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環 -めぐり-  #01

 すぐに謝る人を、透子は信じない。
 それが、どれだけ致命的な失敗や罪であっても。むしろ致命的であればあるほど、相手への謝罪によって全責任から解放されることを、自分に赦してはいけないんじゃないか。
 透子は、すべての葉が落ち、針金のような枝がむき出しのまま天に伸びる桜の樹をぼんやりと眺めた。鉛色の厚い雲に、空はその姿を完全に隠している。
 公園内ですれ違う人たちは、ウールのコートにマフラーとまだ冬の装いだ。
 あのときも、まだ冬の寒さを引きずっていた。
 ちょうど二十年が経った。
 その手を、自分から放した。
 失ったときの大きな悲しみも、悲嘆に暮れながらも後悔することを跳ね返した日々も、あれほど長く続いたのに。忘れたくないとどれほど願っても、常に思い出す自分の一部のような相手では、もうなくなっていた。
 時間の経過とともに薄まる記憶のように、悲しみも、罪の意識も、その形を変えていく。人間は生きながらに苦しみ、その苦しみも生きながらに忘れていくようにできている。

 まつりと陽太が、児童遊園のすべり台で、上り下りを繰り返している。小学生の姉と、4歳の弟が休日の公園で戯れる。どう見ても、ほのぼのとした光景のはずが、乱反射する。哀しみに浸ろうとする心を、透子の母としての部分が必死に食い止めている。
 透子はトレンチコートのポケットから、携帯電話を取り出した。読みかけのエッセイを読み気を紛らわせようとしたはずが、水色のアプリのほうへ、親指が動いた。読むとも見るともなく、ツイッター画面を上から下に流す。
 ベルのアイコンが、通知し続けている。ダイレクトメールは、何百件と溜まっていた。
 後輩の瑠美からLINEがきたと、画面が知らせる。開いた。
「昨日は言葉が過ぎました。すみませんでした」
 簡素な文章だった。絵文字もない。
 ああ、ここにも、手っ取り早く謝って、楽になろうとする人がいるわ。透子は、投げやりに思った。透子のほうから、緊張を緩和させる気はない。今は誰かとコミュニケーションを取ること自体が、面倒だった。
 既読をつけたまま、アプリを閉じた。

 透子ははじめて、ネットで炎上の火種になる経験をした。ディレクターとして、韓国系民族学校に通う高校野球部員を追う、ドキュメンタリーを撮った。いわれのない偏見を向けられる理不尽と、それでも長いものに巻かれない彼らを切り取った。
 禁止する法律ができても無くならないヘイトスピーチの様子や、近代から今に続く日韓の緊張関係には無関心のまま、K-POPに傾倒する日本の女性たちも追った。一時間の番組だ。
 透子は、恣意的な編集を排し、誰にも肩入れせずに淡々と映すことに気をつけた。
 とはいえ、ノンフィクションも、フィクションである。
 ドキュメンタリーなら、カメラをどこに置くか決めた時点で、日々のニュースなら世の出来事から選択した時点で、作り手の意図とメッセージは含まれる。
 国内での反発は、予想していた。
 三日前に民放で放送されると、反発するコメントがSNS上に相次いだ。ツイッターのコメントの一部を切り出して引用し、そこから想像を膨らませたであろう、”放送を観ていない歪んだナショナリスト”たちの琴線に触れた。その数が匿名のネット民と、これほどまでに相性がいいことまでは、予想できなかった。
 透子の個人アカウントは、批判にはまったく満たない、唾を吐きかけられるようなコメントやDMの嵐だった。
 十年前のツイートを切り取り、難癖をつける人も出てきた。一社提供の放送枠だったため、番組の広告主だった飲料メーカーにも炎上が飛び火している。
 同じ日本で生まれて暮らしているのに、立場の相容れない者へ牙をむく。排他的で狭い愛国心が、社会を蝕んでいる。
 すべての責任は自分にあるし、この疲弊にも、真摯に向き合うつもりでいる。
 ただ一つ、取材に協力してくれた人たちのことが、気がかりだった。
 特に、日本で韓国人として生まれ育ったという出生の偶然だけで、視線に晒され続ける。多くのことを背負わされてしまった高校生たちが、心配だった。放送後に主将へ電話をかけ、LINEもしたが返事はない。
 そんな不安定な状況で、後輩の瑠美と、些細なことから言い合いになった。思わず本心が漏れ出したのであろう、彼女はまくし立てるように言った。
「我が強すぎるんですよ、先輩は。私たちに意見を出して、出してと言う。受け入れているようでいて、結局自分の考え方を変えない。相手がいようがいるまいが、自分のやりたいことをやるんですよ」
 瑠美の視点は興味深く、へぇ〜と透子は新鮮だった。
 透子は昔から、周囲から自分に投げられるどんな意見にも、心が乱されることがほとんどない。
 そもそも人は誰とも似ていない存在なのだから、その言葉を放った他者の内側や背景まで、わかることはできない。
 受け入れるかどうかは、自分が決めればいいのだ。
 だから、炎上で揺れる心にさらに衝撃を与えるような後輩からの意見も、耳を傾けていた。小川に泳ぐ魚がぴょんと跳ねるのを見て、お、と驚くぐらいの余裕もあった。
 離婚したことを、話題にされるまでは。
 「英輔さんと別れた理由を聞いた時、背筋が冷えましたよ。もう好きじゃないから、って? 英輔さんの気持ちは、どこにいくんですか。結婚してお子さんもいるのに、よくもこうもあっさりと別れられましたよね?」
 瑠美は、一息で言った。
 ハッと何かに気がついたような顔をして、「お昼行ってきます」と逃げるように去った。
 当て逃げされた車の運転手は、こんな気分なのだろう。
 しみじみと思った。
 透子しかいなくなった会議室は、自動販売機の重低音だけがうーと響いていた。

 「ままー!」と、ふうせんが割れるような弾ける声で呼びかけられて、透子は我に返った。まつりと陽太が、噴水のある広場のほうへ行きたいと、身振りと目で合図をしている。
 小さくなっていくふたりの背中を、透子は目で追った。
 ミニチュアサイズの陽太が、芝生でボール遊びをしていた男の子とぶつかった。ふたつの個体が衝突して離れ、互いに地面に尻もちをついたのが見える。
 透子は慌てて、走った。陽太の様子を確認してから、
「すみません、ケガはなかったですか?」
 透子は、男児のそばにいた母親に儀礼的に尋ねた。母親は、「こちらこそ、うちの子が前を向かずに走っていましたから」とおっとりと頭をさげる。
 陽太はぶつかった男児とまつりの三人で、なか当てのような、ボールあそびを始めていた。
「息子さん、うちの子と同じ年齢ぐらいでしょうか?」
 母親から聞かれた。
 「5歳です」返すと、「やっぱり同い年だ」とその母は朗らかに破顔した。  
 ゆるいパーマがかかったふわふわした髪に、ネイビーのニット帽がよく似合っている。女子大生と言われても納得しそうで、心配事など何もなさそうに、屈託なく笑う。
 出会ったばかりの女性と肩を並べ、子どもたちを見るともなく眺めた。
 男児がボールを受けようとした拍子に転び、「あ!」と透子たちは同時に声を挙げた。透子のからだが前のめりになったより先に、「つぎはる!」と母親が飛び出した。
 つぎはると呼ばれた男児はおでこをさすりながら、こちらを向いてニーッと笑った。ケガはしてないようだ。
 透子は母親の背中に向かって、言葉を投げていた。
「つぎはるくん。どんな字ですか?」
「次の春と書いて、次春です」
 次春ママは、空に漢字を書くように人差し指を動かした。
「お兄ちゃんが、いらっしゃるのですか?」
 「次」の字を名前につけるのは、次男だろうと透子は直感した。
 次春ママは、困ったような嬉しいようなあいまいな顔で、首を横にふる。
「長男なんです。下に弟がいます。次春を授かってお腹の赤ちゃんの性別が男の子とわかったとき、夫がこの名前にこだわったんです」
 「へぇ、旦那さんが」
 透子は、相槌を打った。次春ママがおっとりと説明する。
「古風だし、長男だし、次の春よりこれからくる春でしょ、と最初はピンと来なかったんです。夫は構わず、つぎはる、つぎはるとお腹に呼びかけるようになって。いい響きだな〜と私も思えてきて」
 かわいらしい人だな、透子は好感を持った。
 たまたま出会っただけの母親との雑談が、透子の緊張をほどいていく。
 「お名前は?」
 聞かれて「まつりと陽太です」返そうとした声と、次春が「パパ!」と叫ぶ声が重なった。
 次春の見つめる先に、透子は視線を移した。
 その姿をとらえたと同時に、透子のからだに電気が走った。全身が硬直するような驚きを、内側に押し返す。
 次春と、パパと呼ばれた男が交わす横顔を、凝視する。変わっているのだけれども、変わっていない。
 間違いなかった。
 コートのポケットに入れたスマホが、振動した。右太ももが震えている。既読のままLINEを放置した、瑠美からの再びのコールだろうか。
 静かにゆっくりと深呼吸する。透子は、心臓の形を整えた。
 十メートルほど先にいる男性は、グレーの抱っこひもをつけて赤ちゃんを胸に抱いている。デニムパンツと、カーキのモッズコートがよく似合っていた。
 男性が透子の視線に気づき、交わる。
 どれぐらい合わせたままだっただろう。ほんの一、二秒にも思えるし、二十秒近くにも思える。
 懐かしさと愛おしさで、暖かなものが体内に広がる。力を入れておかないと、両目が潤んでしまいそうだ。
 透子は、この感情を自分以外に悟られないよう無表情を意識してから、視線を外した。
 「うわさをすれば。あれが夫です」と、説明してくれた。次は男のほうに向かって、「キヨトくーん」と手を振る。母親の声には、お風呂上がりの赤ちゃんのような柔らかさがある。
 病めるときも健やかなるときも、一緒に経てきた。そんな関係だから醸し出される、信頼のようなものがあった。
 羨望と嫉妬と、嬉しさがごちゃ混ぜになったような気持ちが透子を襲った。
 透子は、母親のほうを見れない。
 右太ももが、また揺れ始めた。
 瑠美は、こうもしつこくかけてくるタイプだっただろうか。
 心の中の振動の音が次第に大きくなる。
 もしかすると、この電話をかけてきているのは、大学卒業間近だった、かつての透子かもしれない。
 目の前に現れたのは、二十年前に別れた清人だった。


つづく

 

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