのだが――漫画の背景はしばしば「登場人物の背後にあるもの」という描かれ方をするものだ。
 だから、その手の漫画の背景はしばしば「登場人物の添え物」として、物語の流れの中で必要のないときは省略される事も多い。
 矢口高雄のように全てのコマに背景は描かないものだ。
 それはあくまで漫画や物語というものが「キャラクターを描く"人間ドラマ"だから」という理由があるからで、そのために漫画におけるカメラの焦点は「キャラクター」にピントが合う。

 だが、キャラクターとほとんど同じ密度――作品によっては背景のほうが密度や描線が多い――で背景の大自然を描くのが矢口漫画の特徴だと言えよう。

 そう言った形で背景の自然を非常に緻密に描く矢口高雄の漫画を読んでいて感じるのは「人間は自然の中に包まれて生きている」という事。

 矢口高雄の漫画は必ずしも人間中心ではないのだ。巨大な自然の中にあって人間は生きている。
 そんな自然観がどこか矢口高雄の中にはあるのかもしれない。

 だから矢口の漫画は背景描写の圧力が強く「キャラクターの背後」という扱いを受けずに「前面」に出て来る。
 そして度々その中の人間がちっぽけに見るのは、その絵の中に秋田県の自然の中で育ってきた矢口高雄の自然観がナチュラルに反映されているからなのかもしれない。


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