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「暴力 / ノイズ / グロボカール:坂本光太チューバリサイタル」を聴いて(2020/03/01)

私は今,懺悔したい気持ちでいっぱいだ。

昨年,とある美術館のギャラリーツアーに参加した。
参加者は,私と友人を含め10人程度。
ツアーは中世の作品から現代の作品まで時代順に巡り,
朗らかな女性ガイドの安心感のあるナビゲーションによって進行した。

自由に発言する雰囲気は整っている。
ポンポンと意見や感想が出てくる中,
ガイドは,ある男性に問いかけた。

「あなたはどう思いますか?」

「・・・・・・」

男性は声を発しない。

私はこの状況を,とても冷ややかに「情けない」と思ったのだ。
正解のある世界ではないのだから,思ったことを素直に口にすれば良いだけなのに,と。
わからないならば,「わかりません」と答えるもひとつの方法だ。
しかし,仮にそうだとしても,自分がどう感じているのかアウトプットできない大人に対して,嫌悪感のようなもの持っていた私の価値観が許さなかった。

そして,今,この男性に心から謝りたい,と思っている。

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2020年2月29日。

新型コロナウィルスが人体だけでなく,コンサートやイベントの興行に影響を及ぼし始め,その成り行きを傍観することしかできない自分にムシャクシャしていた。そして,それと同じくらい「不要不急」という言葉に腹がたっていた。

世の中の「平常運転」に危機が迫っている,というのは理解できる。しかし,人の命に終わりがある限り「不要不急」という道理には納得がいかない。そもそも「いま・ここ」で必要でないことは,はじめからやらなくても良い,やる必要のないことだと思っている。それは,舞台やコンサートなどに限った話ではなく,誰かと会う約束をしていたり,旅行に行く計画をしていたり,と日常の些細なことも含まれる。「他人にとっては必要でないこと」かもしれないが,それは誰かに決定されるものではない。その決定が他人に委ねられているとするならば,そもそも音楽や研究なんてやってられないし,生きていくことすら難しく感じる。状況によって優先順位が変わることは当然あるにせよ,後手後手の政策で納得感の乏しい発言を撒き散らす政治家に「不要不急」と言われる筋合いはないのだ。あなた方に「不要不急」という言葉によって,自分にとって「いま・ここ」で必要だったことが「はじめから必要ではなかったこと」にされるのが,たまらく腹立たしいのである。

とにかく腹がたっていた私は「暴力 / ノイズ / グロボカール」と目にした時,自分の心情とこれほどマッチしたものはない,と感じチケットを予約した。
また,「テロ、移民、感染、差別……SNSのトレンドが高速で更新される現代において、『変わらない一日 = 日常』は可能だろうか?グロボカールの作品の演奏 / 翻訳を通して『同時代』を見つめ直す」というコンサートのリード文から「絶対に中止はしない」というメッセージを受け取った気がした。そして,コンサートは来場者への注意喚起,最大限の配慮の上,開催された。

会場となった北千住のBUoYは,地下に元銭湯という歴史を持つ劇場を備えたアート・スペースである。廃墟感が漂う空間は,それだけでも気分を高揚させた。

グロボカールは,作曲家,指揮者,トロンボーン奏者として知られる存命(85歳)する人物である。この演奏会は,グロボカールを研究するチューバ奏者である坂本光太氏のリサイタルであり,当然プログラムノートにも詳細かつ貴重な解説が記されている。しかし,上述したように,今回は怒りをノイズで昇華したいという気持ちもあったので,あえて目を通さずに耳を傾けた。前半は,坂本氏の独奏,ソロ作品3曲が披露された。

誤解を恐れずに言うならば,これほどまで「楽器が邪魔だ」と思ったのは初めてだった。シングルリード,ダブルリード,笛など,息を吹き込む入り口に差し込んだり,空気の出口であるラッパの部分にシンバルをあてがったり。空気の吹き込みも「吸う」ことによって逆流させたり,いわゆる「通常」ではないイレギュラーの連続によって,演奏が遂行される(しかも,最初の曲はずっと幕が閉じられたままで演奏され,詳しい様子は隠されたままだった)。それによって生み出されるノイズは,口を塞がれた声なき声のように響き,楽器がその声を邪魔をしているように聴こえた。もちろん,そのように聴こえるのは,坂本氏の卓越した解釈と技術による賜物であるに違いないが,怒りのせいなのか,自分でも滅茶苦茶だな,と感じた。

しかし,この感想は時間がたった今だから言える(書ける。プログラムノートをじっくり拝読した,ということも関係する)。後半の日本初演となるシアターピース『変わらない一日』の上演に大幅な転換を要するため,観客は一度会場の外に出ることになった。その20分間の休憩中,言葉として出てくることはなかった。そして,この状況に追い討ちをかけたのが『変わらない一日』であった。

準備が整った会場に入ると,客席は演者を取り囲むように円形状に組まれていた。

プログラムノートには「『変わらない一日』は,トルコで実際に起こったクルド人への言語弾圧事件を扱った,実際の被害者の告発文に基づいて構成されたシアターピース(音楽劇)」とある。デモに参加した女性が軍人に拉致され,口に出すのも憚られる拷問を受ける。被害者は手紙によって告発するが,「世論」は無関心であり,「変わらない一日」が続く,というストーリー。登場人物は,被害者の女性(ソプラノ),拷問官(打楽器),尋問官(クラリネット),もう一人の被害者(チェロ)であり,チューバは法律の愚鈍さ(あるいは歪曲された法律),エレキベースは世論の無関心を象徴している。

約60分の上演時間はあっという間に過ぎた。一人ひとりはもとより,アンサンブルとして物語を推し進める突破力と言えば良いのか,会場に漂った緊張感が面白かった。「緊張感が面白かった?」いや,違う。空間がよかった。「空間が良かった?」……終演後,放置された楽器と楽譜は即座にインスタレーションと化し,聴衆は自由に鑑賞することができた。その間も,自分から出てくる言葉に違和感を感じ,出てきては飲み込みを繰り返していた。つまり,ずっと黙っていた。何も語れなかったのである。

会場を出る時に,スタッフから一枚の紙を手渡される。
作品のモチーフとなった被害者の女性による手紙の全文である。作品の終盤でこの手紙が朗読される箇所があるが,途中から良く聴こえなくなった。当事者がこの内容をスラスラと読むには,被害を完全に克服した強靭な精神の持ち主か,心身が崩壊した異常者かのどちらかである。行われたであろう事実が淡々と読み上げられる恐怖を味わったが,あの声が耳に残ったまま,良く聴こえなかった部分を文字で読み返すと,脳内で自動再生され,想像を絶する内容に追い詰められた。会場を出た後も何か言葉にしようと思うが,身体がそれを許さない。そして,数日間,グラグラと揺さぶられるのを感じる中で,私はあることを思い出した。

ランズマンの映画『ショアー』である。ホロコーストの生存者へのインタビューによって構成された9時間の長大な作品であり,正確に云うならば,修士の指導教官であった高木光太郎教授の『ショアー』についての論考を思い出したのだ。人々が過去の体験を想起し説明する「証言」のコミュニケーションをフィールドとする高木教授は「想起を『過去に経験した出来事について語ること』であるとするならば,クロード・ランズマンのドキュメンタリー映画『ショアー(SHOAH)』は徹底的な反―想起の映画である」と述べる(高木,1996)。過去の出来事を言語的に再構成することによって生じる,出来事の変形,単純化,否定を意味する「陳腐化」(高木,2006)を避けるために,当時少年だった証言者にあの時と同じ場所で,同じ歌を歌わせたり,ガス室に入る前の女性の髪を切っていた理髪師に髪を切る行為の再現を要求したりする。証言がその時の感情や,出来事の語りに向かうと即座に阻止し,行為を要求するランズマンの手法を「身構えの回復」という概念で論じている。

非目撃者である私たちは,当然のことながら,目撃者と同じように環境と再会することはできない。だが,回復した目撃者の身構えを通して,現在の環境のなかに出来事を「直接に見る」ことができるのではないか(高木,2006,pp.53)

このような教授の言葉から,極限にまで想起という行為が排除され,証言者の身構えを痛々しいまで映像化するランズマンの映像手法(高木,1996)と,グロボカールの作曲手法に共通する直感的な「何か」を感じているところだが,残念ながら私にはまだその「何か」に言及する力はない。ただ,「身構え」という感覚が,腑に落ちるを感じたのである。それによって,ポツリポツリと言葉が出てきた。

円形状に組まれた客席に座ると,演者を通り越して向こう側に着席する観客が見える。その観客の大半は,現実世界の延長からマスクを着用している。薄暗い照明の中,不気味にチラつく白い物体。声を発することが許されぬかのように口を塞がれている。その様子は「変わらない一日」を炙り出す目撃者の「身構え」そのものの様に感じた。あの時,観客はいなかった。その場にいた全員が演出家に用意された「身構え」によって,舞台装置もしくは登場人物になっていた。若い演奏家による鬼気迫るパフォーマンスと,目に映る他の観客によって,自分自身もその一部になっているという身構えが,緊張感を生み出し,空間に支配される感覚をおぼえ,そこに私は面白さを感じたのだろう。

差別による拷問やホロコーストの話は,拉致や虐殺という重くのしかかる題材ではあるが,どんな出来事であれ,受ける衝撃は人それぞれだ。他人が簡単にはかることはできない。冒頭でふれた絵画について感想を即座に言えなかった男性も,体から出てくる言葉に違和感を持ち続け,自分にフックする言葉を必死で探しながら結果的に「黙っている」ように見えていただけなのかもしれない。そう考えると,今回の体験は,私の価値観を揺さぶる意義深い出来事であった。

直接伝えることはできないが,この場を借りてあの男性に謝りたいと思う。

本当に,ごめんなさい。
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3月も半ばを過ぎようとしている現在,大型イベントの自粛要請が当初の2週間から引き延ばされることになった。苦渋の決断でイベントを決行したり,中止したりすることが「正解なのか?不正解なのか?」この二元論では判断できない領域に移行しつつある。そのような状況を鑑みても,今ここで出会うはずだった作品や人と出会えない,という事態に追い込まれた人々を思うと本当に悔しい。ただただ悔しいのである。

やはりこれからも「不要不急」に腹を立て,伝えていくことで抗っていきたい。

引用文献
坂本光太(2020)「暴力/ ノイズ / グロボカール:坂本光太チューバリサイタル」 プログラムノート
高木光太郎 (1996) 身構えの回復. 佐々木正人(編).想起のフィールド (pp.219-240). 新曜社.
高木光太郎 (2006) 「記憶空間」試論. 西井凉子・田辺 繁治(編).社会空間の人類学―マテリアリティ・主体・モダニティ (pp.48-64). 世界思想社.

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暴力 / ノイズ / グロボカール:坂本光太チューバリサイタル

会場:北千住BUoY(北千住駅徒歩10分)
日時:2020年3月1日(日) 15:00開演

曲目:
《エシャンジュ》 (Échanges)
《レス・アス・エクス・アンス・ピレ》 (Res/As/Ex/Ins-pirer)
《器楽化された声》 (Voix Instrumentalisée)
《変わらない一日》*(Un jour comme un autre)日本初演

出演:
坂本光太(チューバ他)
馬場武蔵 (指揮)*
根本真澄 (ソプラノ)*
Alvaro Zegers (クラリネット)*
佐野幹仁  (打楽器)*
下島万乃 (チェロ)*
水野翔子 (コントラバス)*
小野龍一 (演出)
増田義基 (音響)
植村真  (照明)
山下直弥 (制作)

助成:
一般財団法人福島育英会
公益財団法人光山文化財団

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