見出し画像

判例が事実に、学説が意味に対応する

判例が強いのは本質的にその内容ではなく「現に適用された実績がある」という意味とは独立の現実の強さである。

学説が強くなりうるとしたら、それは「現に通用した」をも超える内容の正当性、妥当性である。

「現にそうである」ことには意味がないが力がある。
「内容が妥当である」ことには意味があるが、力があるとは限らない。
「現に正解とされている」ことは多数の人間が支持しているということを大体の場合意味し、多数の人間が支持しているということは力を持つこととほぼ同義である。
「現に正解とされていない」ことは多数の人間が支持しているわけではないことを大体の場合意味し、内容が妥当だとしても変更にはコストがかかり、人間は保守的な層が多いため力を持ちにくい。

知にも、大きく分けて事実集積型の知と論理必然型の知がある。(永井均の言う外的事実系と内的連関系と意味はほとんど同じである。)

前者は、現に通用する、既に存在する言葉、概念、理論の使われ方や、言葉の意味の一義性、歴史性、権威性に拘る傾向にあるだろう。「既に事実話題に上がっている事柄、語彙とその語彙の意味の一義性」から話を始めることだろう。
学問というのは歴史があり、めぼしいものはもう殆ど組み尽くされており、過去から学べば全てのものはあるというモデルと親和性が高いだろう。また、車輪の再開発に価値を感じにくいだろう。思いつくより知る方が早いからだ。権威や「現に」による有限化がなければ、全てを検討しなくてはならないことになりかねず、思考経済的な側面として優れている。

後者は、「現に」といういかなる意味とでも対応する≒意味とは本質的に関係ない要素を排斥する。現に使われている語彙を使うと言う感覚は基本なく、「その場において常に自ら言葉の意味を定義している」と言うモチベーションになることが多いだろう。既存の語彙を使う際も、それが「現に正しい」意味で使われるかということに関心がなく、文脈によって、その言葉が指示したい意味に近い場合に、大体既存の語彙で言うとこれっぽいかな、というモチベーションで言葉を使うことが多くなるだろう。歴史や権威、現に今使えるか、通用する、しているかという事柄に関心がなく、「既にあるものを理解する」というモデルというよりは、自分一人で内容の妥当性、論理性のみを追い、理論を生成するという感覚に近いだろう。有限化をしないので、思考経済的には効率が悪いが、確かに「現に」支持されているものが"内容的に最善"である可能性は極めて低いと言えるため、必要な視点であろう。
事実ではなく、その間の必然的な理論の構成に興味があり、車輪の再開発を厭わない傾向にあるだろう。そもそも言葉が辞書的な意味と対応するというのが「現に」側の論理である。シニフィアン(言葉の外形)はどんなシニフィエ(言葉の意味)とも結びつきうるからだ。
そこを重視する態度は「意味の妥当性」ではなく、「現に正解である」ことを重視する態度だ。

また、前者の方が「今回話したい問題の解決策、結果を迅速に出す」という方向性と親和性があり、理学か工学でいうと緩やかに工学的なノリと繋がるだろう 
そして後者の方は「今回している話」とは独立な一般的に必然的な理路、を抽出、抽象するという方向性と親和性があり、今回性を棚上げする方向性だろう。理学か工学で言うと理学的である。
ちなみに、別の話ではあるが、意味が所有権に対応し、「現に」が占有権に対応するのは言うまでもない。


両者はかなり相容れない存在であると私は思う。
ちなみに余談として、私は学問、もっと広く世界に対して後者的であると感じる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?