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◆読書日記.《ジョイス・マンスール『充ち足りた死者たち』》

※本稿は某SNSに2016年9月1日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。

 ジョイス・マンスールの文章を読んでいるといつも、熟れた果汁の甘酸っぱいような、それでいて蒸れた体臭のような匂いが鼻の奥にむうんと感じられてきて、むせかえるような気分を覚えてしまう。
 周囲の空気はまるで酒を含んだかのような濃密さを持ちはじめ、――いつしか心地よい酩酊感に溺れていることとなる。

 ジョイス・マンスール(1928~1990)――イギリス生まれの女流シュルレアリストである。

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 シュルレアリスムにはもともと女流作家が多くおり、さっと思いつくだけでもフリーダ・カーロやレオノール・フィニィ、レオノーラ・キャリントン、ドロテア・タニング、レメディオス・バロなど著名な芸術家が多い。

 シュルレアリスムは「もともと女の芸術家を育てる土壌があるようで」、と巖谷國士も指摘している。

 女流シュルレアリストの特徴はバロやフィニイのようなどことなく魔術的な幻想を得意としていた作家が多いが、その中でもジョイス・マンスールのように「女の性」をあからさまな幻想として表現したのはそういない。

 ただ、もともとシュルレアリスムは「性」をテーマにした作品が多い。
 特に男性作家は性をテーマとした作品を作ってない作家のほうが珍しいくらいで――ではなぜそのように彼らは執拗に「性」をモチーフとして採用するのかと言えば、シュルレアリスムは精神分析に親和性があり、「無意識」に目を向ける芸術だからだと言うことができるだろう。

 もう少し詳しく、フロイト的に説明するならば、無意識には抑圧された欲望が潜んでおり、その欲望に対して芸術という形で焦点を当てるのがシュルレアリスムの持つひとつの特徴的な方法なのだ。
 それで、男性の「表に出せずに抑圧されている欲望」の代表的なものが「性欲」にほかならないからこそ、シュルレアリスムのテーマには頻繁に「性」が現れるのである。

 例えばダリは自分の内面の性欲と食欲をごったまぜにして神秘的な幻想に練り上げた作品を作ることでも有名だし、ポール・デルヴォーやスワンベルクなどはそのまま女性賛美的な形で女体を表現している。
 オートマティスムの代表的な作家であるジョアン・ミロも「愛」や「女」という作品で女性的なものを表現しているし、同じくオートマティスムを使うロベルト・マッタも人体を描くさいは「人物」「苦悶する人」など、丸々とした官能的な女性の身体を描く。
 哲学者然としたルネ・マグリットでさえ「マック・セネットの思い出に」や「凌辱」などのエロティックなテーマを取り扱っているのだ。

 そこへきて女流シュルレアリストは不思議と、女性の立場からしての「女性性」を誇るような、あからさまにエロティックな作品は少ない。

 あからさまに女性的な世界をテーマとしているフリーダ・カーロでさえも、フィジカルな感覚はほとんどなく、ディエゴ・リベラへの恋の苦しみを描いてどこか形而上学的である。

 多くの女流シュルレアリストと同じくジョイス・マンスールの描く世界もどこか概念的といえば概念的で、象徴的であるという点では変わりがない。
 だが、彼女のあり方がその中でもとびぬけて特異なのは、濃密なほど徹底的に女性の性の世界にこだわっているという所にある。

 ジョイス・マンスールの代表的な作品集である『充ち足りた死者たち』は中編「マリー、または傅くことの名誉」と、短編「日曜日の痙攣」「肉腫」のみっつの作品で構成されている。

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 その中でも彼女の作品の特徴が良く表れているのが中編小説「マリー、または傅くことの名誉」だろう。
 この中編のあらすじを簡単に説明すると「祖父と妹と一緒に暮らす平凡な日常の中で倦怠感を募らせている主人公マリーが、ある日おそろしい獣性を持った「暗殺者」と呼ばれる男と出会い、彼の快楽のために使える従者となってから、だんだんとその隠された女性の欲望を解放していく」という感じになる。
「簡単に」と言ったのは、この小説の文章があまりに抽象的かつ象徴的にすぎ、マリーが「暗殺者」に凌辱されるといった極めてフィジカルな場面でさえ、概念的な描写が続いて具体的な行為が掴みづらいためである。

 だたし、このシュルレアリスム小説の「読み方」のコツが分かればそこには濃密な女性の官能的な世界が広がっており、あふれ出るイメージの奔流が読者の感覚をかきまわすこととなる。
 
 ジャン=ルイ・ベドゥアンはジョイス・マンスールの作品を「古き地母神のイメージ」と表現していたそうだが、まさにジョイス・マンスールの描く小説世界は、地母神的な女性原理に基づく女権的な世界観と言えるだろう。

「マリー、または傅くことの名誉」のマリーは、「暗殺者」によって辱められ、凌辱され、死の恐怖におののきながら性的な生贄として彼に傅かなければならない。
 ――にもかかわらず、マリーはいつの間にか「すべてのものに恐怖をおぼえながらも、激しい快楽の瞬間を生きているのだった」と、されるがままになりつつも同時に、柔軟にその場を包み込んでいる存在になっていくのである。S(サディスト)とM(マゾヒスト)は、そのままスレイヴ(slave)とマスター(master)に裏返る。男性性を受け入れて思い通りに操られる存在――そんな完全な受け身であったはずの「女性性」は、広大な大地と化してちっぽけな男根を飲み込んでしまうのである。

 グザヴィエル・ゴーチエが『シュルレアリスムと性』でジョイス・マンスールの作品を「男と女のあいだの、激しい愛の闘争について語っている。女は、男がつくろうとする存在になることを拒否しているのだ」と評しているように、男性的な性の世界であったシュルレアリスムの中にあって、彼女の作品は強烈に「女性性」を表現し、執拗にそれを暴き立てるのだ。

 どろどろとした性的な欲求を無意識の中に抑圧しているのは男性ばかりでない。
 それどころか、より「それを普段、表に出せずに抑圧している」という意味で、女性のほうが隠蔽されている性欲は複雑なのではないだろうか。
 そういう点で考えてみれば、なぜジョイス・マンスールが女性作家の中にあって特殊な存在感を放っているのか、なぜ女性作家の中でもとびぬけて特異な存在だと評されることが多いのか――それが理解できるだろう。

 ジョイス・マンスールの小説にはおおまかなストーリーのようなものがあるのだが、おそらくこの作家はそういった物語の整合性を保つことにはそれほど関心を示していないだろうと思われる。肝心なのは――女性原理が強烈な力を持っているその「文章行為」自体にあるのだろう。
 白熱した官能体験に溺れる地母神が、シュルレアリスム的な文章を通して彼女の小説世界に受肉しているのだ。

 ジョイス・マンスールの文章を読むたびに感じる、あの蒸せかえるような香気――それはきっと、男を呑み込む巨大な地母神の甘いため息を耳元で感じているためなのであろう。


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