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ヴィンツェンツォが出来上がるまでの一考察~22(最終回)

暗がりの中、俺はその男のべとついただらしない黒い頭と、恐怖に怯える茶色い目を見てとった。

胸の真ん中をどついて、出てこようとした部屋の中にころげ倒す。ところどころ破れたところのあるカーテンの隙間から夕方の日差しが漏れこんでいた。家の中には手入れのされていないぐしゃぐしゃの汚いベッドと、粗末なテーブルセット、男の荷物らしい大き目のダッフルバッグだけがあった。

立ち上がろうとするので、もう一度胸を蹴り倒した。男は泡を食ったように床に転がって俺を恐れていた。

どうしてやろうか?

身体を動かすにはスーツが邪魔だと思って上着を畳んでテーブルに置いた、その時、粗末なスチールの椅子に手が触れた。情動が腹の底から沸き上がった。椅子を両手で掴むとまだ床に寝ている男の頭の上に振りかぶった。

このままこいつの頭にこれを殴りつけたら、完了だ。

完了、そう思うと甘美な思いが胸を包んだ。辛かった日々、叔父の助けを得てこいつを追いはじめ身体の中の獣のような感覚が研ぎ澄まされた日々、薄暗がりで怪しい連中と会話をしている間にアニタに暗い顔をされて去られた日、すべてが完了する。

もう一人の俺が言った、その後俺はどうする?

もがき出ようとする男をもう一度蹴るとあらためて椅子を頭上に振り上げた、おそらく思わず何か叫んでいたと思う。

その後、どうする?

「ガーーーッ」声にならない声をあげて振り上げた椅子を打ちおろした。

男の顔の脇に。安っぽい椅子がガタンと大きな音を立てる。男の野太い悲鳴があがる。

だめだ、殺せないのか俺は。

俺にはできないのか。

男は目に涙を浮かべながら文字にするならギャーというような悲鳴を上げ続けていた。

振り下ろした椅子に目を移す。

その時、男が何故悲鳴を上げたのかを悟った。

 

俺の中の何かがカチリと動いた瞬間。

 

椅子の足の先が、男の右手の親指の爪をつぶして、小さく血が飛び散っていた。
そのまま椅子をぐりぐりと床に押し付けると、傷の大きさからは想像できないような悲鳴があがる。

我に返った男がまた立ち上がろうとするので、足首に横から蹴りを入れて腱を切ってやった。あらためて膝で胸を踏みつける。

椅子を少し持ち上げ、つま先で男の手を固定した。先ほどよりは小さめに椅子を振りかぶる。人差し指に狙いを定めて打ち下ろした。

ガリっ、音は想像だが、椅子を持つ手に返ってきた甘美な感覚。

男はまたぎゃーと悲鳴をあげると胸の上にある俺の足を払おうとあらがう。

今度は椅子を持ち上げず、中指の爪の上に椅子の脚の先を置いてから、振り上げずに静かに体重を乗せてみた。

ガリッ。

 

俺がライターで爪をえぐるようになるのは、まだまだ先の話だった。そして俺ははじめて感じた椅子の足越しの甘美な感覚は一生忘れることはなかった。

 

 

この先のストーリーはミラノの裏通りで語り継がれている通りだ。

俺は「腹の膨れた猫」の綽名そのままに、男をいたぶり続け、ロースクール2学年目の夏休みが来る直前につまらない事案で逮捕されるように仕込んだ。

 

ロースクール2年目の夏休みは豪華だった。

叔父について、クロアチアの別荘に行き、カジノでの稼ぎ方を教わった。

そしてその足で、ニューヨークまで飛んだ。ニューヨークには西海岸に住む叔父の2番目の弟ルイージ、つまり父さんのすぐ上の兄が来て合流した。ニューヨークの街で叔父の友人たちに紹介された後、ルイージ叔父の別荘があるテキサスにプライベートジェットで飛んだ。ルイージ叔父は別荘として広々とした牧場を構えていた、なんでもハリウッドの有名俳優が以前所有していたらしい。

そこでは、牧場の管理人をしている元特殊部隊員だという身体の大きなアメリカ人から射撃と乗馬を習った。大男からは筋がいいとかなりかわいがられた、特殊部隊に勧誘されるほどに。そこで英語も少し上達したように思う。

ルイージ叔父は西海岸の投資会社のオーナーで、夜になると俺に投資のノウハウを教えてくれた。今もその叔父のアドバイスに従って投資を続けているので、資産はあっという間に何十倍にも膨らみ、ファビオ叔父から渡される小切手をそのまま貯金するようになるまで時間はかからなかった。

ファビオ叔父のすぐ下の弟、つまりパオロの父については不明だった、叔父たちも会話に乗せないのであえて聞くことはしなかったが、パオロを17歳で養子に獲ってからの彼の行状を聞くに、その父親はあまり筋が良い人物とは言えないように感じた。
「最初はテーブルマナーから教育しなくてはならなかった」
叔父に子がおらず、ルイージ叔父には娘しかいない。パオロしか選択肢がなく養子にしたようだった。
俺に敵愾心を抱く理由もなんとなくわかった気がした。

 

そして父さんは、兄弟の光だった。
先祖代々戦前から続いているカサノ家の稼業と資金洗浄。ファビオ叔父もルイージ叔父も、堂々としていながらもどこかに後ろめたい何かがあったのだろう。父さんのことをとても誇りに、大切に想っていたことが、思い出を語る端々から感じられた。
カサノ家の稼業から距離を置いて、弁護士として市井の人々のために働いた父さん。あの隠し棚にあった書類でわかったのだが、父さんはファビオ叔父からの依頼の売り上げは全て慈善団体に寄付していた。叔父たちは父さんの寄付の話は知らなかったらしい。テキサスの別荘での晩餐の席でふと俺がその話をしたら、ルイージ叔父は涙をぽろぽろと流していた。

 

夏休みを終えると、父さんがいた弁護士事務所のチッコーニさんを訪問した。俺の弁護士修行のための最初の2年間のの就業のお願いも兼ねてだ。

綺麗な色の青いファイルを20枚ほど目の前に並べられた。どれも父さんがファビオ叔父さんの仕事で得た金を原資に寄付をしている慈善団体のファイルだった。
「君も、そうしたいなら、手を貸そう。叔父さんたちもきっと喜ぶだろう」

かくして俺は、父さんの後を継いでカサノの名前で各種慈善団体への寄付を続けることになった。原資は、父さんの時とは違い、ファビオ叔父から頼まれ、ルイージ叔父の指導の元に行う資金洗浄で得た米国西海岸での投資からの売り上げの一部だった。寄付する金額はあっという間に高額寄付者の上位に名前が載るまでに上っていった。

ファビオ叔父には、「清貧は美徳ではない、自分の立場を構築して守るための金はしっかり貯めて運用しろ、最低でもいつもブラルロのスーツを着ていられるくらいにな」と言われたので、自分の資産もそこそこに増やしていっていた。

俺のクローゼットはブラルロのスーツで埋められていった。最近はパジャマですらブラルロで買い求めている。
天国にいる父さんと母さんはこれをどう思うだろうか・・・。

 

そして俺は、例の男の元に、ブラルロの黒のスーツを着て向かった。丁度つまらない事案で逮捕されていた刑務所から、男が出てきた時だった。

その時、俺は自分の中のスイッチを完全にカチッと入れたんだ。俺自身の強い信念をもって。

 

<了>

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