閑話―「仲裁」と民主主義の思想
■仲裁とは
仲裁とは、
「当事者間の合意に基づき、第三者が紛争解決を行う」ことを指します。
逆に言えば、「当事者間の合意」がなければ、第三者に仲裁権限は与えられません。
無断で仲裁することは不法行為であり、状況を悪化させることは明らかです。
しかし、仲裁が成功すれば、仲裁者は大きな権力を手に入れることができます。そのため、「仲裁役を買って出る」人は意外と多いです。
私的に、この仲裁役を買って出てくるタイプは、基本的に「状況を悪化させる存在」と見て良いというのが私の考えです。
■仲裁に期待してはいけない
例えば、Aの意見とBの意見が対立しているとしましょう。Aの意見は100%正しいとします。一方、Bの意見は25%しか正しくなく、75%は間違っています。情勢としてはAが優勢だったします。
仲裁がなければ、Aが勝利し、100%のAの意見が通ることになります。
しかし、ここで
仲裁者Cが現れ、「Bが消滅するのは忍びない」と主張し、Aの意見を85%反映し、残りの15%を「Bの間違った意見を採用する」ようにしたとします。一見正しいように見えるこの行為にAは容易に抵抗できないです。
その結果、Cによって保証されたBの存在枠は、その後、Cの権力維持のために再利用されることになります。Bは率先してこれに協力するでしょう。
また、Aにとって煩わしいことですが、Aの意見を少しでも通すためには、Cに配慮し、Bの意見を取り入れることでAの意見が通る、という力関係も形成されます。
■仲裁による後の悪影響
仲裁者Cは
「中立的な立場での裁定」
「分断を防ぐ」
という二つの大義を掲げ、Aを宥めつつ、Bの間違った意見を増やすように動きかけます。
そして、当初はBの小さな間違った異論であったものが、
分断した場合の損失を考慮すると、容易に分断することができないほどに大きくなってしまいます。
もしCという裁定者が現れず、当初まだBが小さい異論を言っているときに余計なことをしなければ、Aの100%正しい意見が実行されていたはずです。
しかし、Cが現れることで、本来なら結束できた集団が分断され、その分断を弥縫する存在として「分断」を嘆きつつ、「内在的な分断をまるで自分の存在により分断を防いでいるかのように装っている」だけで、Cは強烈な権力的吸引力を形成することができます。
つまり、Cという仲裁者は実際は
「余計なことをして本質的な分断を作り出し維持している存在」
なのです。
■民主主義的仲裁の悪行
この中立的な裁定を行うことの恐ろしさは、政治制度で言えば「民主主義」の場合に必ず発生します。
民主主義は、例え間違った意見であろうとも、反対意見を完全排除しない、多数派も少数派に配慮する、という前提があるため、「AもBもどちらも不満を抱える制度」という側面を持ちます。そして、中立的な裁定者、つまり仲裁者であればあるほど、「思想的・政治的・民族的・国民国家的・経世済民的な正しさを無視して権力を握ることができる」というのが民主主義の恐ろしいところです。
尚、私が言いたいのは、だから民主主義を否定しよう、ということではありませんし、民主主義のその機能を否定しよう、ということではありません。多数派は少数派に配慮すべきだとは思います。
「民主主義のその機能を分かった上で、気を付けて運用しよう」
ということを私は述べているのです。
■「不必要な分断」をせず、だが「必要な分断」は行おう
以上から、実は日本における民主主義の問題点は、経世済民を実行しない、中立的なリーダーこそが分断を招き放置・維持する敵だ、という場合もあるのです。
分断を恐れる一見まともな意見は寧ろ危険な場合があるのです。
勿論不必要な分断を招く必要はありません。
しかし、間違っていない必要な分断を過剰に恐れていると、貴方の意見はいずれ敵側によって削除され続けていくことでしょう。
■必要な分断の判断は保守思想で行う
では必要な分断をするための判断基準は何でしょうか?
それは、国家・国民の維持、なのですから「保守思想」です。
保守以外に経世済民は達成できず、保守以外を受け入れようとする時点でそれは反国家主義的であり経世済民とは真逆なのです。
左翼による経世済民はあり得ないのです。
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