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何故学校の勉強は全く役に立たないのか?-順位付けという定量化の利便性とそれに伴う病理-

何を言っている?この学歴社会において勉強より役に立つものを見つける方が難しいだろうという声が聞こえてくるようである。それはそうだ。オーケイ。一旦聞いてほしい。
そういう話ではないのだ。
例えば当方、司法試験予備試験とかいうマジで意味わかんねえぐらい鬼畜な試験に足を踏み入れてしまった人間(ちなみにサムネは俺の問題集である。ここまでやってこの頭のいいこの俺が余裕で合格点割ってるからマジで挫折しそう)なのだが、なんとその予備試験を超えて、司法試験まで通ったとして、司法修習なる実務のお勉強が一年間必要になるらしい。
はて?
何故そこまで勉強させるくせに、その司法修習とやらでするお勉強を元々試験範囲に入れないのだろうか?それは後述するがー最たる例は最も数の多い企業勤めである。自分が大学で学んだことーいや、別に中卒でも高卒でも何でも良いのだがー成した勉強と関係する仕事に就いた人間は全体の何%と言えるだろうか?
いいや、また待ってくれ。また反知性主義かよと。もしくは実際的でない勉強もするのだから人間は豊かに、自由になれる。それは時代の逆行だという声もまた聞こえてくるようである。オーケイオーケイオーケイ。悪いがその批判は全くもって的外れだ。むしろ俺はそのような知性主義をどちらかというと信奉してしまっている側だとさえ言えるのだ。何故か。
さて、一つ話を変えよう。俺は中学……いや小学生の頃から哲学に興味があった。学校の勉強など目もくれず、中学の頃から哲学書を買って読んだりしていた。その関心は次第に自己で普遍的な二項対立について思いを馳せることにシフトし、正確化と効率化、一回性と普遍性の対比……全能者のUI問題、いかなる入力(例えば絶命するよりも早く脳を真っ二つにしたような場合)に対しても視界は出力を返す(errorはありえない!)という特異性……そして法学ならばブログにもしたが類型化と例外化という法学史上なぜこれまで提唱されていないのかが不思議でならない天才的かつ単純な法学を分析する上での概念対立、現に性と意味性の対立……数少ない俺のファンなら知っているであろうこれらの素晴らしき概念ないし俺の創造性を学校教育は評価できるだろうか?
答えはノーだ。勿論ノーである。
ではこれは、哲学は!教養ではないのか?間違いなくこの世界認識は俺の人生を豊かにしている。だから、指導要綱の枠内という狭い檻に囚わせておいて、教養は人生を豊かにするのだからなどという視点で学校教育を肯定するのは言語道断もいい所だ。
これは俺の話だからお前のポジショントークだとか思う奴が居たらそいつももれなく馬鹿でしかない。任意の学校教育とは無縁の何か教養に詳しいガキを観念的にお前の脳内で連れて来い!わかりやすくするためにこの俺を持ち出しただけだ。
話を戻す。このように、学校教育というのは確かに実際の役には立たない、しかし教養は……云々などという擁護は全て馬鹿と阿呆の妄言である。そもそも学校教育は教養的、知的好奇心的な勉強とも相性が抜群に悪い。これは一定の知性がある人間なら当然気付いていることだろうが、そもそもテストで⚪︎がつく範囲を超えるようなテスト範囲の趣旨より深い、教養を深める勉強をしたらしただけ損をするような仕組みになっていることは火を見るより明らかである。恐るべき学校教育の「悪いとこどり」である!
役にも立たなければ純粋な知的好奇心までも阻害するシステム……
何故こんなことになってしまっているのだろう?それがこの記事のテーマである。

結論から言おう、それは定量的に順位がつけられるよう教育システムを作ったからである。

何故学校教育は役に立たないものばかりやらせるのかといえば、実世界/実務で役に立つ知識、否知性は定性的ないし創造的なものであり、明確な順位が付けられるようなものでないものばかりだから。以上。俺は非常に学校教育的でない定性的な頭が良かったから、織田信長だとか室町幕府だとか安倍総理とかガリガリ覚えてお褒めの言葉を得るなどというレベルを超えて、例えば一つのエピソードとしては哲学書とかの知識無しで小3ぐらいの頃心理的利己主義というソクラテスかなんかが思い至った「いかなる利他的行動も利己主義、自分本位から逃れることはできない」というテーゼを思い至った。ああ!織田信長室町幕府ギャーギャーに比べていかに創造性に溢れた小3だろうか。そして思い至って即親に哲学的問題だこれは真に深淵なるテーマだと親に即提起したところ即お殴りというお褒めの言葉より誠に遥かに慈悲深い応酬を受けることとなった。
話を戻そう。
そして、こここそが第二のキーポイントなのだが、さらに最悪なのが、学校教育は「努力で何とかなる」こと。これが本当に最悪なのだ。
頑張ったら報われるというと現代的な価値観においては素晴らしいテーゼに見えるだろう。しかしこれと学校教育の勉強とかいうクソオブクソが合わさると本当に最強のゴミカスになり無敵に見える。しかし実際そんな実際上の利便性という観点からもゴミな上、純粋な知的好奇心を満たすための勉強でもないという勉強のゴミの上澄みを掬ったようなものにあろうことか努力というリソースを割くのだ。
学校教育が努力でどうにもならない才能的な知を図るものならまだ良かったのである。こんな役に立たない、「役に立つことにするという取り決め」でしかないマトモな実質を何ら持たない勉強のために、マクロな視点では、ないし、社会のリソース配分という視点では誰も得していない勉強のために親は子供を塾に通わせ、子は学校教育の順位を内面化し知性と同質化し貴重な時間というリソースをこのゴミに割く。せめて両方とは言わんから、有用であるか、象牙の塔的教養的知的好奇心を満たせるかぐらいにはしろよゴミが。
頑張ったら報われるような定量的な知性で順位付けをするから、頑張っても報われにくく、先生の立場から問題も作りにくい創造性や定性的な知性が全く評価されないのだ。しかしその要素を省いた勉強/学問など炭酸抜きのコーラのようなものだ。
というかさ、今このスマホで何でも調べられる時代に、わざわざ人名を寸分違わず暗記する意味がどこにある?そこでつくのはーあらゆる意味で有用な知性などでは間違ってもない。そこでつくのは差だけ。それは単純に時間さえかければ誰だってつけられる差でしかない。何でもスマホで調べてOKでその上で創造的なことをさせるという勉強を子供にさせることが現代においては重要だろう。意味のない縛りプレイの枠内で差だけつけさせてもつくのは文字通り差のみである。差。
定量的な差さえつけばいいのだ!


はい、まだ言いたいことはあるんですが、何とここで俺は
https://youtu.be/G1_la4RMqKI?si=TzHJ9_6R1YrqtBry
この他人の動画を宣伝してこのブログを締めようと思う。
気持ちよくなると手を替え品を替え文章を紡ぎまくるこの俺が一体どうしたというのか?
その答えは、この動画にある。この動画は本当に素晴らしく、俺が今上で述べたような話をさらに別の視点から話している。このブログが少しでも面白かったのなら、この動画も見てほしい。
では、久しぶりのサウルでした。

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