見出し画像

◆読書日記.《中沢新一『三万年の死の教え チベット『死者の書』の世界』》

※本稿は某SNSに2020年11月5日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 中沢新一『三万年の死の教え チベット『死者の書』の世界』読了。

中沢新一『三万年の死の教え チベット『死者の書』の世界』

 本書は1993年に放映されたNHKスペシャル「『チベット死者の書』のある風景」の台本執筆者であり宗教学者の中沢新一が、この番組に使った台本を掲載した上でこの書の成立背景やそれに関わるチベット密教ニンマ派の思想の内容を紹介する一冊。

◆◆◆

『チベット死者の書』は、第一次大戦後の1930年代とベトナム戦争時の1960年代の二度に渡ってアメリカでベストセラーとなったチベット密教の思想を伝える書である。

 訳者はエバンツ・ヴェンツアメリカ人で、ブラヴァッキー夫人の主宰する神智学会の教えに影響を受けてインドに渡った青年だったとか。
 彼はインドに突き出たチベット文明圏であるダージリンのバザールでいくつものチベット精神文明に関する本を買い込み、インドに持ち帰って翻訳をする。
 その中の一冊が『チベット死者の書』と言われている『バルド・トドゥル』だった。

 だが、この書は成立過程を見ても分かる通りチベット密教僧が、この書をどのように解釈し、どのような教えとして実践していたのか、そういった地元の考え方を学ばずに翻訳してしまったためにある種の「誤訳」をしてしまっているという。

 このチベットの教えをエバンツが「ヨーロッパ的な視点で誤訳」したがために、逆にそれが西洋思想界にすんなりと受け入れられたという。

 という事もあって本来の『チベット死者の書』はすんなりとその内容を理解できるようなものではなく、また翻訳書の中にはチベット密教の思想をちゃんと反映した内容になっていないものもあるという。

 因みに日本語では川崎信定/訳の『原典訳チベット死者の書』(ちくま文庫)が原典に沿って正確な訳だそうだ。

『チベット死者の書』は二度に渡って「大きな戦争の後」にブームとなって事は注目に値する。

 これはハイデガー『存在と時間』がWWⅠ後にブームになったのと精神的背景は似ていて、科学文明によって被害が巨大化していく近代戦争という惨禍に対する反発が、西洋人を精神文明へと接近させていたと思われる。

 いわゆる「近代の超克」の問題だ。「空談」や「好奇心」や「曖昧さ」によって非本来的な生き方に頽落してしまう日常的な態度を変えて、自らの実存のほうに目を向けるべきだ……というハイデガーの『存在と時間』にまつわる「誤解」も、こういった科学文明への反発心が一因となっているとも言えるだろう。

 チベット密教の思想に基づいた『チベット死者の書』で教えている事も、基本的には自分の内面の「心の本性(セムニー)」と呼ばれる「純粋な光」を体験する事で死後に備え、輪廻から解脱する、という事だった。
 つまり物質世界を追求する科学的知ではなく、精神面を豊かにする宗教的知に人びとは救いを求めたのだ。

 チベットでは非常に頻繁に「死」について積極的に話題にされるそうで、そういう文化も「死」についてのリアルに真剣に向き合おうという態度を避けがちなわれわれ日本人とも違っている。

 ハイデガーの『存在と時間』にも「本来的な生き方」の一つのポイントとして「死」を話題として取り上げていたが、そういった所もこの『存在と時間』が実存哲学と誤解されやすい要因だったのかもしれない。

 チベット密教は「死」を語るだけではなく、「死」を軸に仏教の学習や修行がおこなわれているのだそうだ。
 原始仏教の開祖であるゴータマ・ブッダが死後の事についてはほぼ発言をしていないという事から考えると、これは少々奇妙な事にも思える。

 つまり、仏教がチベットに伝わり現地で広まる際に、地元の宗教と融合していった末に出来てきたという事なのだろう。

 実際に、『チベット死者の書』の中で最も高度な教えである「ゾクチェン」は「地球以外の十三の銀河宇宙ですでに説かれていたもので、地球において説かれるようになったのも気の遠くなるほど大昔(本書より引用)」というほどの昔からある教えが仏教と融合しているのだそうだ。
 この表現は大げさすぎて眉唾ものだが、実際にチベット密教の教えの多くは仏教の教えが伝来するよりも遥か以前からあったという事も考えられるのだそうだ。
 それが本書のタイトル『三万年の死の教え』という言葉に込められている。

 著者は「三万五千年もの間、自分達の文明の本質を変えなかったこのアボリジニーたちが、実践していることは、多くの点で、ヒンドゥ文化や仏教が理想にして創出しようとしてきたものと、共通点をもっていた(本書より引用)」と言っている。

 何故このような共通点があるのかと言えば、まだオーストラリアとユーラシア大陸が陸続きだった頃から大陸に広く伝わっていた教えが、オーストラリアではアボリジニーにそのままの形で三万年間も保存され、またチベットやインドでは仏教等と融合しながらその教えを保存してきたと考えられるからなのだそうだ。
 著者が『チベット死者の書』の一部の教えが仏教の起源よりも古いという説を一概に退けていないのは、そういった理由があるという。

 では、実際にこの『チベット死者の書』はどのように扱われているのか。

 それをチベットの密教僧が修行中の小僧と会話していくのが、このNHKスペシャルの内容だったのだそうだ。

『チベット死者の書』は原題を『バルド・トドゥル』という。
「バルド」は「中間」や「途中」という意味があり「トドゥル」は「耳で聞いて解脱する」といった意味合いがあるそうだ。

 このお経は、チベットで人が死ぬ時、僧侶がこの教えを耳元で唱える事で死後に迷わずに行動できるように導いてやるという意味がある。
『バルド・トドゥル』には人が死んだ後、どのような事が起こって、人はどのようにすればどういった結果が待っているのかという事が書いてあり、僧侶は死にゆくものにそれを聞かせてやるのだそうだ。
 チベットでは人間の耳は最も原始的であって、死後も聴覚は働き続けるのだという考えがある。だから、僧侶が耳元で唱えるこのお経に意味が出てくるのだ。

 チベットの「お経」にはそういう意味合いがあった。これは日本の仏教の「回向文」とも違ったお経の扱われ方である。

「チベット死者の書」の役割の一つは、このように死にゆくものが死後迷わないように解脱への道を説いているという事。
 またもう一つは、死後の情況に戸惑わずに行動できるよう、生前に自ら仮死状態になって死後の世界の状況を体験して突然の「死」に備えるための修行方法も説かれているのだという。

 これは禅の修行のように無思考・無感情の状況を作り、また呼吸も制限して「死」に近い状態を作り上げることで、死後体験する事を生前に疑似体験する修行だそうだ。

 仏教思想は共通して輪廻転生思想を持っているが、チベット密教の考え方にも輪廻転生は重要な位置を占めていて、死後にこの『バルド・トドゥル』の情況を理解できずに間違った方向に行動を起こしてしまうと、転生する際に餓鬼道や地獄等に生まれ変わってしまう事となる。

 そうならないために、天上の神々の世界に転生して輪廻転生から脱出する事……つまりは「解脱」できるように死者を導くための教えが『バルド・トドゥル』の役目なのである。

「死」や「死後」は、どのような状況なのかわからないから「不安」であるし、現実的な恐怖でもある。

 チベット密教の「死」の教えは、個人が「死」と正面から向き合い、それがどういう者なのかというのを理解しようという教えなのだろう。

 生前から「死」に備える事で、自らがその時期を迎える時には、恐れず慌てず心を落ち着かせて「死」を迎えるようになる心構え……そういった効果があるのかもしれない。

 チベット密教の修行をし始めた子供僧はよく葬儀に立ち会わされるという。
 以前チベットでは鳥葬が一般的で、鳥が遺骸を食べやすいように遺骸を切断し、内臓を引き出していたというが、そういった場所にも子供僧は立ち会う事とされてきたという。

 気持ち悪い場面であっても、子供僧はそこでリアルな「死」と向き合うという。

 ぼくが最近思っていた事は、現代日本は少々「死」を隠し過ぎているのではないか、という事だった。
 例えば日本で毎年3万人近い自殺者が出ていようと、われわれがその生々しい現場を目撃する事はないし、実感する事もなければ、その事について家族と話す事もないだろう。
 交通事故や殺人事件が起こったとしても、そういった死者がテレビに映される事はないし、怪我人でさえもブルーシートで慎重にその姿を周囲の人間の目から遠ざけられる。
 世界で今も行われている内戦や紛争といったものの報道では、慎重に慎重に、死者の映像を避けた戦場を映し、現場の「グロさ」を和らげる。――これはボードリヤールが『湾岸戦争は起こらなかった』で、半ば怪我の功名的に指摘している問題でもあった。日本人のわれわれからしてみれば、「戦争」は常に過去の歴史か、もしくは報道によって断片的に知らされる情報でしかない。われわれは世界各地で今も行われている戦争に対して、常に何者かの意図によって編集され尽くされた映像を見て「戦争を体験している」。何者かによって演出された「石油をかぶった海鳥」の映像を、感傷的なBGMと共に体験しているのである。――では例えば「南スーダンで自衛隊は現地の戦闘に巻き込まれなかった」と言われれば、本当に戦闘は"なかった"事になるのか? 何故こうもわれわれは「戦争」の現場から遠ざけられなければならないのか。
 われわれは、「戦争」や「死」を、実感としてもっと恐れなければならないのではないか。
 戦車や戦闘機や戦艦が大迫力の兵器を駆使して格好良い戦闘シーンばかりが報道されれば、現場のやりきれないグロさというものは伝わらないだろう。破壊された街並みの映像だけでは、愛する人を失った人々の哀しみなど半分も分からないだろう。戦争の現場の、呆れるほどの「格好良く無さ」など理解できないのではないか。フィクション作品で描かれる戦争でも、血肉も臓腑も飛び散っていない「綺麗な死体」が折り重なっている風景ばかりとなる。
 例え身近な知人の「死」であっても、われわれがそれを実感するのは、葬式と言う華美に装飾された儀式によって、生前と変わらない形に死に化粧された故人の姿を見て遺族らと語らう時に、やっとそこで何となく「生きている人」との差を感じるのみではなかろうか。
 現代日本では、そのようなリアルな死を実感する機会から遠ざけられているのではないかと感じられる。

 ――「死」を隠してはいけない、目を背けてはいけない。
「死」を遠ざける事など出来はしないのだから、それは欺瞞なのだ。
 それはわれわれ人間と常に共にあるものなのだから。
……あえて「死」の生々しい場面を体験させ、常に「死」を意識して口にし、隠そうとしないチベットの教えというものには、そういった考え方があるのではないかと思うのである。

 このようにチベット密教の「死」の教えとは、われわれ人間と「死」と共に生きていくための技術を教えているのかもしれない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?