「そんなこと」ってどんなこと? 〜泥流地帯考察〜

 正編のラスト間際、「煙」の章の第四節にこんなやりとりがあります。市三郎と良子の亡骸と過ごすカジカの沢の夜。

「そんなこと、考えたって仕様がねえ」

 沢の青年たちと話し込んでいた修平の声に
「仕様がねえかなあ」
 と妻のソメノがしょんぼり答えます。

 実はこのやりとり、以前からずっと気になっていました。「仕様がない」とは何のことだろう。「そんなこと」って何のことだろう、と。
 福子の寂しいほほえみ、けたたましく笑う節子、武井の気持ち悪いふるまいなど、他にも私の心に引っかかった小さな疑問は、ひとつひとつ考察し、勝手に、自分なりに腹落ちさせてきましたがこのことは随分長いこと引っかかり続けました。
 この場面、登場人物たちの心理をくみ取れるかどうかは、続編を含む物語の全貌と史実としての上富良野の復興を知っているか否かが大きく影響するのかもしれません。

 私の場合は読者として、また復興の歴史や現在の上富良野を知りうるものとして罹災直後の沢の住民たちを俯瞰できますので、つい奇跡の復興劇の通過点として、「ここからV字回復だぜ」という気持ちで読んでしまい、登場人物の心境に理解が及んでいないような気がします。

 よく考えれば当たり前のことですが、この時の修平たちにしてみれば、多くの仲間が命を落としただけではなく三十年かけて築いてきた生活基盤が根こそぎ奪い取られているのですよね。
 カジカの沢は流されなかったとしても、コミュニティの主軸であった集落が全壊しているのですから、インフラも含めて自分たちがこれからも暮らしを維持できるのか。そもそも正確な情報も得られていませんし未来どころか現状がどうなっているのかさえ不明瞭な状態です。映画でいえば終末世界に取り残された主人公のような状況。

 罹災を免れた修平一家とて不安はいかばかりか。市街まで一里半、泥土と流木で隔絶されたカジカの沢で、しかも石村本家は教員である耕作を残し全滅(この時点で拓一は生還していません)しています。

 もし日進の沢以北が上富良野村に放棄されたら…いくら被災しなかったカジカの沢で農業を続けても交通が遮断されていたら…そもそも上富良野村自体が崩壊したら…教員とはいえまだ若い耕作と健康に不安(当時)のある佐枝の暮らしはどう支えるべきか…貞吾に跡継ぎさせず別の道を考えさせないとならんのか…ただでさえ遅れている加奈江の嫁入り(ちなみに加奈江の年齢には言及されていませんが貞吾が耕作の一歳下、さらに耕作らと同学年ではなさそうと考えると少なくとも嫁入りした気配のない罹災当時、二十歳は過ぎています【追記:うそうそ、すみません!次の記事で触れますがよく考ええたら加奈江は耕作と同級の19歳でした多分】)どうするべ…(あ、ちなみにお気づきでしょうか。拓一の復興を手伝うなど最後まで登場し続ける貞吾に対し、加奈江の登場は続編前半「移転」の章が最後です。これまで貞吾とセットで登場することが多かった加奈江がピタっと現れなくなることからこの後どうやら無事に嫁入りしたことがうかがえます。すみません余談です)

 まさに「(今は)そんなこと考えたって」というようなことばかりが頭を巡ります。
 復興どころか明日の暮らしもまったく想像できない状況で、ソメノも当然底知れぬ不安が溢れていたことでしょう。
 この場面では世帯主である修平が修平なりに「今やるべきことに全力をそそぐ」という姿勢を見せたのだと思います。無意識に自分を鼓舞する意味もあったのでしょうか。この辺りはさすが石村家の遺伝子を感じずにはいられません。私、修平びいきですし。

 よく考えると「そりゃ、そうだよな」ということも先入観をもって読んでいるとまったく見当もつきませんでした。
 「そんなこと、考えたって~」のわずかなやりとりで被災住民が感じていた底知れぬ恐怖、得体のしれない不安がしっかりと描かれていたのに見落とすなんてもったいない!

 まだまだ、読み込みが足りません…




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