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告白 #05

 優一郎は、芝生の上に横たわる黒い岩に座り、文庫本を読みながら待っていた。
 芝生は美蘭の記憶にあるよりもみずみずしく、腰かけている岩肌はすべらかで、空はこの世で一番美しいと思うような青だった。彼が景色の中にいるだけで、いつもより彩りにあふれ、鮮明だった。
 黄金色に染まるイチョウの樹を背に、優一郎のほっそりした指がページをゆったりと操っている。美蘭が来たことに気づくとすぐに本を閉じて、着ていたカーキ色のコートのポケットにしまった。
 美蘭は優一郎の目を見て、小さく手を振る。優一郎は、美蘭が近づいてくるのを微笑みながら待っている。優一郎からの自分に注がれる視線を味わうように、美蘭はそれまでと変わらない足取りで歩いた。
「どんな話を読んでたの?」
「これのこと?」
 優一郎はポケットから文庫を取り出し、青と緑で描かれた抽象画のような表紙を見せながら言った。
「要約するのが難しいな。平和な土地とその対岸で戦争が起きてる話。ストーリーはあるようでないかな」
「へぇ、読んでみたい」
「ミカも好きだと思うよ」
 優一郎が読み終えた本は、美蘭の手元に来た。逆に美蘭が自分の本を読み終わったら、優一郎に渡す。つきあって間もないころからなんとなく始まった交換だった。作品の惹かれた箇所を出し合い、意見を言うこともあれば、しないこともあった。すぐに返信を求めない会話のような、頭と心の中を見せ合う文通のような行為が美蘭は好きだった。優一郎について知りたいし、自分について知ってほしいと思う。 
 この人にまず、自分の事情を明かさなければ。
 話したい。
 ヤンとの会話を機に美蘭の中で広がり始めた波紋は、別のところへ到達しようとしていた。
「どうかした?」
 優一郎の手が伸びてきて、美蘭の頭上からあごをするりと撫でた。優一郎は二人でいるとき、触れていたくてたまらないというようなふるまいをする。
 美蘭は答えず、自分より頭一つ分高いところにある目を見上げ、口角を上げた。優一郎の手のひらが、当たり前のように美蘭の右手を握りしめる。美蘭の手は、そこがまるで最初から決まっている収納場所のように収まる。
 みんなとの待ち合わせ場所があるほうへ、公園内を歩いた。
 この日は、二週間前に終えたみやこ祭の打ち上げだった。ランチを持ち寄り、ゼミ仲間と集まる。
 佳代子と桜、健太、ジェイコブやアナたちは先に着いていた。黄色い葉をつけたイチョウの樹と樹の間で日陰になった広場にレジャーシートを敷き、輪になっている。くつろいだ雰囲気の中で、缶ビール片手に食事をしていた。
 美蘭と優一郎の姿を見つけた佳代子が、高々と挙げた両手をぶんぶんと振った。
「ふたりきりで待ち合わせてから、来たわけ?」
 佳代子が、にやつきながらからかうように言う。
「そうだよ。おれがミカに会いたすぎて」
 優一郎がふざけ返す。冗談で言っているのだろうが、美蘭はこそばゆいようなうれしさに満たされた。この感情を少しでも長く留めたいと思いながら、用意してきたレジャーシートを落ち葉の上に広げた。
「あれ、ヤンは?」輪の中に加わりながら、全体を見渡した優一郎が聞いた。美蘭は優一郎の向かい側に座る。
「ヤンは、バイトで来れないって」
 健太の返事に、美蘭は肩をなで下ろしている自分に気づいた。ヤンを前にすると、何気ない言動にいちいち調子を狂わされてしまう。それは地震が発生したときの地面が揺れる不安と近かった。今日は和やかに楽しみたかった。
 美蘭は、持ってきた袋を開け、中から一つを優一郎に手渡す。
「焼きたてだった。まだ温かいよ」
 タンドリーチキンサンドとキャロットラペをサンドしたバケットは、彼の好物だった。もう一つのパンは、優一郎が好きそうな、エッグベネディクトをトーストにのせた惣菜パンを選んである。
「やった。おれの好きなやつ。ありがと」
 優一郎は愛おしそうに目を細めて笑い、壊れものを預かるように両手で受け取った。
「ミカには、はい」
 先ほど文庫本を閉まった逆のポケットから、ペットボトルに入ったオレンジジュースを取り出す。美蘭のほうへ手を伸ばした。
「なんか……いいなおまえら…」
 健太が羨ましそうに口を尖らせた。
 美蘭は真意を知りたくて、健太のほうを見る。健太は、持っていたビールを一気に飲み干してから打ち明けた。
「彼女が何を考えているのか、感じているのかわからなくて、不安なんだよな。彼女に自分のことをちゃんと理解してもらえてない気もするし、彼女もおれに見せてくれてない気がする」
 確か一年前からつき合っている彼女についての話だった。
「どうして、そう思うの?」
 佳代子が、身を乗り出して聞いた。美蘭も興味を抱き、からだを傾ける。優一郎に対して抱えている不安と似ているところに、自分を重ねていた。
「話をしていても、どこかに一緒に出かけても、いつも間に透明な壁があるような感じがして。その先に行けないつーか」
「どんなときに感じるの?」
 佳代子が促す。
「うまく言えないんだけど、お互いとお互いが独立していて、影響し合うようなことがないっていうか」
 美蘭は、健太の抱く寂しさに想いを馳せた。佳代子も、うなづいている。健太自身は悩んでいるというよりも、その原因を探り、乗り越えたがっているようだった。
 バケットを片手に持ったままの優一郎が、軽い調子で放った。
「そんなことでうじうじ悩んでるのかよ、深刻に考えすぎだって」
 美蘭は驚いて、優一郎を凝視した。優一郎はバケットをかじりながら続けた。
「心配しなくても大丈夫。他人同士なんだから、わからなくて当然だろ」
「わからなくても、わかりたいって思う健太のその感じ。誠実に向き合おうとしてくれるところも、私が彼女ならうれしいけどね」
 佳代子が、健太を励ますように加勢する。
「まぁ、そうだよな」健太は小刻みにうなづく。
「自分について理解してほしいなんて、図々しいよ」
 優一郎が、もうこの話に飽きたと言わんばかりに遠くを眺めながら言う。
「おれが考えすぎなのかも」
 健太は話題を変えた。乾杯をしようとみんなを促す。
 佳代子や桜は手に持っていた缶チィーハイを、優一郎は缶ビールを受け取る。健太に促され、美蘭も合わせる。持っていたオレンジジュースで輪に加わった。
 「かんぱ〜い!」
 黄色く染まったイチョウに囲まれて、活気ある声が響いた。
 美蘭はたまらず目を伏せる。
 優一郎に悪意はなく、健太の不安を軽減させて励まそうとしていることは、頭では理解できた。でも、感情は追いつかない。
 美蘭が外国人であることを優一郎に伝えたとき、健太にたった今した反応と同じように「考えすぎだ」と取るに足らないこととして一蹴されたら、どうしたらいいのだろう?
 優一郎と分け合いたいと抱いた前向きな気持ちが、急に萎んでいく。小さくなったそれは重さを持ちはじめ、こちらに向かう矢となった。
 自分についてわかってほしいと抱くことは、優一郎の言うように傲慢なのかもしれない。こんなことでじくじくと悩み、過剰反応している自分こそが間違っている。
 美蘭は、賑やかに食事を楽しむ優一郎たちを、画面越しに隔てられたワンシーンのようにぼんやりと眺める。優一郎が目を合わせてきた。美蘭は笑顔が引きつってないか気にしながら、視線を返した。


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