― 第三十九話 ファーストキス ―

 帰りの電車はいつも通り、人であふれていた。
 人込みのなかを僕は、なんとか窓際付近の座席前にたどり着いた。
 当然、座れるわけはなく、それでも扉付近の前後左右、生暖かい人肉で囲まれる不愉快よりは何倍もましだった。

 電車が動いてから僕は、僕の目の前の座席に座っているカップルに気が付いた。
 男の方の年齢は60歳といったところか。僕は上から眺めていたので彼の白髪だらけの、そして隙間だらけの頭髪が目に付いた。細長い、馬のような顔をしており、その馬面から高い鼻梁がニョッキり伸びている。
 女は男よりやや若い。若いといっても、皮膚は、髪は、すっかり乾ききっており、少し縮れた髪にはよじれた白髪がかなり混ざっている。何を考えているのか、焦点の合わない目をしている。
 で、この、初老の二人が顔をくっつけ合い、手を握り合って座っているのである。男は何かをさかんに、女の耳に唇をくっつけてささやいており、女はその度に男の顔に顔をすり寄せている。

 いかなる美もない光景。
 道にぶちまけられている誰かのゲロをずっと眺めていなければいけない、という罰に近い光景。
 
 駅ごとに人が入れ替わる。入れ替わるごとに二人の近くに来た人々は一様に、二人の姿を見てギョッとする。
 大きな駅を通過するたび、車内の人込みはおさまっていった。それでも座れるほどではなく、僕は相変わらず、二人の前に立ったままでいるしかなかった。

 さらに数駅が過ぎた。

 一人の老人が乗り合わせた。
 腰の曲がった、80歳くらいの老人で、人々の間をフラフラと通り抜け、僕の横にたどり着いた。
 すぐに電車が出発した。
 老人は電車の揺れに合わせてフラフラと体を揺らし、必死に手すりにつかまっている。そしてその手すりのすぐ先にはあの二人が顔を寄せ合っていた。
 二人の景色は背の低い老人からすると、すぐ目の前である。
 老人もまた、その二人にすぐ気づいた。
 二人に気づいた人々は皆一様に、すぐに目を逸らしたものだった。しかし、老人はじっと彼らの嬌態を眺めている。
 また数駅が過ぎ、ようやく僕も、ほかの場所に移動できるほど空いてきていた。さて、移動しようかと思ったその瞬間であった。老人が二人に向かって「きたねぇなぁ」とつぶやいたのである。
 そのつぶやきは周囲に十分聞こえるほど大きかった。
 それを聞いた瞬間、カップルの男の方がキッと老人をにらみつけた。
 男の顔色がみるみる青ざめていった。
 僕のすぐ目の前でのことであり、暴力沙汰にでもなったら嫌だな、と僕は思っていた。
 聞こえないふりでもしているつもりなのか、女はまだ男の肩に顔をうずめたままでいる。白痴のようなその顔から察するに、もしかしたら本当にその事態に気づいてなかったかも知れない。その女の横で男が老人を睨みつけながら言った。
「な、なにが悪いっ!僕たちは、ま、まだキスもしてないんだっ!」

 これこそ、インテリである。
 あなた達もスマホばかりせず、彼らを見倣いなさい。

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