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追われる _『リファ』#19【小説】

 ドン。うめき声のような低音が聞こえたような気がした。座っていた椅子が床から突き上げられ、ビクッとして目を見開く。全身に警戒が走ったその直後から、縦向きに揺れた。

 足元は海原に変わり、海上に出ていた小さな漁船が台風に巻き込まれたように大きく振動する。揺れは徐々に上下左右に激しくなり、デスクトップのパソコンに向かっていた手を止め、机のふちにつかまる。

 ビビビビビビと、緊急地震速報特有の不穏なアラームが鳴る。揺れが収まるまで、ただただ息をひそめた。

 震源地の震度は7、震源の深さは15㎞、マグニチュードは6.9。

 検索して、気象庁が発表した数字を見る。東京都渋谷区は震度5強だった。

 震源地周辺の地域の被害状況をネットで確認しながら、揺れた拍子に床に散らばった文庫本を、本棚に戻す。

 時計を見ると、15時過ぎ。葉を迎えに行かなくては。震度5弱以上の地震が発生した場合、放課後に過ごす学童へ保護者が迎えに行かないといけないことになっている。小学校を経由してから、銀のいる保育園へ迎えに行くことを頭で算段した。

 地下から電動自転車を出してまたがり、マンション前の道路へ漕ぎ出した。

 マンションの二軒隣のご近所さんが、グレーのスエット姿で玄関前に立っているのが視界に入った。ぼうっと遠くを見ている。揺れましたねぇ、あいさつも兼ねて声をかけようとしたら、うろたえる。右手に金づちを持っている……!

 気づいたときにはその個体は右手を振り上げ、こちらに突進するように走ってきた。私は自転車を全速力で漕ぐ。逃げる。

 角を曲がると、バットを持った存在が襲ってきた。一人、二人、四人、七人……群衆となり私を追ってくる。

 自転車を降りていた私は、伸びてくる乱暴な腕たちに捕まるまいと全速力で走る。なぜ自分が追われるのか、襲われるのか。わけがわからない。逃げる。

 追ってきた男が私の右肩を乱暴につかんだ。

 びくんと目を開けた。ぼんやりとした頭で天井を眺める。いつもと違う木目柄を見て、ああと思い出す。昨夜は、実家のベッドで眠ったのだった。

 意識は冴えてきたものの、からだは金縛りに遭ったように硬直している。わきと額に、ぬるりとした水分を感じる。

 久しぶりに、見た。理由もわからず、暴徒化した集団に追いかけられる夢だ。何年かに一度、私の眠りの中で再生される。

 襲われるのはいつも東京の自宅マンション周辺で、寸前のところで捕まらないこともあれば、鉄パイプを持ち武装化した民間人と思われる集団に連行されることもある。捕まって袋叩きにされ、地面に這いつくばるところで目を覚ますこともあった。

 私のこれまでの人生で、最大の悲しみを挙げるなら、実際に経験したことではない。

 関東大震災後に起きた朝鮮人虐殺。知ったときは、大げさではなく震撼させられた。

 1923年9月1日に関東地方を襲った大地震と、それによる大火災の中で、数多くの朝鮮人が​​朝鮮人であるという理由だけで、日本の軍隊・警察、自警団によって虐殺された。

 「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」「爆弾を持って襲撃してくる」などの根も葉もない流言やデマが広がり、信じた有志の自警団、つまり一般人が被災して避難する朝鮮人を捕まえて殺害した。関東地方の各地で起こった。その殺し方もむごたらしい。虐殺による死者数は233人〜6415人と調査元により様々だが、千名単位の死者があったとされている。

 こんな非科学的なデマで、何千の命が虫けらのように奪われたの? 生きる時代が百年ずれていたら、私も殺されたんだよね? 私には、そんな酷い扱いを受ける血が、流れているの?

  涙があふれ、止まらなかった。

 この涙は、痛みや悲しみという単純なものではない。

 自分も殺されるかもしれない恐怖であり、鬼畜への怒りであり、蹂躙された命への祈りであり、この世界に存在することへの怯えだった。

 現代でも、何かの拍子に世の中が混乱したら、祭り上げられるかもしれない。自分の内部であらゆる毒素も薬も混ぜられ、熱で温められ、ふつふつとたぎり続けている。

 強い不安と恐怖に引き寄せられるように、追われる夢を繰り返し見るのだった。

 時計を見る。七時を過ぎていた。

 下の階にある台所から、うぉんうぉんと回るジューサーの音がする。私がこの家で暮らしていたころから、母は毎朝欠かさず野菜と果物でスムージーをつくってくれた。バナナとりんごと小松菜が定番だったが、変わってないのだろうか。

 エアコンを切り、窓を開ける。

 これ以上にない美しい青に目を奪われた。東京よりも空が広い。アマガエルが鳴く声もする。健全な朝の始まりに、意識を向けた。



つづく

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