◆読書日記.《筒井康隆『ビアンカ・オーバースタディ』》
※本稿は某SNSに2021年9月12日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。
SF小説の巨匠・筒井康隆がラノベに挑戦した!という触れ込みで話題となった2012年発刊の星海社のライトノベル『ビアンカ・オーバースタディ』読了。
筒井はその人間性があまり好きになれない作家なので、その作品はあまり読んだ事がない。
今回はそんな筒井のラノベ観を確かめたいという目的で読んでみた。
<あらすじ>
ビアンカ北町は学校の男子生徒全員からの熱い視線を集める校内イチ可愛い女子高生。
彼女は生物研究部に所属し、高校の部活としてはちょっとレベルの高い器具を使ってウニなど生物の生殖に関する研究をしていた。
ある時、ビアンカはいつも生物研究部の前の廊下に座り込んでビアンカを物欲しげに眺めている男子生徒・塩崎哲也に自分の研究を手伝うように話を持ちかける。
塩崎なら、彼女の言う事は何でも聞きそうだと踏んだのだった。
ビアンカは、人間の生殖に興味を抱いていたのだ。「精子を出しなさい!」――と、ビアンカは塩崎に命令する。塩崎は狼狽え乍らも、ビアンカに従うのだった。
人間の精子を顕微鏡で観察できてご満悦のビアンカ。
調子に乗って部活の先輩、ノブの精子も搾り取って観察してみると、彼の精子は塩崎と比べ物にならないほど弱弱しかった。
「――ねえ、先輩ってもしかして未来人じゃないの?」唐突なビアンカの疑問に、ノブは自分が未来人である事を認めるのであった。
ノブは、自分が来た未来は温暖化が進んで海面上昇し、人間の住める陸地が少なくなっていた。
そのわずかな陸地に、変異種の巨大カマキリが大繁殖していたのだ。
ノブは、この巨大カマキリを駆逐する生物を探し、この時空でアフリカツメガエルを捕って研究していたのである。ノブはビアンカに協力を求める。
だが、このときビアンカは密かに、このノブの持っている未来の科学技術をこっそり拝借して、自分の採取した男子の精子をアフリカツノガエルの卵子に受精させてみるという素敵な計画を企て、胸躍らせていたのであった。――というお話。
<感想>
筒井お得意のジョブナイル版スラップスティックSFと言った感じ。
さて、やはり本書の気になる所は、まず何といっても本作が巨匠とは言え執筆当時70歳台のおじいちゃんが若者向けに書いた作品だという事だろう。
往年の巨匠の才能が、どの程度いまの若者の感覚に適応できるのかという点。この点に関しては、残念ながらぼく的にはあまり評価できない。
本書のような、明確に「若者向けに作られた作品」の企画が成功したか否かを判断するポイントの一つは、読んでいて「あ、オッサンくさいな」とか「こんな言葉、流石にもう今どきの青少年は使わないよ」といった違和感やギャップを、作品内に感じさせるかどうかといった所にあるのではないかと思うのである。
この辺の感覚は、流石に巨匠とは言えズレを感じさせるものがあった。
これは多少は致し方ない事だったのかもしれない。だが、そういった年代ギャップというものは、ある程度の才能さえあれば克服する事ができるのではないかというぼくの淡い期待は、裏切られてしまったのだ。
やはり、おじいちゃんはおじいちゃんであった。
一番イヤだったのは、女性の下着を今更「パンティ」と記述する事のオッサン臭さである。
あれはホントやめてほしい。ぼくの学生時代でさえ「パンティ」なんてのはオッサン臭い言い方だった。
不良娘の口調が「●●しちまいな」「●●しやがった」みたいな任侠のアネゴみたいなオバサン臭いセリフなのもカンベンしてほしかった。
こういったものはある種「文体はオッサン臭くとも、挿画さえ若者向けの人気イラストレーターを使えば、若者には受けるのではないか?」という実験でもあったのではないかと思える。
しかし、流石に肝心の中身がオッサン臭くては、萌えキャラにもならない。
若者がこれを見て喜んだかどうか是非聞きたいものである。
著者は「あとがき」にて、この作品を「ふたつの読みかたがある」として「通常のラノベとして読むエンタメの読みかた、そしてメタラノベとして読む文学的読みかたである」と言っている。
が、これに関しても、贔屓目に見ても成功したとは言い難い。
メタ的な作品としては、先行作品の読み込みが薄すぎるのである。
近年のラノベは、ぼくが常日頃から「RPGファンタジー・パロディ作品」と称する作品ばかりであると言っているように、元々「メタ」的な作品が多いのである。
メタ的な作品というのは、多かれ少なかれ批評的な視点と言うものが必要で、そのためには先行作品を学習する必要があるのである。
平たく言えば「パロディ元のネタを知らずにパロディなんてできないでしょ?」という事。
ラノベを書く際に学習が必要な先行作品というのは、ほぼ文芸作品ではなくゲームであり、アニメであり、マンガなのだ(もちろんラノベも必須だろう)。
これらを学習した上でそれらの「お約束」を踏まえたパロディを作れなければ「メタ」たりえない。
「メタラノベ」という企図があった本作において、直接ラノベに言及されている部分と言えば「ビアンカやロッサのような美少女女子高生ばかりなんてのはラノベの中だけだよねー」的な作中人物のセリフ一か所ぐらいなものである。
「直接的にではなくて間接的に書いている所もある」という論駁もあるかもしれないが、それにしたってわざわざ筒井康隆が出てきて意見するほどの新しい視点もなく、読んでいて驚くほどの珍奇な事もやっているわけでもないので同じことである。
ラノベがそもそもパロディ色の強い作品ばかりなので、更にそのパロディを書こうというのならば、もっと勉強しておくべきだ。
ある種「メタラノベ」という筒井康隆の宣言というものは、本作が筒井なりのラノベ批評だと言っているに等しい。
では、本作がラノベの「荒唐無稽さ」を解剖できているのか?
ラノベの「パロディとの親和性」を風刺できているのか?
現代的なラノベの「穏健ユートピア性」をおちょくるような内容になっているのか?
なっていない、とぼくは考える。
筒井くらいの才能を持った人間がラノベに手を付けるのだから、これまでの常識的なラノベ観をひっくり返すような快作を期待していたのである。
だが、筒井のこの作品の場合、残念な事にラノベの段階の一歩手前の「ジョブナイル」の所で足踏みしている印象が強い。
それは何故かと言えば、何度も言うように「先行作品の不勉強」という一言につきよう。
読んでいて感じたのは、筒井はラノベを『涼宮ハルヒの憂鬱』くらいしか読んでいないのではないか?という事である。いや、本作は微妙に『ハルヒ』を意識して書かれているのではないか?とさえ思える。
ちょうど本作にも唐突に「未来人」なんてハルヒ的用語が出て来るしネ。
それに、ビアンカもロッサも、本人が言うには「超現実願望がある」というキャラクターであるらしい(ハルヒみたいにネ)。
いとうのいぢの描く女性キャラがそんな事言ってるなんて、まるでハルヒじゃん。ラノベのパロディじゃなくて、ハルヒのパロディを作ろうとしていたの、筒井先生?
案外、筒井には「ハルヒみたいなSFが若い人に受け入れられるんだったら、おれのスラップスティックSFも若い人にウケルんじゃないの?」という安易な皮算用があったのかもしれない。
だが、それにはさすがにムリがあった。
この作品がどれくらい若者にウケたかは知らないが、これ以降、筒井のラノベがどこかに影響を与えたという話はあまり聞かない。
ラノベでウケた作品は、たいていは続編が作られて「2度3度と長々しく出版社を潤して欲しい」というのが昨今の傾向でもあるから、さほどウケは良くなかったと考えて良いだろう。
「新しいヒット作のアイデアが秒でパクられる」ような傾向のある昨今のラノベ界で『ビアンカ・オーバースタディ』のアイデアを流用した作品などもほとんど見かけない。
編集者も、昨今のラノベ業界の事情やらポイントやらといった事をもうちょっと御大にご注進するとか、ラノベの基礎知識をレクチャーするとか、そういうサポートをすべきであった。
誰が悪いのか?もちろん太田が悪い。(という所でオチた。ちゃんちゃん)
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