文化資本がない人ほどチャイコフスキーを好む
執筆者:三郎
煽るようなタイトルですが、今回の記事は読書案内です。(私はチャイコ好きですよ)
これから紹介するのはピエール・ブルデュー著「ディスタンクシオン」という本です。
ブルデューはフランスの社会学者ですが、ざっくりどんな本かというと、
「どんな音楽を好むかといった個人の趣味は主体的な個性の発露ではなく、個人の意志とは無関係な構造によってある程度規定されちゃってますよ」
というお話です。
なんか嫌な感じですね。実際当時のブルデューは一部インテリ層から結構嫌われていたらしいですよ。
私たちは不自由に趣味を選択している
さて突然ですが、この図を見てください。
なんともわかりづらい図ですが、これは人の持つ資本量の多寡によって選び取られる趣味の種類に傾向が見いだされることを示しています。
より詳細にこの図の見取り方を説明しますね。
ここでいう資本とは2つの種類に分けられます。
1つは「経済資本」で、もう一つは「文化資本」です。
1つ目の「経済資本」は資本と聞いて一般に想起される金銭的価値を持つ資本のことです。
もう一つの「文化資本」ですが、ざっくりいえば家庭や学校で培われてきた「教養」や「素養」というとわかりやすいかもしれません。(詳細はググってください)
この図において縦軸は、2つの資本を合計したその総量を表しています。
上に行けば行くほど多くの資本をもった人が好む趣味がプロットされています。
では横軸はというと、その人の持つ資本総量における文化資本の割合が表現されています。
左に行くほど文化資本の割合が多い人が好む趣味がプロットされます。
以上を踏まえてこの図全体を見渡すと、例えば右上のあたりは資本総量は多いのに文化資本をあまり持たない「成金」的な人たちが好む、「外車」「シャンパン」といった趣味が表れています。
資本の多寡で好きな作曲家が変わる
そしてよく見るとこの図には作曲家の名前もプロットされていますね。
「ストラヴィンスキー」や「ラヴェル」は文化資本割合の多い最も左側に位置しているのに対し、「チャイコフススキー」や「ビゼー」は右寄り、つまり文化資本があまりない人が好む音楽と言えます。
ちなみにこの図においては「バッハ」が最も上流に位置しており、最も卓越した(正統的な)音楽として表現されています。
確かに、私は大学からオーケストラに触れたのでクラシック音楽の素養(文化資本)はあまり多く持たないし裕福な家庭というわけでもなかったので、バッハはそんなに好まずストラヴィンスキーよりはチャイコフスキーが好きというのはかなり当てはまっているように思います。
ブルデューはこう述べます。
この観点から社会を見ると
ここまでの話は、「個人の側」から見た時の趣味の話でした。
ブルデューは「社会の側」から見た時の趣味の構造についても言及しています。
言い換えると、何かを「いいな」と思うことは、必ず他の何かを否定することでもあるとブルデューは言うのです。
例えばラヴェルを好む人はチャイコフスキーを嫌うと言ったように、必ず否定がセットになります。
「いや、私はラヴェルもチャイコフスキーも聴く」という人でも、流行りのJPOPを好まなかったりデスメタルは苦手というケースはありうると思います。
そのようにして何かを否定することで自分自身のアイデンティティを肯定したい、もしくは下流の趣味と比較することで自分自身の正統性(上流に位置すること)を肯定したい、といった力学が社会の中で働いていることをブルデューは指摘します。
関連本の紹介
ここからさらに議論は展開されていくのですが、続きが気になる方はぜひ原著をあたってみてください。
ただ、本書が出版されたのは1979年のフランスなので現代日本で暮らす私たちにとっては少し感覚的に理解しづらい点も多くありました。
(ちなみに文化資本が少ないとチャイコ好きになるという傾向も当時のフランスにおいての話です)
より詳しく知りたいという方は、日本版ディスタンクシオンともいえる、趣味の社会学(片岡 栄美著)もおすすめです。
あと、原著は鈍器みたいな厚さで上下巻に分かれているので(あと高い)、ブルデュー『ディスタンクシオン』講義(石井 洋二郎著)も軽く読めていいかなと思います
それでは。
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