「貨幣の信用」と「貨幣の価値」6 ―租税貨幣論の私的で簡易な説明―
では、私がちょっと異論を差し挟んでいる、「租税貨幣論」とは何なのか、簡単にご説明いたします。
(極めて私的で簡易的な説明です。他方の説明とは違う点がありますのでご了承ください。)
「租税貨幣論」とは租税・税、つまり「徴税」が「貨幣」と関係している。
「徴税」をすることで「貨幣と呼ばれるもの」は「貨幣たらしめる(貨幣としての機能を得る)」という理論です。
さて、「貨幣たらしめる」ということは、筆者にとって前章までを通して述べた通り「貨幣の信用」と「貨幣の価値」が「貨幣の信用>貨幣の価値」という関係で存在する、ということです。
では「租税貨幣論」の「徴税と貨幣の関係」から「貨幣の信用」はどのように生じているでしょうか?
租税貨幣論では前提として、
①「スペンディング・ファースト(まず支出)」ということで政府が発行した貨幣が国民に配られます(私はこの説明に異論がありますが、一旦無視します)。
②政府は国民に対して納税を義務づけ、配った貨幣の一部を「税として徴収・徴税する」ことで、税務を解消する機能を設定します。
③「政府の配った貨幣(法定貨幣)で徴税される」ので、国民にとって「配られ、その後 徴税された貨幣」は「納税の義務を解消するためには是が非でも欲しい『価値ある貨幣』」ということになります。
④国民は、納税の義務を解消する貨幣を得るために作業・仕事に従事し貨幣を報酬として得るわけです。
以上の①~④の時系列で「価値ある貨幣」、つまり「貨幣の価値」が<確立する流れ>は分かるかと思います。
はて?とすると「貨幣の信用」はどこでしょうか?
私の理論では「貨幣の信用」が無ければ「貨幣の価値」は生じません。
「租税貨幣論」での「貨幣の信用」はどこにあるでしょう?
先ほど「貨幣の価値」が<確立する流れ>
と述べました。
その「確立するまで」の「①~④までの時系列」が「貨幣の信用」に当たる部分なのです。
そして、私が「それは貨幣の信用を確立するためには、ちょっと足りないのではないだろうか?」と思う部分でもあります。
何故「ちょっと足りない」と私は思ったのでしょうか?
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