夏目漱石「思い出すことなど」私「冷凍保存感情解凍装置:鼻と耳」

私がnoteを開くときは
ずっとボヤ〜と持ってた感覚に名前がついた時が多い。そういう発見は、友達との会話で気づいたり、本の中とか、映画とか、何かと関わってる時に発見する。

私はずっと、なんとなく自分は死なない気がしていた。
こうやって太字にすると厨二病感すごいんだけど、なんかずっと今が連続して一生続いていくんだろうな〜って感覚。
終末になっても、最後まで生き残って、この世の終わりを観れるのは自分であるような感覚。
これは決して、私がサバイバル能力があるからとか、生命力に自信があるから、ではない。実際に死のウイルスが蔓延したら私は真っ先にかかるだろうし、ゾンビと戦う勇気もない。

でもなんか、自分は死なない気がずっとしていた。子供の頃に「死」というものがあるらしい、と知った時も、自分の終わりではなく、母が死ぬことを考えて泣いてた。


自分の死に現実感がない。
これは、自分の過去にもあまり興味がない、というかすぐ忘れてしまうことにも関係してると思う。

小中高の友達に会って昔話をしている時、友達の言う「どこどこ行った時さ〜」に私だけ反応できないことが結構ある。
私以外がポンポン出すエピソードたちにも、全くピンとこない。
騙されているのか、と思っていた時期もあったけど、他人の方がよっぽど信用できる。

私は私の記憶を信用していない。
過去と今が連続している感じがないから死もない気がする。



過去を振り返ることなんて滅多にしないから、同じ過ちをなん度も繰り返すし、同じ話同じ質問を、同じ人にしてしまうこともある。そう言う時はちゃんとちょっと自分でも怖いしやばいな、と思っている。


これは良いところもあって、同じ話で何度でも笑える、と言うこともある。ラジオの同じエピソードを何度も聞く人たちって、私みたいなすぐ忘れる人なんだと思う。
同じ経験を何度も何度も繰り返すことで、やっと記憶にこびりつかせることができる。


私は外国が好きなのだが、旅行は苦手だ。住みたい。せめて一週間は同じところにいて、電車のダイヤとか、どういう人がどういう生活をしているのかとか、夕方の景色のパターン、みたいのが見えてくるまではそこにいたい。

一つの記憶を大事に大事にする、ということができないから「一生に一度は見たい絶景」も一度じゃ絶景も忘れちゃうでしょ!!という感じがあっていけない。その最高らしい景色を何度も何度も繰り返し見ないと、長期記憶に移行しないでしょう!!?と思う。

長年の夢が叶った!と言う人がいるが、私にとってそれは生活の延長にあるもので、死ぬ間際に「叶ってたかも、しれません、よくわかんないです。」ってコメントできる程度のものだと思う。夢みたいなある瞬間で叶うもの、みたいな短い時間のものに憧れを持てない。憧れの生活、とか、憧れの職業、とかははあるけど。うーん。

ここまで書いてて、私は覚える努力や、一瞬の最高に感謝して心に留めておく努力しようとしない、ただの贅沢なやつにも見えてくる、かもしれない。私だって、最高の瞬間は、思い出として冷凍保存できると思っていた。でもそれは無理だ。できると思ってる人は、自分に嘘をついている。わたしは、わたしのこの感覚っていうか、この記憶に対する向き合い方を結構肯定的に見てる。



高校の現代文の演習問題で夏目漱石の「思い出すことなど」という小説風エッセイみたいな文章を読んだ。

一度読んだだけだから記憶を頼りに書くが、病気になった漱石が、看護婦さんに優しくされてすごく心が温かくなった時の話だった気がする。漱石が言いたかったのは、
その時のエピソードや感情はこうやって記述することはできるけど、「思い出」として仕舞ってしまったら、それはもう一生追体験はできないが、思い出以外にしまっておく方法がない。っていう話だった。

当時の私は、「この感情、素敵すぎる、ずっとずっと保存したい!」と思う夏目漱石の気持ちが痛いほどわかった。そして、記憶として思い出すものだとなんか違う、、、という感覚も同じように持っていた。最高だった記憶のメモリーを反復して思い出しても、それはエピソードとして流れる映像で、あの時の体の中で起こった動きは、再体験されない。同じもので同じ感情を追体験することなんて無理!と言う話だった。

問題を解かないといけなかったけど、自分と同じように思ってる人いる衝撃、しかも、思い出の中に「体の中で起こったあの動き」は書かれることはないから、「思い出そう」ってやってる時点で、もうすでに追体験はできませんという説明に「うわ〜絶望」となってしまった。

私が欲しい体内の動きは、久しぶりに嗅ぐ消毒液の中に隠されていて、自分で記憶として開くのではなく、別の感覚が偶発的に開いてくれるもの。だから、思い出として反復することで返ってその動きの感覚は薄くなってしまう。「思い出すことなど」してたら本当に思い出したいものが、思い出せなくなってしまうんだ。

漱石の考えていることが、手に取るようにわかった。引用っぽく書いてるけどこんな風にはどこにも書いてません。私はこういう風に受け取ったってだけ。他人の考えが分かるなんて烏滸がましいし自分の勝手な解釈かもしれない。でもこの時、高校生の私と漱石は、めちゃくちゃ繋がった。


私は、初めて何か触れた時のぐあ!って一瞬で沸き立った爆発的感情!!!みたいなのをすーーーごく大事にしている。(こういう時に自分の語彙力の乏しさにうんざりする。誰か教えてください)
天気の子という映画が大好きなのだが、あれは初回の興奮や胸の痛さがしょぼめに上書きされるのが怖すぎるから、映画館で一度みた以来見ていない。

でも、曇天の空を見るたびに思い出す。
夏休みが始まる日、終業式帰り、分厚い灰色の空、どんよりした空気のせいで肌に張り付く制服の嫌な感じ、最悪の景色だった街並み。

全部最低だったのに、映画の後、同じ景色が清々しく見えたこと。ひなと帆高が一緒にいれる、空の色だ!ってもう一回泣きそうになったこと。

あの時の感覚は、やっぱりそのまま思い出すことはできないけれど
最高の体験をしてた、っていう事実確認だけはできる。


「思い出すことなど」と「天気の子」
超大事な作品。



本当はこれを踏まえて書きたかったことがあったのに!

すごく不安なことを書きながらまとめようと思ったけど、それを書く前に昔見た良い文章と映画のことを書いてたら落ち着いた


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