第十話 ギメガたるもの

 メガネは道に迷っていた。
 歩いているのはメガネだけではない。彼の後ろには田崎もいた。吉田もいた。
 しかし、この建物に住んでいるはずの彼らは、地下のことはまったく知らなかった。彼らはただメガネの後について歩くだけ。そう、完全な役立たず。
 (カス共がっ!)メガネの怒りに気付かないカス共は、「おっ、先輩っ!これ見れ、これ!すげぇ~べ!」「うわっ、お前、何これ、洋モンじゃねぇ~かっ・・・うわっ!」と歩みを止めたりする。もちろん、そんなときはメガネも止まる。だから、一行の歩みは遅い。

 最初の廊下から踏み込んだ枝道は少し行くとさらに枝分かれしていき、もうどこにいるのかさっぱり分からない。実際は同じところをグルグルと回っているだけだったのかもしれない。
 三人の誰も、よく分からない。
 そのうち二人は気にもしていない。

 迷い始めて一時間近くも経った頃、壁の色が変わった。
 どうやら棟が変わったようだ。

 その時・・・
 ウーウーウー
 遠くでサイレンの音がしたかと思うと、どこからか放送が薄っすらと流れてきた。


   えぇ~、えぇ~。ごほん。
   えぇ~、田ぁ崎ぃと吉ぃ田ぁ。
   帰って来ない?帰って来ない?
   今すぅぐぅ、帰ってぇ来ない?
   悪いようにするぅよ。
   だから安心付きでぇ大丈夫。
   田ぁ崎ぃと吉ぃ田ぁ、帰ってぇ来ない?
   フフフ・・・

 メルトモが最後に笑った理由は不明である。

 放送から明らかなのは、さっきの鼻歌男をメクロ達がもう救い出している、ということだ。ということはもう集結もしているだろうし、武器も持ってるだろう。で、これからメガネ達を追って来るはずだ。
 メガネは自分の方から攻めるのは諦めた。
 まずはこの建物から脱出することが先決だ。

 別棟に入ってしばらく一本道が続いた。そこをさらに行くと、やがて左手に部屋が現れた。『地下管制室』と書かれたプレートがドアの上部に貼られている。ドアを開けた。
「『管制室』か・・・」
 部屋は広かった。大人が二、三十人も楽に入りそうだ。そして、その広い部屋の真ん中に、ポツンとテーブルだけが置いてある。部屋にあるのはそれだけだ。テーブルの上にはなぜだか果物籠が置かれている。

「あ、あれ、食っていいべかな?」
 吉田が涎の垂れそうな顔をして誰かに聞いた。
「いいよ。」
 メガネがそう答えると、吉田と田崎が先を争って部屋の中へと走った。メガネは二人をほっといてその部屋を出ると、廊下を急いだ。

―アガッ!―
―ヒィヤァッ~!メ、メガネさんっ!ちょ、ちょっと来て下さいよっ!―
 田崎が叫んでいる。
 メガネが面倒くさそうにその部屋に戻ってきた。
「メガネさん、ちょっとこれ見てくださいよ。信じられないっすよ。」
 田崎が瑞々しいバナナを手にとって、その裏側をメガネに見せた。バナナの真ん中部分にはボタンが、そして両端には細かい穴がいくつも開いている。

「おい、もしかして・・・」
「はぁ、これ電話っす。」
 田崎が言った。電話を食べようと口に入れた吉田はテーブルの傍で口を押さえて呻いていた。

 メガネが、バナナの腹のボタンを押した。
 プルルルルゥ プルルルゥルゥ
 バナナはちゃんと使えた。その上、ちょっとお洒落でもある。

 プルルルルゥ プルルルゥルゥ

 しかし、アソウもミハダも電話に出ない。十五回目の呼び出し音でアソウがようやく電話に出た。
「今、何時やと思とんねん!このガキァ!ゾクレまくでぇ、こらぁ!」
 『ゾクレ』とは何なのかは分からなかったが、メガネは声をひそめて話し出した。
「アソウさん、俺です。メガネです。」
「なんや、メガネかいなお前っ!何時やと思てんねん!朝かけんかいっ、朝!」
 ガチャッ・・・ツー、ツー、ツー

 うそぉ・・・

 もう一度だけ掛けてみる。あのピグモンがこれで電話に出なかったら、意地でもここから抜け出して、あいつを絞め殺してやる。

 プルルルルぅ、カチャッ

「おぉっ!メガネやないかっ!すまんかったのぉ、ワシ、寝起き悪いねん。ガッハッハ。で、おまえ今、どこに居んねん?」
「メクロの屋敷です。」
「な、なんやて!」
 うるさい男だった。メガネは受話器を耳から離した。
「ホンマに、か?メクロやったんか?」
「はぁ、まぁ、多分そうだと思います。」
「思うってお前!まぁええわ。で、そこどこや?」
 メガネが田崎から聞いた住所を告げた。
「何や、そんなとこやったんか。よっしゃ、三時間でそっち行く。ちょっと待っとれよ!」
 ガチャッ・・・ツー、ツー、ツー
 まただった。彼はここに来て、一体どうするというのだ?建物のどの場所に、どういう状態でメガネ達がいるということを、一体どうやって知るのだ?そんなことよりも何よりも、何でこんな生物が世界公務員の支部を任されてんだ?
 
「ひぃやぁっ!」
 部屋を歩き回っていた田崎が悲鳴を上げた。
「どうした?」
「どうしたんっすか?田崎先輩?」
 メガネと吉田が田崎のもとへと急いだ。
 田崎が壁の前でコケている。

「またぁ、田崎先輩!それって先輩の十八番のバナナゴケじゃないですかぁ!びっくりさせないでくださいよぉ、はっはっは」
 田崎はガバッと立ち上がると、キョロキョロ辺りを見回した。
「あっれぇ~?おっかしいなぁ?」
「どうした?」
 メガネが尋ねた。
「今、確かに壁が飛び出てきたんです。」

「ひやぁっはっはっはっはっは!」
 田崎とメガネの体が、吉田の突然の豪笑にビクッと震えた。
「何がおかしいんだよ?」
「いんや、田崎先輩の起き上がったときのあの顔!口寄せから目が覚めたイタコみたいだったべ!」
 ・・・彼女達は本当にそんなおもしろい顔をしているのだろうか?

「あっ、俺、リンゴ食おうと思ってたんだ。」
 吉田が机まで戻り、果物籠から真っ赤なリンゴを取り出した。
「ほれ、田崎先輩!うまそうだ・・・へっ?」

 ドンッ!

 今度は田崎とメガネがバナナゴケした。
「な、なんだ?」
 メガネが叫んだ。
「ほら、今のっすよ!今の!」
 田崎はそう叫ぶと、同じように倒れているメガネを見た。メガネの顔をしばらく見ていた田崎が、プッと笑った。「メガネさんのあのこけ方・・・」そう言ってまたププッと笑った。

「・・・」
 メガネはのろのろと起き上がると、吉田のところへ行き、吉田の掴んでいるリンゴを奪い取ると、いろいろ調べ始めた。
「オ、オラ何もしてねぇだよ!ただスターキングデリシャスを食おうと・・・」

「これだな。」
「何ですか?」
 田崎もそこへやってきた。
「多分、こうすると・・・」
 メガネが果物籠にリンゴを戻し、もう一度持ち上げた。すると、さっきメガネ達の倒れた辺りの壁が、しかも足元付近だけが一瞬盛り上がったかと思うと、またすぐに元の状態に戻っていった。
「へぇぇぇ!こりゃおもしろい!」
 
「組み合わせの問題だな・・・」
 メガネが果物籠の果物を動かす度にその壁の上や下や真ん中が動く。メガネは何度か試していたが、やがて、「これか」そう言ってパイナップルの上にドリアンを乗せた・・・

 と―

 ガタッ!
 壁の一部が四角に飛び出し、今度は元に戻らなかった。まるで壁から生えたコンクリートのテーブルのようだ。その上には一冊の本が置かれている。
 三人が本の回りに集まった。
「それにしてもブッサイクだべぇっ!」
 吉田がその本の表紙を見て言った。
 たしかに・・・

 その本の表紙には、眠っている人間の顔が立体的に彫られており、手の込んだ装飾が為されていた。
 顔の色も、まるで本物のような色使いで気味が悪いくらいだ。その表紙の鬼気迫る芸術性は確かにすごい。が、いかんせん、モデルたるその人間の顔が、表紙の芸術性をゼロに、どころか、マイナスにまで下げている。
 それくらい醜い。

 モデルは、たぶん男。
 髭の剃り跡が青いから。しかし、顔に濃い化粧が施されている。唇はケバケバしいほど紅く、目元は不気味なほど華やかだ。もしかしたらモデルは女、かもしれない。どちらの性にせよ、その獅子鼻、顔に出来たブツブツの多さ、唇の厚さ、が人並みはずれている。顔色だけはいいから、見てるとなぜか腹が立ってくる。

「あぁ、これはキタナイな。」
 メガネが感心したように言った。
「ところでコレ、何なんでしょう?」
 田崎がメガネを見やった。
 
「本、だろ?ま、こんなとこに隠されてるとこみると、持って帰るべきだな。時間がない。おい、吉田。これを持て。」
 メガネが部下に命じた。
「いいっすよ。」
 吉田は本を持ち上げると、興味深そうに手の中でひっくり返した。
「こういう物が隠されてるってことは、この棟の上はおそらくさっきの棟よりも警戒が厳しいだろうな・・・」
 メガネは独り言のように呟き、しばらく考えていたが、やがて顔を上げて言った。
「よし、とりあえず俺が入ってきたとこまで戻って、そこからこの建物の外に出る。」
「メガネさんってどこから入ってきたんですか?」
 田崎が聞いた。吉田はまだ本をいじっている。
「お前たちと会ったとこだよ。」
「えぇぇぇ!あそこゴミ捨て場っすよ?」
「知ってるよ。あいつらもまさかゴミ捨て場から逃げるとは思ってないだろ。」
「臭いっすよ、あそこ!」
「知ってるよ!しょうがないだろ!」
 メガネはあの臭いを思ってうんざりした。
 
「あっひゃあ!!」
 ドン!
 メガネは叫ぶと本を床に落とした。
「おい、気をつけ・・・」
 メガネが注意しようとしたその時だった。

「いったぁ~い!もぉう!キー! あ~っ!ね、ちょっとこれ、『人間のくせにハラスメント』、略して、『ニンハメ』じゃない?ニ・ン・ハ・メェ!やっだぁ~、もう、信じらんなぁ~い!ポンポン、プンプン!」
本が、喋った。

 吉田、田崎、メガネの三人が本を見下ろした。その沈黙を本が破る。
「あのさ、あんた達!何ボケーっと見てんのよ!早くあたしを持ち上げなさいよ!ホント、タロイモみたいな顔揃えて!頭に殺虫剤溜まってんじゃないの!」
 本はハスキーボイスだった。

「おい、・・・。持ち上げてやれよ。」
 田崎が吉田に言った。
「いやだべ!オラ、絶対いやだべ!こんなモン触ったら伝染るべ!」
「お前、さっきまでそれ持ってただろうーが!」
「やだ、やだ、やだ!絶対やだべ!こいつ気持ち悪すぎるべ!」

「やだ~、ホント信じらんなぁ~い!レデーに対してぇ!あんたの方が百兆倍キモイって~のっ!なにさ、このイモ虫!ギョウ虫!牛糞臭いんだよ!ほらっ、しっ、しっ!さっさと農場帰れ!このクソコロガシ!」
 恐ろしく口が悪い。
「ちょ、ちょっと!分かりましたから!」
 メガネが本を拾うと、ゆっくりと机の上に立てた。
「あんた、分かってんじゃない。あのウンコ二つ、さっさと流しちゃいなさいよ。」
「まぁ、まぁ・・・、許してください。で、あの、お名前は?」
「人の名前聞く前に自分が名乗るっ!常識よ・・・」
 本がそっぽを向いて言った。拗ねてるらしいが、愛らしさはゼロだ。逆に、見る者に殺意さえ抱かせてくれる。


 プチッと何かが一本、メガネの頭の中で切れた。
「す、すいません。俺、メガネって言います。で、こいつらが田崎と吉田。俺たち、決して怪しい者じゃないです。たまたま道に迷ってこの部屋入ってきちゃったんです。」
「ふぅーん。あんたたち、バカそうだから信じるわ。」
 『プチッ』。また切れた。

「でもね、あんた達、ここから早く出て行かないとメクロにやられちゃうわよ。」
「あれ?あなたはメクロの味方じゃないんですか?」
「味方、ねぇ。まぁ一応、私、メクロの父母よ。正確には『だった』だけどね。」
「ええええええ!」
「でも、あの子もグレちゃってさぁ・・・。ほんと、いつまでも愛されてるって思っちゃったりしちゃってるのかしら、あのガキ・・・。」
「ひ、ひどい親だべ。」
 吉田が囁くように言った。

「・・・あの、今、『父母』って?」
「そうよ。父母。父であり、母であり・・・」
「はぁ?」
「『ギメガ』よ。・・・あら?あなた達、もしかして『ギメガ』のことも知らないのぉ?まぁ、やだっ!今どき・・・ほぉっほほほ、ほぉっほほほ!ほぉっほほほ!やっぱりぃ~、ウマとシィカァって予感?ほっほっほっほっほ」

 本当に嫌なヤツだ・・・。
 その時だった。
 ドガドガドガドガ!
 廊下から足音が聞こえてきた。
「やばいっ、追っ手が来た!」
 メガネは左右に目をやった。感動的なほど何もない。

「そうだ!」
 メガネがまた果物籠からいくつかの果物を取り出し、幾つか組み合わせを変えては籠に収めていくことを繰り返していた。
「確かにこれであの壁が開いたと思ったんだけどなぁ・・・」
 ブツブツ独り言を言っている。
「おい、ここは調べたのか?」
 廊下から声が聞こえる。
「いえ、まだです。」
「よし。第二隊は先に行け。俺とお前らはこの部屋の捜索にあたる。」
 テキパキと指示を出す声にはやる気が満ち溢れている。

『あぁ~!来る、来るぅ!』
 吉田が囁き叫んだ。
「ん?おい、鍵がかかってるぞ。誰かこの部屋の鍵を持ってないか?」
 テキパキ男が言った。
(鍵掛けといて良かった!)メガネの額に汗の玉が浮かんだ。
「ちょっとぉ!その汚い汗、私に落とさないでよ!」
 本が言った。

 『ぷちっ』(集中!集中するんだ!集中!)殺意を集中力に昇華させてメガネは手元に全神経を集めていた。
 カチャッ!
 とうとうメガネは成功した。本の出てきた壁のちょうど九十度横の壁に、ぽっかりと四角い穴が開いた。その時・・・

 ガチャッ!

 部屋のドアが開かれ、まさに『テキパキ』といった感じの男を先頭にした一団がなだれ込んできた。
「こ、こやつらをひっとらえろぉ!」
 テキパキが叫んだ。
「穴に飛び込め!」
 メガネは叫ぶと、本を掴んで壁に向かって走った。
 ま、きっとあれだ。どうせゴミ捨て口に違いない・・・。
 メガネの第六感が悲しそうに呟いた。

 吉田はその穴から頭を差し込んで下を覗いてみた。真っ暗で何も見えない。頭を戻した吉田の顔色が悪い。
「あの、オラ、高所恐怖症だがらとてもこんな高いトコさあぁぁぁぁぁぁ・・・」
 田崎が、吉田を穴から落とした。
「じゃ、メガネさん、俺、先に行きます。」
 言ったときには田崎の体はもう穴に消えていた。

 メガネはバナナを取ると、そのボタンの一つを押した。

  ピィーッ ピィーッ ピィーッ

 恐ろしい音が部屋中に鳴り響いた。いや、実際には音自体は小さなものだったが、興奮した追っ手達の耳には鋭く突き刺さり、その動きを止めるには十分だった。

「動くな!」
 メガネが言った。皆、固まった。
「これは爆弾だ。ここにこれを、こう刺してっと・・・。」
 メガネはバナナをマンゴーとキウイの間に突き刺した。

「これが倒れると爆発する!この建物ごとだ。その人数で動き回ると危ないぞぉ。」
 言い終えたメガネは穴に走ると、頭からそこに飛び込んだ。

 ゴクッ!

 テキパキ男が生唾を飲み込んだ。
「みんな、動くなよ!」
 テキパキ男がすり足でテーブルの所まで行き、その傍で深呼吸を一つした。
「ハアァァァッ!」
 気合とともに彼は驚くべきスピードをもってして正確にバナナだけを取り出した!マンゴーもキウイもピクリとも動かない。
「おおおおぉぉぉ!レンタン様ぁ!すげぇ!」
 一団に驚きと賞賛の叫びが起こった。

 (ふっ・・・。こいつら・・・)テキパキ男がバナナをゆっくりとテーブルの上に置いた。すると、バナナから、
 ピィーッ ピッ ピィーッ ピッ ピィーッ ピッ
バナナの警戒音が消えない!消えないどころか、より危険そうな音がしている!
「あのぉ~、レンタン様。それって、あの、電話じゃ・・・」
 一団の一人がおずおずと言った瞬間、
「ぐぇっ!」
 テキパキ男の目にも留まらぬ地獄突きがそのオセッカイさんにクリーンヒットし、オセッカイさんは白目を剥いて床に倒れた。

 メガネ達が飛び込んでいった壁の穴は、テキパキ男がバナナを取った瞬間、閉じた。閉じた原因は、どうも果物籠の中のバナナを取ったせい。いわば、メガネにまんまとはめられた、ということは皆分かった。かといって今からこの果物達をどうかして、あの壁の穴をもう一度空けよう、という気持ちにはならなかった。だって、難しそうだし・・・。

そこで、彼らはこの部屋に入ってからの数分を、『無かったこと』にすることにした。いや、誰が言い出したのでもない。それは一種のテレパシーだ。『一生のうちの数分を失くしたからといって、一体どうだというんだい?』テキパキ男の顔が皆を見回した。そして彼らは黙って部屋から廊下に出た。
 もちろん、オセッカイさんも、その部屋から出され、まるでうたた寝をしているような自然な格好で廊下に寝かせられている。・・・じゃ、こっからでいいかな、みんな?
「くそおー、あいつらどこいったんだろうなあ」
テキパキ男が叫び、皆がその背を追い、・・・走り去っていった。

「ぎゃあぁぁぁぁぁ~」
 メガネがギメガを抱えて穴から身を投げだした瞬間に彼(彼女?)の立てた悲鳴だ。彼女(彼?)の顔がさらに歪み、もうこの世の人の顔ではない。
 落下する感覚。真っ暗なので、壁は見えない。運良く壁には一度もぶつからずに下まで落ちることができた。しかも、下に着いた瞬間、ぐにゅっとした感覚がメガネの背中全体に伝わった。コンクリートの床に嫌というほど体をぶつけるのを覚悟していたメガネにとって、これは意外だった。
「あぐぅっ!」
 メガネの背中にあるやわらかい物体が悲鳴を上げた。田崎と吉田だった。

「あぁ、すまん、すまん。」
 メガネは立ち上がると、周りを見回した。真っ暗で何も見えないが、声が反響するところをみると、どうやら小さな部屋に居るらしかった。
「あー、踏まれてる、踏まれてる。いま私、踏まれてるぅ・・・」
 地底から這い上がってきた何かのような、暗い声が聞こえた。
「はあ~あ。まぁ、だうせあたし、ただの本だすぃ、紙だすぃ、そりゃぁ踏まれても痛くも痒くもなさそーに見えるんだろーけどぉ~・・・。」
 メガネの足の下だった。
「あ、す、すいません!」
 メガネは急いで足をどかすと、ギメガを拾い上げた。
「・・・いい度胸してるわね、あんた。死ぬ?」
 ギメガが、瞬きしない目でメガネをまっすぐに見ながら、ド太い低音でささやいた。

「うぐぇっ!」
田崎と吉田はその時にようやくその臭いに気付いたようだった。
 二人が吐かなかったのは奇跡だった。
そこに漂っていた臭い・・・メガネがほんの数時間前に嗅いでいた臭い・・・腐った卵、そこにドリアンを混ぜ合わせ、三ヶ月前の牛乳うんこを加えたような臭い・・・。
 あのゴミの海の臭いだ。(・・・ということは、あの場所ともつながっているはず)メガネはちょっとホッとした。

「くっさぁ~いっ!何なのよ、これ、ゲロ?テロ?」
 ギメガがいまさら悲鳴を上げた。
「とにかくここから出よう。」
「で、出るって、どこさ行けばいいだか。暗くて何にも見えねぇべ。」
「壁を伝って歩くんだ。」
 メガネはそう言うとそろりそろりと歩き出した。
「ちょ、ちょっと待っでぐれ、メガネさん!オラも連れてってくんなきゃあ!」
「お、おいっ、吉田!これは俺だ、俺!あっ、そ、そこは俺の・・・」
「おい、田崎!そんなにくっ付かれると動けないだろーが!もっと離れろ!」
「そんなこと言っても、メガネさん・・・」

 三人は連れ立って暗闇の中をそろりそろりと歩いた。やがて、カツンッと音がした。メガネの指の爪がドアに当たった音だった。
「よし、ドアがあったぞ。」
 メガネがドアのノブを捻った。扉が開き、明かりがドッと流れ込んできた。
「うわぁ!まっぶしいべぇ!」
 三人(と一冊)はようやく光の下へと出ることは出たのだが・・・
「うわっ!な、なんだ、このゴミの山はぁ!?」
そこはかなり幅のある廊下だったのだが、その廊下一面に、おびただしい量のゴミが少しの隙間もなく床を埋め尽くしている。
「さ、行くぞ。」
 ギメガを抱えたメガネがさっさと歩き出した。
「メガネさんゴミっすね!」
 田崎が嬉しそうに言った。
 ・・・『メガネさんのやって来たゴミ場に行けますね』だろ、田崎。

「あの、ほんとにこの方向でいいんだべか?」
 吉田がまた聞いてきた。
「いいんだってば!うっさいなぁ。」
 メガネが言った。
「でも、メガネさん。俺たち、地下からさらに地下に落ちたわけだから、上に上がらなけりゃいけないんじゃないんですか?」
 田崎が吉田よりはだいぶましなことを聞いてきた。
「うん、その通りだ。ま、上を見てみなよ。」
 田崎と吉田が上を向いた。送電線が幾つか見えるだけの、何の変哲もない天井だった。
「天井がどうかしたんだべか?」
「うん。天井から何かぶら下がってるだろ?あれは何だ?」
「・・・電線でしょう?」
「その通り。じゃあ、電線は何のためにある?」
「・・・。」
 田崎は真剣に考えていた。あれは・・・何のためにあるのだろう?

「・・・本気か?」
 メガネが信じられない目つきで二人を見た。
「ちょ、ちょっとメガネさん。俺は見ないでくださいよぉ!はははっ。田崎先輩と一緒にしてもらっても困るっすよ。ほーんと、大の大人が、やめて欲しいっすよ・・・。」
 吉田が威張っている。その根拠は何だ?電線が何のためにあるかを知っているからなのか?
「じゃあ、お前、言ってみろよ!電線は何のためにあんだよ!」
 田崎が聞いた。
「あれはねぇ、暖房だべよ、田崎さん!」
「は?」
「まぁ、最近は光だの、コードレスだの色々ありますけど、あれ、基本は暖房なんっす。」
「・・・」

 田崎は叫びたかった。『吉田は間違っている!』と言いたかった。しかし、あまりにも自信に満ち溢れた吉田のその態度にはどこか田崎を寄せ付けない、真実の威厳のようなものがあった。
「・・・暖房で、いい。」
「えぇ?本当っすか?電線って暖房だったんっすか?」
 田崎が叫んだ。・・・もう何を言ってるのかすら分からない。

「もういいよ、どうでも。」
 ほんとだ。メガネが言葉を続ける。
「それで、電線には基本的に二つの方向しかないわけだ。電気が送られてくる方と送る方と。ということは、送電線の側、いわば、外からこの建物に電気を提供してくれる側さえ分かったら外に出れるだろ?」
「なるほど!さすがメガネさん!」
 田崎が言った。

「でも、どうやってそれを見分けるんです?まったく同じように見えるんですけど。」
「そう。そこは電気会社でも注意が必要なわけだ。逆にしてしまったら流れる電気も流れなくなるからな。だから電気屋さんは電線の送電側、いわば外に出られる方の側には普通、シールなんかを貼ってんだよ。ここの場合は、・・・ほら、あれ。赤いテープが一方の端に巻いてあるだろ?ということはその方向が外。」
「ま、まじっすか!?何かすげーいいこと聞いたなぁ。なぁ?吉田。」
「俺、かんどーっす。マジ、すげーっす!」

[蛇足だが、彼らは後日、電線を見るたびにそれを思い出しては、誰かに教えて自慢していた。ところがある日、『そんなわけないぢゃん。ばかぢゃん』と、夏のビーチで言われる・・・。]

 地下の地下。三人(と一冊)がようやく棟の変わり目にやってきたことを、壁の色の違いが教えてくれた。しばらく歩いているとやがて、メガネ達は三叉路の道に出た。まっすぐ行くと行き止まりで、そこにはドアがあった。しかし、メガネはそのドアには向かわず、右手に曲がった、いや曲がろうとしたそのときだった。

『止まれ!』
 メガネが低く、しかし鋭く言った。後ろの二人がビクッと止まった。
『脅かさないでくださいよ、メガネさん!どうしたんっすか?』
 田崎がメガネに聞いた。
『向こうから何人か来る・・・』
『えぇ~!に、逃げなきゃ!』
 吉田はもう、体の体勢を変えている。
『いや、一本道を戻ってる暇はない・・・』
 メガネは小さく言うと、一瞬考え込むと、二人に言った。
『ちょっとここで待ってろ。』

 メガネは一人、突き当たりにあるドアまで体勢を低くして小走りに進むと、そのドアの取っ手を廻してみた。鍵はかかっていない。ドアが開いた。メガネはするりとその部屋の内部に入っていった。二分ほど経ち、メガネが出てきた。そして田崎達の所へと急いで戻って来ると早口で言った。
「あの部屋の天井から上に出られそうだ。あそこから行こう。近道になる。」
 それからメガネは、「ちょっとこれ持って、あの部屋に行っててくれ」と、ギメガを吉田に手渡しながら言うと、ゴミの中にしゃがみこんで何か熱心に探し始めた。
「あの・・・、なに探してるんっすか?」
 吉田が聞いた。
「うん、・・・武器。早く先行けって。」

 そこは狭い部屋だった。六畳ほどの広さの部屋に壊れかけた古い棚や机などが雑然と置かれている。いかにも人に使われてなさそうなその部屋にもちゃんと電灯が点いているのが不思議といえば不思議であった。
 田崎達がその部屋の中でやきもきしながら待っているところへようやくメガネが走り戻ってきた。
「急いで作ろう。奴ら、もうすぐそこだ。」
 メガネが取り出したのは、電化製品用の配線の束、そして汚い布切れ、などなどだ。
「それが、武器っすか?」
「うん、まぁ、そんなとこだ。」
 メガネはそう言うと幾つかの配線の両端のゴムを手早く剥き、それらを結び合わせて三メートルほどの長さの線を作った。そして、布切れを手早く両手に巻きつけて即席の手袋を作ると、それをしたまま配線を掴んで吉田に手渡しながら「ちょっとこれ持って、俺が合図したら渡してくれ」と言った。

そして、今度は田崎の腕を掴んで、「ここに来い」と部屋に幾つかある電灯の下に彼を連れて行き、「俺をおぶってくれ」と頼んだ。「はぁ・・・」田崎は気乗りのしない返事をしたが、それでもしぶしぶといった感じで腰を低めた。メガネは田崎によじ登ると、田崎は頼りなさそうにフラフラと立ち上がった。
「もちょっと右、右。ちがう、そこは左だよ!お箸持つ手だよ!あ!もう少しだけ左!よし、ここっ!そのまま。ちょっと動くなよ。おい、吉田。ちょっとこれ持ってて。それからさっきのヤツちょうだい。」
 メガネは電球を二つはずすと吉田に手渡し、さきほどの延長させた配線に布を巻きつけたままの手を差し出した。

「は、はぁ。」
 吉田が電球を受け取り、配線を渡そうとしたとき・・・
「あちぃっ!」
 吉田が叫んだ。
 吉田の手から落ちた電球が床に落ち、二つとも、パリンと割れてしまった。
「・・・あ、そうだ。電球熱いから。」
 メガネが言った。
「遅いっすよ!」
「ちょっとそこら辺から布でも拾ってそれで受けてくれ。おい、田崎、吉田が電球壊しちゃったからちょっと移動。あっちの電球とるぞ。」
「は、ひゃいぃ。」
 田崎の膝が爆笑している。

 メガネは移動先で同じように電球を外すと、今度はちゃんと両手を布で巻いた吉田に次々とそれらを渡していった。
 最後に延長配線の端を電球を抜いた後の窪みのどこかに取り付け終わると、ようやく田崎に言った。
「よし。下ろしてくれ。」
「くぅうう!ぷはぁ!」
 田崎はメガネを下ろすとそのまま床に転がった。
「ちょっとそれ持ってこっち来て。落とすなよ。」
 メガネが配線を伸ばしながら、四本の電球を手に持っている吉田に言った。
「あの、メガネさん・・・」
 吉田が電球を落とさないよう慎重に歩きながら言った。
「なんだ?」
「・・・ここで問題です。あなたのご出身地の電灯(伝統)は?」
「うるさい!早く来い。」
 メガネがさっきの配線のもう一方の端を、今度はドアのノブに括り付けた。
「これでいい・・・と。」

 次に、ボロボロのズボンを拾ってくると、その両足部分の端を縛った。足部分を縛ると、ズボンはまるで変わった形の袋のようになる。その袋状のズボンの片足部分にそれぞれ二本ずつ細長い電球を入れると、メガネがズボンの上からいきなりそれを蹴った。ポシュッという音がして電球は四本ともあっという間に砕けてしまった。そして、五十センチほどの長さのビニールの紐でズボンの腰部分をキュッと縛り、そこを下にしてズボンを持つと、今度は吉田の肩に乗ってドアの上にそれを取り付けた。そして、そのズボンの腰部分から出ている余分な紐をドアのノブに、さっきの電線と一緒に縛りつけた。これらの作業を大急ぎで片付けると、メガネは手袋を外して床に捨てた。
「今度は俺たちの番だ。天井裏に上がる。棚と机をここに運び出すぞ。」
 三人は黙々と働いた。やがて、なんとか屋根まで上れるほどに家具を積み上げると、一人ずつ上り始め、一番最後に屋根に到着したメガネが積み上がった家具を蹴り倒すと、恐ろしい音がして家具は倒れていった。

 一方、メガネ達が苦心惨憺している部屋の外。
 ちょうどその部屋の前を悠々と通り過ぎ、廊下の先を急いでいた見回りの一行は、ドガーン!という恐ろしい物音を聞いて皆一斉に後ろを振り返った。「あの部屋からだ!」という声と共に、廊下の先にある部屋へと走った。そして、先頭の男が取っ手に触れた瞬間、ジリッと火花が散った。「ヒィヤァッ!」男が大げさな身振りで床に倒れた。その後、三人が取っ手を捻ろうと挑戦し、電気ショックにあえなく撃沈した。そして、彼らはようやく道具を使ってそのドアを開けることを思いついた。
 サルからヒトへの大きな一歩である。

 ドン!
 下から豪快な音がして天井全体が揺さぶられた。
 小柄な三人が立って歩けるほど天井裏(そこまで広いともう天井裏という感じでもなかったが)は広く、音がしたのは、三人がその広い天井裏を並んで歩き始めて間もなくのことだった。

「メガネさん、あれなんだべ?」
 吉田が聞いた。
「あぁ、爆発したんだよ。あいつらようやく部屋の中に入れたのか。えらく遅かったな。さては仕組みがばれて空爆発させられたかな?」
 メガネの心配がまったくの杞憂であったことは言うまでもない。あの爆発で、一団はお星様の群れとなった。その群れの隣にいる星達こそいい迷惑だったろうが・・・。
「爆発?」
 田崎の声が吊り上った。
「そう、爆発。あのな、電球の中に入ってるガスっていうのは案外強力なヤツで、よく燃えるんだ。で、あのズボンの中はそのガスで一杯な上、ガラスの破片が入ってる。あいつらがドアを開けようとしてノブに触るとまず電気でしびれる。でも電灯を点けるような電気はそんなに強くはない。でもあいつらビビッてあのドアを荒々しく開けようとするだろ?蹴ったりしてね。そうするとあのズボンの中身が揺すぶられてさらにガスを出す。で、あいつらがドアを開けた瞬間、ズボンの口を結んでいる紐が引っ張られて結び目がほどける。結び目がほどかれるとズボンの口が開いて破片と一緒にガスが落ちてくる。ガラスの破片っていうのは電気を帯びた金属、この場合はドアの取っ手だ、とぶつかると火花を散らすんだ。火花はガスに引火して・・・な?それで爆発したのさ。」
 田崎、吉田は一言もない。

「すっげぇ~!」
「すごいべ!メガネさん、すごいべぇ!なしてそんな詳しいですか?」
 二人の言葉にメガネが本気で照れている。

「うーん。実は俺もなぜだか知らないんだよ。俺、そもそも自分が誰なのかさえ知らんし・・・」
 田崎と吉田がお互い、ちょっと気まずそうに顔を見合わせたが、当のメガネは一向に気にしてないらしかった。
「あ!」
 田崎は突然叫ぶと、さっき上ってきた屋根裏の入り口へと、猛然とダッシュで戻って行った。そしてその懐に何かを大事そうに抱え、小走りで彼は帰ってきた。
「どうし・・・」
 メガネが言いかけてハッと息を飲んだ。田崎の懐からギメガの目だけが見える。血走ったその目はカッと見開かれ、置き去りにされた憎悪に燃えて三人を睨みつけていた。

(第十一話に続く) 

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