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◆読書日記.《ジグムント・フロイト『人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス』》

※本稿は某SNSに2020年5月1~4日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 ジグムント・フロイト『人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス』読了。

ジグムント・フロイト『人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス』

 表題作の「人はなぜ戦争をするのか」は、あのアインシュタインが提示した「人はなぜ戦争をするのか?戦争を根絶する事は出来るのか?」という疑問に対して、フロイトが精神分析の立場から返信するという往復書簡形式の対話のうち、フロイトの返答のみを掲載したものになっている。

 どうせなら両者の意見をじっくりと読みたい所だったのだが、それはそれで本書の趣旨とは違ってくるのだろう。

 フロイトは「人間の間で利害が対立した時に、決着をつけるのは原則として暴力なのです」と書いている。これは「人間全員が、現代に至っても、そうだ」と言っているわけではなくて、原始状態/自然状態の人間の事をさしている言説だと言えるだろう。

 フロイトは、原始時代の人間は快感原則が野放しの状態で、それを理性で抑えるという状態にはなかったと考えた。
 だから人と人とが欲望をぶつけ合う利害対決が起これば、当然それは理性ではなくて感情と腕力で解決する、という事となっていたであろうと考えたのだ。当然、腕力の強い者が権力を持つようになる。

 だが、次第に人間は「腕力の強い人間に対して一対一で戦うよりも、集団で相手を襲えば腕力が弱い者たちでも勝てる」と学習するようになった。
 その事で人間は一人で活動するよりも力を集約できる集団で活動する事を選択するようになる。だが、人が集団で活動する場合、集団内部で利害対決を起こしては団結できない。
 そのために、集団となるには「個人の欲望を抑えて、集団内のルールを守る」という「理知的な方法」を取るようになる。

 つまり人間は、集団が大きくなればなるほど、その集団内のルールを守らせるために、個人個人が利他的な行動をするための「理知的な方法」を学ばなければならなくなっていったのだという。
 フロイトに言わせればこれが「法」となり「倫理」となっていったと考えた。

 集団は大きくなればそれだけ弱い人間が暴力に襲われる恐れが薄れて来るが、今度は集団と集団との間に「利害関係の対立」が発生する。
 こうなると集団vs集団という暴力が発生するようになる。これが戦争の起こりだと。

 基本的にフロイトは、文明が発展していくということは、個人が自分一人の利己的な欲望を満足させようとする欲動を抑制させて倫理的に、利他的に行動する事が求められることなのだと考えたし、理性的な文明人というのは、そのことを学んでいるはずだから倫理的に行動して野蛮な暴力に訴える事は減ると想像していた。

 だが、フロイトはこの論文を書いていた時期に発生した大事件――「第一次世界大戦」を経験した事で、その「幻想」に「幻滅した」と書いている。

 フロイトは、彼が経験した第一次世界大戦の戦禍をふり返って、次のように述べている。

「この戦争では攻撃と防御の目的で強力な武器が完成され、利用されたために、かつての戦争では考えられなかったような長期的な流血と損害をもたらしただけではない。これまでのどの戦争にも劣らず残酷であり、破壊的で、情け容赦のないものだった。平和な時には義務として定められ、国際法と呼ばれていたあらゆる制約が踏みにじられた。負傷者や医者の特権も、兵士と戦闘に従事しない住民の区別も、私有財産の保護の要求も無視された」
     ――ジグムント・フロイト「人はなぜ戦争をするのか」より

 当時のヨーロッパ人は多かれ少なかれヘーゲル的に自分達は高い理知と理性を体現した西洋文明の頂点にあると考えていたようだ。

 その「文明国」が、ルールも理性も人間性もかなぐり捨てた泥沼の殺戮合戦を繰り広げたのである。

「偉大な文明化された一つの国(※ドイツ)が、全ての人々から不振の念を抱かれるようになり、「野蛮である」という理由で、文化の共同体から排除する試みがなされうるようになった」とフロイトも書いている。

 理知と文明の頂点にあったはずのヨーロッパが、平素では考えられない野蛮性をむき出しにして原始時代に遡ったかのような殺し合いをした――このショックは、丁度ドイツで同年代の学者だったフッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を書かせるに至った「諸学の危機」という危機感とも通じるものであろう。

 フロイトは、人間とはもともと理性よりも欲動のほうが強いものだと言っている。
 人には原初の状態として欲望のままに動く「快感原則」があり、それを理性によって抑えて周囲と現実的な協調関係を築いていこうとする「現実原則」が制御するという関係を持っている。

 フロイトは、人間が利害対立を暴力によって解決する事を避け、話し合いや協調によって解決しようとするのは何より理性の働きであり、この「現実原則」に従って行動するからだという。

 利害対決を感情によって解決しようとすることで暴力が発生する。

 だから、今まで人間は文明を築いていく過程でそれを抑えるために理性を育ててきたのではなかったのか。

 フロイトはアインシュタインに対して「あなたは、人間がいかに戦争にすぐ熱狂してしまうかと驚いておられました」と述べている。その理由をフロイトは「人間は理性よりも欲動のほうが強い」と言って説明しているのだ。

 人間はどれだけ理性を身に着けても、原初の心性というのをいつまでも保持しているもので、何かにつけてその原初の欲望を解放させようとするかのような状態に戻るのだそうだ。これを精神分析では「退行」と呼んでいる。

 一次大戦によって文明国が理性や道徳性をかなぐり捨てて野蛮な暴力性を爆発させたのは、ひとえに文明国同士でこの心的退行現象が起こったのではないかとフロイトは考えるのである。

 フロイトは、人間の欲動には「エロス」と「タナトス」に二種類しかないと言う。
 戦争に熱狂する人々の欲動は「タナトス」にあたる破壊欲動であったり支配欲であったり攻撃欲動であったりする。
 こういった欲動は理性で抑えれば抑えられるというものでもなく、フロイトも「人間の攻撃的な傾向を完全に消滅させることを目指すべきではない」と言っている。

 つまり、精神分析的に戦争を回避する"間接的"な方法とは「タナトス的な破壊欲動を別方向へ向け、それを戦争という形で表出させないようにする」事なのだそうだ。

 だがこれは、フロイトも「間接的な方法」だと言っているように、精神分析から見た戦争を回避するための多くの方法の内のひとつでしかない、という事なのだろう。

 このようにフロイトは、アインシュタインと対話しながらこの世界大戦と言う悲劇を繰り返さないための方法を必死に考えるのである。

 また、フロイトは情動の理性に対する優位性を認めてはいるものの、人間の理性を信じているという考え方が常に残っている。

 人の破壊的な欲望を抑えるものは、精神分析的に言えば常に理性のコントロールによるあらゆる欲望の制御なのである。タナトスの方向を変えるというのも理性のコントロールに寄るしかない。

……といった感じで、本書はしょっぱなから「戦争」や「死」に関わる重ぉ~い深刻な議論が続いてかなり心にクるものがあるのだが、そんな中でもフロイトの理性を信じる心というのはぼく的には心強く思える。

 フロイトにとって「理性」とは、凶暴な欲動を抑えて人間を調和させる力があるとその最期まで信じていたと思うのだ。

◆◆◆

 フロイトはアインシュタインとの「人はなぜ戦争をするのか」のやりとりを通して精神分析の欲動論を固めていき、それは後期フロイト思想の重要思想である2種類の欲動「エロス」と「タナトス」の理論へと受け継がれていく事となる。

 第一次世界大戦での大きなパラダイムシフトの一つとして、人々の精神病への意識変化というのがあったのだという。

 何故かと言えば、この戦争の経験によって非常に多数の兵士たちに重度の戦争神経症の症状が現れた事が大きかったのだそうだ。

 世界大戦では科学の粋を集めた兵器によって想像を超える風景が現れたのだ。

 例えば戦車によって塹壕ごと潰された兵士達はグチャグチャのミンチ状の破片となった。もはやそれは一個の尊厳のある人間の姿ではなく、単なる残飯のようなものであった。
 戦闘機からの爆撃の直撃弾を野営地に受けた兵士達は、一斉に風船のように破裂し、誰が誰だかわからない赤い染みとなって地面にへばりついた。
 毒ガス兵器は、われわれが吸っている空気さえも残酷な兵器に変化させられる事を兵士達に教えた。
 これらは全て、戦士が「英雄」と称えられて、勇気をもって戦ったかつての栄光なる戦い=決闘の姿ではなかった。

 世界大戦とは効率的に死者を生産し、死者は単なる統計の数字に還元されるような、人間性を根底から奪われる事態となったのだ。

 この地獄のような景色を最前線で目の当たりにしてきた兵士たちの心的負担というのは、あまりに重く、戦後心的外傷によって体が麻痺したり、行動ができなくなり、発話さえ困難になる者も出たのだそうだ。

 当初、軍医らはこれらを「仮病」だと考え、電気ショックによって「治療」していたと言われている。
 だが、いくら電気ショック療法を重ねてもさすがにシェル・ショックによって麻痺した患者が回復するわけもない。

 こういった兵士らの症状を実際に目の当たりにしてきた医師らが、遂にこれらを器質性の病因でなく心因性の症状だと認めるようになり、ようやく精神分析に注目が集まるようになっていったのだそうだ。

 フロイトの思想はこれらの状況を踏まえ、次に「喪の仕事」と「鬱病」の分析に移る事となる。それが本書にも掲載されているフロイトの重要論文の一つ『喪とメランコリー』だ。

 戦後心的外傷や鬱病には若干の共通点が存在する。それが「反復強迫」というもので、これらは自己を責めるような心的傾向を何度も繰り返すというものだ。

 戦争神経症では、患者は戦場で体験した恐怖体験を帰国してもフラッシュバック等で何度も反復して思い出そうとするし、鬱病についても、何度も自らの非や過ちを蒸し返しておのれを責め立てようとする。

 フロイトによれば、人の欲動には「以前の状態を再現しようと努力」する傾向があるのだそうだ。

 つまり、こういった「自らを責める心的行動」も「欲動」の一部なのである。
 これは自分を責める「自己懲罰欲」と言われるマゾヒスティックな欲動なのだ。

 これは「タナトス=死の欲動」のうち破壊欲動が自己に向けられているのである。これらの精神症状はタナトスの欲動を自らに向けて自らに充足しているのだという。

 このときの自我は分裂しているのだ。
 自己を欲動の対象として「影」のようなものを作り、それに向かって攻撃を行うサディスティックな欲動と、その責めを受けて自らを戒めるマゾヒスティックな欲動だ。
 このアンビバレンスな欲動を自己の内部で循環させて充足し、そのプロセスのために病んでいくというわけだ。

 勿論、鬱病は様々な種類があって「一つの統一のとれた疾患として規定するのは困難にみえる」とフロイトも言っている。
 なのでこの場合は「"ある種の"鬱病のメカニズムの説明」だと思ったほうが良いだろう。

 フロイトは戦争神経症の症例を踏まえて、鬱病の分析のために『喪とメランコリー』の論考を進めることとなる。

 愛する人を失った際、人は「喪の仕事」という心的状況に入ると言う。

 人は自分と親しい人物や愛する人物に対し、繋がりを持って親しくしようという「エロス」の欲動を固着させている。
 そのエロスの欲動の備給先である愛する人が亡くなった場合、その欲動は突然行き場を失ってしまう事となる。
 人の欲動というのはこういう時、固着させていた欲動をすぐ柔軟に他の対象に移し替えるという事ができないのである。
 そのため、亡くなった人に向けていた欲動は、対象を失ったまましばらくその人の記憶に流れたままで解放されない。

 欲動を流し続けた結果、やがて時と共に欲動は溢れだしてやっと固着から解放される。

 勿論、亡くなった愛する人への欲動は無くなりはしないが、生前ほどの大量の欲動を備給しなくても良くなる。

 これが「欲動が解放された」という状態だ。

 この愛する人の死から欲動の解放までのプロセスがフロイトの言う「喪の仕事」となる。フロイトは、この「喪の仕事」と鬱病の症状には類似点があると気付くのだ。

「この二つの情動はどちらも生活におけるある特定のきかっけとして生まれる。明確に認識できる限りでは、いずれも同じ出来事の影響から生じるのである。喪の営みが必要となるのは、愛する人を失った場合とか、愛する人に匹敵する抽象的な概念、即ち祖国、自由、理想などを失った場合である。そして病的な素質の疑われる人物においては、この同じ出来事の影響のもとで、喪ではなく鬱病の症状が発生するのである」
       ――ジグムント・フロイト「喪とメランコリー」より

 両者の症状にも共通点が見られる。続けて引用してみよう。

「鬱病の心的な特徴をあげてみると、深刻な苦痛に貫かれた不機嫌さ、外界への関心の喪失、愛する能力の喪失、あらゆる行動の抑止と自己感情の低下などがある。(略)喪もまた同じような症状を示すのであり、ただ自己感情の障害が起こらない事が鬱病との違いである。他の全ての特徴は鬱病と共通しているのであり、喪と比較して考察する事で、鬱病を理解しやすくなるのである」
        ――ジグムント・フロイト「喪とメランコリー」より

 喪と鬱病との違いは複数挙げられるが、顕著な特徴は鬱病は自己を否定するというものがある。

 フロイトによると「喪では外界が貧困になり、空虚なものとなる。ところが鬱病では貧しくなるのは自我そのものなのである。鬱病の患者は自らの自我を価値のないもの、無力で道徳的に咎められるべきものと表現するのである」という。

 フロイトのこの辺りの記述は非情に冴えている。

「疑問なのはむしろ、なぜこうした自己の真実を把握するために病気にならねばならないかなのだ。真実を語っているかどうか、自らを多かれ少なかれ不当に扱っているかに関わりなく、このように自己を評価して、それを他人に告げる人は、病的であるに違いないからである」
         ――ジグムント・フロイト「喪とメランコリー」より

 喪も鬱病も「何かを失くしている」という事には変わらない。何かしらを「失くしている」のである。

「(鬱病の)患者は"誰"を喪ったかは分かっているのだが、自分が"何"を喪失したのかを理解していないことがある」とフロイトは言う。実は、鬱病患者は対象の喪失に苦しんでいるのではなかったのだ。

 何を喪っているのか? フロイトは鬱病患者の語る言葉を分析していった結果、彼らは対象の喪失で苦しんでいるのではなく「(自己の正当な)自我の喪失」によって苦しめられているのだと分かるのだ。

 鬱病の患者の自我は分裂しているのだという。自我は分裂することができる。自我は分裂した自我を攻撃するのだ。

 もう少し敷衍しよう。エロスの備給先である対象を喪失した場合、「喪の仕事」が上手く行けば対象に固着していたリビドーは時を経て対象から解放され、他の対象に移動していく事となる。鬱病はこのプロセスに失敗するのである。
 行き場を失ったリビドーは自己に回収される事となる。
 自己に回収されたリビドーは、自我の「ある部分」に備給され、自我の他の部分を攻撃するようになる。

 この「ある部分」というのが、心の中で良心・倫理観・道徳心を司る「超自我」だ。

 自らのリビドーを備給された超自我は攻撃欲動となり、別の分裂した自我を対象と思い込んでサディスティックに責め始めるのである。
 超自我は「自我を罵倒し、侮辱し、苦しめる事で、サディズム的な満足が得られるのである」とフロイトは言う。

 かくして鬱病患者は自分で自分を反復して責め立てないと落ち着かないようになり、自らを過剰に卑下し、罵倒して充足を得る、という自らを自らで攻撃して充足するサイクルを繰り返して自我を疲弊させていく。

 しかし、フロイトはこの鬱病患者の語る言葉を分析していく事で、更に「ある事」に気が付くのである。

「鬱病患者が語る自己への多様な非難の言葉に忍耐強く耳を傾けていると、こうした言葉の内でも特に強い非難の言葉が、患者の人格に当てはまる事はごくまれであることに気付く。わずかな修正を加えてみればその多くは、患者が愛する人、かつて愛した人、または愛そうとして愛せなかった人に該当するのではないか」
         ――ジグムント・フロイト「喪とメランコリー」より

「自己への非難の言葉は、元々は愛する対象に向けられるべき言葉であり、これが方向を変えて自我に向けられたものだと」フロイトは推測するのである。

 例えば「自分のような出来損ないの女と結婚して、貴方が可哀そうだ」と自己卑下する妻の本来言いたかった事で、それでも言えずに抑圧していた事とは「元々は夫が出来損ないだと告発しているのである」とフロイトは言う。

「彼らの"愁訴"は"告訴"なのである」

 例えば先ほどの夫婦の例で言えば、本来は良い仲を保っておきたいと妻が思っていても、夫から激しく罵倒されたり失望を味わわされたりした場合、妻の「夫との繋がりを保っておきたい欲動(エロス的欲動)」の行き場が揺らいでしまう。
 行き場を迷わせる事態となった場合、普通であればその欲動を他者へ向けかえれば問題はない。だが、妻の欲動が強く夫に固着している場合、その欲動の向きを簡単には変えられないのである。

 この段階の欲動の動きは「喪の仕事」の場合の、愛する人を突然亡くしてしまった場合の欲動の動きに似ている。

 鬱病患者の場合、完全な対象消失とはならず、失われた対象との「同一化」を行う事で欲動を対象経由で自己に向ける。
 あとは先述した通り、超自我にリビドーが備給され、分裂した自我を対象として攻撃し始める事となる。

 ぼくが思うに、本当の「健全な関係」とは相手から「攻撃的な欲動=罵倒」を受け取った場合、不満を抱えて自分を責めるのではなく、その不満を相手にぶつけ返して不満を片方だけが抱え込まないようにする事ではないだろうか。

 そう考えると、近年の日本の鬱病の増加と自殺率の高さと言うのは不況という経済状況だけでなく、目上の人や上司に対して感じる不満を真正面からぶつけ返す事が難しい、厳しい日本の上下関係にも原因があるのではないかとも思える。

 例えば、上司から激しく叱責されて抱えたストレスを、また自分の部下を叱責する事で解消できるようなタイプだったらまだいいだろう。攻撃欲動を容易に他者に向き変えられるタイプという事だ。

 だが、現代の鬱病にかかりやすい人というのは、上司から与えられる攻撃欲動を、上司本人にも返す事ができず、かと言って他者にも向き変える事ができずに自分で抱え込んでしまうタイプなのではなかろうか。

 また例えば、両親から激しく叱責され罵倒されて育った子供などは、両親への欲動が固着したまま不満を相手にぶつけ返す事ができないまま育つため、他人からの攻撃欲動を自己へ向けてしまう回路を作り上げてしまうのではないかと思うのだ。
 そういう人が自傷癖や自責癖を持つタイプに育ってしまうのではなかろうか。

 このようにフロイトの「喪とメランコリー」は、精神分析初期の考察とは言え、特に鬱病のメカニズムを明快に語っていて、鬱傾向にある人にとっては必見の論文となっている。
 現代のストレス社会にあって、鬱病の原因を考え乗り越えるヒントともなりえそうな、現代にも通用する論考と言えるだろう。


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