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◆読書日記.《国枝史郎『八ヶ嶽の魔神』》

※本稿は某SNSに2020年12月24日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 国枝史郎『八ヶ嶽の魔神』読了。

国枝史郎『八ヶ嶽の魔神』

 大正~昭和初期に活躍した大衆文学/伝奇小説の人気作家である著者の「三大伝奇長編」の内の一つ。国枝作品の長編連載の中では珍しく連載が完結している絶頂期の長編。

 大胆な空想力で妖美幻想の世界を作り上げた国枝による、江戸時代を舞台にしたダーク・ファンタジー。


<あらすじ>

 平安時代、諏訪の国の湖水の畔にある城の城主の宗介の許嫁である柵(しがらみ)は、宗介ではなく彼の弟である夏彦と愛し合っていた。

 これが悲劇の始まりで、宗介と夏彦は恋敵として柵を巡って血を血で洗う壮絶な戦いを繰り広げる事となった。
 城内は二つに割れ、宗介陣営と夏彦陣営に分かれて争った。

 争いは14年も続き、互いの配下は全て討ち死にした。
 戦いの果てに宗介と夏彦は一騎打ちをする。

 果たして、荒廃した湖畔の城に戻って来たのは一人。夏彦の生首を引っさげた宗介であった。それを見た柵は自刃して果てる。絶望した宗介は叫んだ。

「俺はあらゆる人間を呪う。俺は浮世を呪ってやる!」

 宗介は眷属を集めてあらゆる悪行を行った後に八ヶ嶽に上り、人界の者と関わらず一部落を作り、これがのちの世に「窩人」と呼ばれる一族となった。

 一方、密かに夏彦の子を宿していた柵は久田姫という娘を生んでいた。

 みなしごとなった久田姫は夏彦の生首を持って一人城を出て神宮司村に住居することとなる。

 そこでは久田姫に賛同する者が多数現れ、後に彼らはキリスト教と陰陽道等の西洋東洋一味合体した特殊な宗教を樹立させ、彼らは「窩人」と対立して「水狐族」と呼ばれるようになっっていった。

 ――そして、時代は下って江戸の世となる。
 あるとき、窩人の娘・山吹は江戸から八ヶ嶽に来た色男・多四郎と恋に落ちる。

 山吹はやがて多四郎の子を宿すが、多四郎は強欲な若者であった。

 彼は窩人の村の本尊に黄金製の甲冑があると見るや、これを盗んで山吹を捨て、山を下りてしまう。
 本尊を奪われた窩人たちは怒り狂い、山吹は悲しみに暮れる。やがて山吹は多四郎の子を産み、猪太郎と名づけた。

 山吹は多四郎への恨みを終生、忘れなかった。
 彼女は今際の際、息子を呼んだ。「猪太郎や妾にはお願いがある。お母さんに代わって憎い多四郎へ、お前から恨みを返しておくれ!」

 ――かくして、母からの恨みを継いだ猪太郎は後「八ヶ嶽の魔神」と呼ばれる異能の美青年と成長し、江戸で暴れまくる事となる!……というお話。


<感想>

 本書は大正時代に発表された国枝史郎の代表作の一つ。

 連載小説だけあってドライヴ感が凄い。
 大正時代の人の文章というのは、大衆文学とは言えなかなか味があって好きである。
 語彙の豊富さが現代作家とは比較にならず、だが難解な単語が多いからと言って読みにくいというわけでもない。

 ぼくが国枝史郎の小説を読んだのは今年が初めてで、『神州纐纈城』に続いて2冊目である。
『神州纐纈城』も道具立てが巧みであったが、本書でもそういった美学は共通している。

 本書では特に諏訪の湖底に沈んだ武田信玄の石棺に腰掛け、墓荒らしをしようとした侍の生首を口に咥えて笑う老婆のイメージなどが美しかった。
 国枝史郎はとにかく、こういった「絵」のセンスがずば抜けていると思う。

『神州纐纈城』も、迷宮のような構造の湖や火炎魔神のような纐纈城城主などのイメージが怖ろしくも美しかった。

 本書は単純なヒロイック・ファンタジーのような構造でないのは、主人公に幾重にもかけられた呪いが"重い"からだろう。

 母の山吹からかけられた父・多四郎への復讐の呪詛。水狐族の老婆にかけられた呪い。猪太郎の血に流れる「窩人」たちの業。猪太郎は江戸の鏡家に養子に来た時には山窩の頃の記憶を無くし、一人の武者として成長するが、彼に欠けられた数々の呪いによって否応なく怨嗟に満ちた戦いに巻き込まれていく事となる。

 宗介~夏彦の闘争にしても、猪太郎~多四郎の復讐劇にしても、「窩人」~「水狐族」にしても、彼らのルーツは何れも血がつながっており、ルーツを同じくする親族であったりする。

 これらの大本はそもそも宗介・夏彦兄弟の恋にまつわる闘争であった。彼らの恋煩いが数百年に渡る闘争のきっかけとなったのだ。

 猪太郎は少年時代にそれらルーツとなる記憶を全て無くし、父も母も一族との血の闘争とも関係のない、江戸の武家の若侍として成長する。
 だが、いくら猪太郎が一族の記憶を忘れ去ったとしても、彼の血に纏わる闘争から逃れる事はできなかった。
 何だかオイディプス神話のような血の悲劇を連想させる内容でもある。

 また、国枝史郎の伝奇がアクション小説としての面白さの裏にある種の薄暗さを持っているのは、本書に出て来る「山窩」であったり『神州纐纈城』における「ハンセン病」であったり、国枝の小説の底に迫害された人々の怨念が生きているからなのかもしれない。


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