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◆読書日記.《ラマチャンドラン&サンドラ・ブレイクスリー『脳の中の幽霊』》

※本稿は某SNSに2020年5月22~26日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 ラマチャンドラン&サンドラ・ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』読了。


 アメリカで人気のインド系の脳神経学者であり、幻肢の専門家であるラマチャンドランが一般向けに書いた脳科学本。サンドラ・ブレイクスリーはラマチャンドランが専門知識をどのように一般向けに書いたら良いかアドバイスする係なのだそうだ。

 本書は発表当時の反響はかなりあったそうで、脳科学の一般向け啓蒙書としては「名著」と呼ばれる本だったらしい。

 かなり情報量も情報密度も濃くて、なかなかに濃密な読書体験ができた。ボリュームもなかなか多くて全部で12章あり、それぞれにかなり深く踏み込んだ議論がなされているのも良い。

 先日読んだ山鳥重『脳からみた心』でも脳の不思議な働きを紹介していたが、本書ではそれよりも更に詳しく脳の秘密に踏み込んで説明している。

 ちなみに このラマチャンドランという人は、インド人らしくお喋り体質のようで、ジョークは好きだし、例え話や面白いエピソードで説明するのが大好きな性格らしい。
 ということで、多少の難しさはあるかと思うが、一般の人にも「脳科学の面白さ」というのを理解してもらえるような書き方をしていてなかなか好感が持てる内容になっている。

◆◆◆

 著者のラマチャンドランの専門は「幻肢」という症状だそうで、これは例えば腕を切断した患者が、既に無くなってしまっているはずの腕がまだそこに存在するかのような感覚を持つ症状であり、別に「幻影肢」とも呼ばれるものなのだそうだ。

 幻肢はしばしば「無いはずの指がギュっと握りしめられて、無いはずの手のひらに食い込んで激しく痛む」という「幻肢痛」の症状を起こす事がある。
 この痛みは馬鹿にならないそうで、痛みのあまり鬱病になるほど苦しめられる患者もいるという。

 この痛みは当初、患部の切断面の神経が原因ではないかと考えられ、患部の神経切除手術を施す場合もあったそうだが、手術後に痛みは引くものの、しばらくするとまた幻肢痛が再発して結局治らないのだという。

 ラマチャンドランはこの現象を脳の神経回路の再編集によっておこる痛みの錯覚のために起こるのではないかと推測し、鏡を使った簡単な装置でこの患者の痛みが一時的に引くことを発見する。

 自分の視野の真ん中に鏡を立てると、片手だけしかなくても、まるで自分が両手があるように見えるようになる。
 この状態で、患者に見えるほうの片手を動かしてもらい、同時に「幻肢」のほうの手も鏡に映った手と同じように動かす意識をしてもらう。
 すると、ギュっと握りっぱなしで開かなかった「幻肢」のほうの手が、鏡の動作に合わせて簡単に動き、指が手のひらに食い込む痛みが消えてしまったのだそうだ。

 つまり「幻肢痛」は、物理的な痛みではなく、脳が起こした「錯覚の痛み」だったというのが、こんな簡単な実験で分かったのである。

 これは驚くべき事で、人の「痛みの感覚」というのは、物理的な原因ではなく、単なる「脳が錯覚した」ために発生する事もあるのだと。

 このように、脳にはまだ我々に知られていない様々な機能が隠されていて、脳科学というのは、そういう我々の最も身近な感覚の謎を解いていく面白さというのがある。

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 余談だが……この「幻肢」は手や足だけに起こるものではないのだそうだ。

 しばしば乳房の切除手術を行った女性患者に「胸の幻肢の感覚」があるという報告がある事も知られているし、男根を切除した男性には「勃起の幻肢の感覚」まであったと言われている。

「幻肢」の患者を診察していると、足を切断した患者の話として「セックスしている最中、失われた足に何かの感覚がある」という体験談がしばしば報告されているそうだ。

 これは女性でも男性でも同じような報告例があるそうで、これは脳内の足と生殖器との感覚領域が隣り合って近い関係から起こる現象なのではと言われている。

 足が失われると、それまで足の感覚を司っていた感覚領域に、その隣り合わせた感覚領域が侵入してくるのだそうだ。そのために隣り合った感覚領域の知覚に混乱が生じるという。

 実際に足を失った後、セックスで足の感覚の存在を感じると言っていた患者は次のようなことまで話している。

「私は実際に足でオーガズムを感じるんです。だから以前よりも強く感じるんですよ。生殖器に限定されていないので」……という面白い話があるので、ラマチャンドランは『脳のなかの幽霊』を当初、知人から「『足をペニスとまちがえた男』にしてはどうか?」などと勧められたのだそうだ(笑)。

 このように、脳内での感覚領野の内では足と生殖器の領域は隣り合わせで近い関係にあるという事実から、足がフェチズムの対象になりやすいことの原因にもなっているのではないか、という推測をラマチャンドランはしている。まあ、この推測はまだアヤシイとは思うが、脳科学からの性のアプローチというのは面白い。

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 本書はアメリカでの出版時期が1998年ということで今から20年前の情報なのだが、そう思わせないだけのユニークさがある。

 先日読んだ山鳥重『脳からみた心』も1985年初版ということで35年前の情報なのだが、これも古びた感じをあまり受けなかった。

 やはり20世紀後半の症例研究を中心としたな脳科学の知見と言うのは、現在の脳科学の知見のある意味土台のようなものとなっていて、無視できない知識となっているのだろうと思わせる。

 現在脳科学ではfMRIやPET(positron emission tomography)、脳磁法(MEG)など、非侵襲的な検査(頭を物理的に開かずに中身を観測する方法)によって飛躍的に研究が進歩したとは言われているが、ラマチャンドランが行っているような鏡を使った幻肢などの症例研究というのは、それらの検査とは、また違う意義がある。

 脳科学の「症例研究」というのは、脳卒中や脳動脈瘤、あるいは事故や傷害事件などによって脳に器質的な損傷を負った人が、脳のどの部分を損傷するとどのような症状が現れるのかという事を研究する事なのだが、そのように「通常の脳機能が失われて初めて分かる脳の機能」というのがあるのだ。

 無論、このように「人間の脳機能を限定的に制限して現れる現象を調べる」という方法を、症例研究以外でやろうと思ったら、かなり非人道的な人体実験になってしまうので、症例研究では症例研究でしか発見できないものというのがちゃんと存在しているのである。

 だからこそこの手の初期の症例研究にも価値がある。

 山鳥重『脳からみた心』の解説で養老孟司が述べている所によれば、大規模な予算と人員によって行う研究を「ビッグ・サイエンス」というそうだが、ラマチャンドランの主張しているのは、そういうビッグ・サイエンスによらない「スモール・サイエンス」にもちゃんとした価値があって、その大切さというのを本書でも述べているのである。

 例えばラマチャンドランが挙げている逸話で言うなら、胃潰瘍の原因は胃酸の過多によって胃壁が損傷するためだというのがかつては常識だったそうだが、この原因が実はピロリ菌にあるという事を発見したのは、オーストラリアの若い研修医ビル・マーシャルが人の潰瘍の染色断片を顕微鏡で観察した事に端を発するそうだ。

「神経学の世界では、脳に関する最も価値の高い知見は多数の患者を統計的に分析する事で得られると考えている人達と、適切な種類の実験を適切な患者に行う方が――例えたった一例でも――より有益な情報が得られると考える人達の間に緊張関係がある」とラマチャンドランは説明する。

 これを彼は「本当に愚かな論争だ」と断ずるのだ。
 何故か?
「どうすべきかははっきりしている。一例の実験から出発して症例を増やし、得られた所見を確かめて行けばいい」という。

 ――これについて更にどういうことかラマチャンドランは「たとえ話」を挙げて説明するのだが、これがまた傑作なので再び引用してみよう。

「仮に私があなたの家に豚を引きずり込んで、この豚は喋れると言ったとする。あなたはきっと『本当か?聞かせてくれ』と言うだろう。そこで私が魔法の杖を一振りすると、豚が喋り始める。あなたはたぶん『何と!これは驚いた!』という反応をする。恐らく『たった一頭じゃあねえ。もう何頭か見せてくれれば君の言う事を信じるかもしれないけど』とは言わないだろう。しかし私が所属する神経学の分野では、これと全く同じ態度をとる人が大勢いる」

 なかなか面白い表現をする。ラマチャンドランはこういう笑える例えが大好きな人だ。

 ラマチャンドランや山鳥重の脳科学の知見に古びた感じを受けないのは、こういった症例研究やスモール・サイエンスの重要さというものを軽視しない態度にもあるのだろう。

 ラマチャンドランの本書における態度の特徴にはもう一つあるユニークネスが見られる。

 直感や推論といったものを軽視しない態度である。

 ラマチャンドランによれば「この用語(※「推論」の事)は、一部の科学者の間で軽蔑的な含みを持って使われている」という。
 本書の解説の養老孟司も「それ(※「推論」)は科学の世界では、しばしば徹底的に抑圧される」と書いている。
 本書の解説でも「日本でも、科学者の日常会話に、それはスペキュレーションでしょうが、ということばが出てくる。そういっている人は、相手の言い分が推論だとわかっているわけだから、べつに実害はないはずである。しかしそれでもなぜか、推論は禁止される」と養老先生は言う。

 養老先生によれば、神経科学者の中には推論の価値を重んじている人もいるのだそうだ。
 それは「人間の頭脳」というのが、そう簡単に色々いじれて、あれこれと気軽に実験できるというものでもない事情からくるものだという。

 これはある意味、大規模な実験をする事のできない精神医学についても同じことが言えるのではなかろうか。
 そして精神分析がしばしば科学者から攻撃されるのも、神経科学と同じように人間の精神を解剖したり実験して実証したりという事がなかなかできない事情もあるのだろう。

 ラマチャンドランの著書がユニークなのは、彼が東洋的な文化を背景に育ってきた反面、イギリスに渡って西洋的な教養を身に着けた事で、東洋/西洋に偏らない視点を得ているからなのだろうとも思える。

 これらのラマチャンドランのユニークな視点が、本書を単なる「脳科学の知見の集積」でなく、著者なりのアイデアであったり、思想であったり、仮設であったり、提案であったりを総合した「ラマチャンドランの本」としての価値ある教養本にしているのだろう。

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 本書での著者の言説は単に実証された脳機能の説明にとどまらず、例えば「人間にとって笑うということはどういう事か」というテーマに対しては、当時の時点で分かっている脳科学の知見を元に、進化心理学の知見を引用し、またフロイトを引用して分析し、生物学的な機能から考え、推論する事に躊躇しない。

 あくまで脳科学的な症例研究をメインに据えながらも、時にフロイトを、時にトマス・クーンを、時にダーウィンを、時にシェイクスピアまで持ち出して人の脳の機能と、そして「脳」によって作られる「自己」「私」とは一体何なのか?という究極の問いまで踏み込んで考察する。このダイナミズムが本書の面白い所の一つだ。

 脳の器質障害によって何らかの症状が現れている患者のエピソードというのは、我々が聞くとどこかSF小説のような奇妙な話に聞こえてしまう。この「奇妙さ」が、そのまま我々を形作っている「脳」というものの不思議さでもある。

「私」からしてみれば、「私は、私である」という感覚は、普段全く意識せずに信じている感覚かもしれないが、これは非常に高度な脳の機能による同一化だったと言う事が本書の最終章にて明かされる。

 著者は「自己」を特徴づける特性をリスト化しているそうで、それを7項目に分けてひとつずつ解説している。

 それは「身体化された自己」「感情の自己」「実行の自己」「記憶の自己」「統一された自己」「警戒の自己」「概念の自己と社会的自己」である。

 これらの特性の一つ一つに脳の各所にそれを成り立たせる機能が分散して存在しており、そのどれか一つでも損傷すると「私」という認識が混乱状態に陥る。

 また、「私」を保っていたはずの様々な認識に混乱が生じる場合もあり、我々が普段何の疑問も持たずに行っている行為が出来なくなったりする。

 普段、何の疑問もなく信じている認識が混乱するからこそ、我々はその症状に奇妙さや怖さを感じるのだ。「固定観念」とは、固定観念だと気づかないからこそ固定観念なのだ。

 そういった脳の機能を知るという事は、即ち己を知るという事であり、またそれを通して人間を知ると言う事に他ならない。

 意識とは何なのか? 感覚とは何なのか? 「私」とは、一体何なのか? ――驚くべき事に、脳科学の知見によって昨今では、こういった哲学的な疑問に少しずつ答えが出てきているというのである。

 金テコが頭を貫通して前頭葉を損傷したフィネアス・ゲージという鉄道工事人は、事故のあと全く別人のように性格が変わってしまった。側頭葉てんかん患者には医者が「側頭葉てんかん人格」と呼ぶほど人格が変化する者もいるという。
 そうしたら、いったい「私の性格」とは何なのだろうか?

「私」を「私」たらしめているものの一つが「記憶」であり、時間的にも空間的にも物体的にも一続きの統一された生き物として首尾一貫しているからこそ「私」だと言えるわけだが、この記憶に混乱が生じる事で多重人格になってしまうと著者は説明している。

 では「本当の私」とはいったい何なのだろうか?

 SFではその辺の思考実験を行っている幾つもの作品が存在している。
 他者の記憶をそのまま移植されたアンドロイドにとって「私」とはいったい何なのか? 自分の記憶が全くない人間をいったい何と言えばいいのか? 自己の精神に常に二人の人間が住み着いている場合、それぞれの「私」とはいったい何なのか?

 人間の知覚は簡単に混乱する。本書に例示されている簡単なテストで、自分の鼻の長さが数十センチもあるように感じたり、テーブルの表面に自分の触覚を感じる事ができる。
 また、頭頂葉から側頭葉の神経回路の一部でも損傷を受ける事で、自分の身体イメージというものが大きく混乱してしまう事も知られている。

 ある患者は自分の左腕を自分の腕ではないと主張し、母の腕や兄の腕だと主張したり、また自分が立ち上がって歩き出しても自分の左半身はまだ椅子に座ったままでいると考える者もいる。

 自分の身体イメージの統一を保っているのも脳の高度な機能の内の一つで、自分の意識でコントロールできない機能はあまりにも多い。

 ラマチャンドランは「これらの例を見ても、あなたがあなたの体の『所有者』だというのは幻想であると納得できないとしたら、何をもってきてもだめだろう」とさえ言っている。

 ラマチャンドランは「私」という意識はある種の「幻」のようなものだと考えているようなのだ。

 21世紀は脳科学の世紀だと言われているそうである。上述してきたように、20世紀にも既に我々を驚かせるに十分な様々な脳の謎が解明されてきたが、昨今ではfMRIの利用等によって更に様々な業績を上げていると言われている。脳科学は面白い。本書はそんなワクワクするほど面白い脳科学のユニークな水先案内人なのだ。


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