福子の闇〜ハッピーエンドとは〜 泥流地帯考察

【ネタバレ注意】
 『泥流地帯』冒頭で描かれた深く冷たい闇。そして『続泥流地帯』のラストシーンで描かれた目も眩むばかりの光。深い闇から眩い光へ。見事なラストシーン、文句なしのハッピーエンドに何度でも号泣できちゃう名作『泥流地帯』なんですが、しかしどこかモヤモヤしたものが残るのは私だけではないですよね多分。

 なぜなら輝ける新たな人生へ歩みを進めるはずの福子の、ポジティブな心理描写が全くないからなのです。
 それどころか深雪楼を出てから汽車の中まで福子の様子すら一切描かれていません。もちろん「赤いマフラーor白いハンケチ」で作戦の成否を示す重要な演出のためということも大きいのでしょうが、期待、不安、解放感、罪悪感、感情も交々ながら全体的には、登場人物全員が前向きな感情を持っていて然るべき場面であったように思えます。

 ではなぜ明るい未来に向かう「福子の」希望に満ち溢れた様子が描かれていないのか。これは単に演出上の問題ではないような気がします。耕作、拓一、節子とは全く次元が異なる世界で思春期を過ごした福子の心情、これはちょっと切り分けて考える必要があると思うのです。
 深雪楼の生活が地獄であることは間違いありません。しかし14歳(数え年。満年齢だと12か13、中学1年生に該当する年です)で売られた福子にとって外の世界が理想郷かといえばそれはどうか。莫大な借金と深城の怨恨を抱えて店を飛び出し、なおかつ拓一にもそれを背負わせる。
 現状、家族(巻造)の業を背負い深雪楼に売られたことについては諦観の境地にある福子ですが、自分がそこから解放されるために拓一を巻き込むことは福子にとって「新たな罪」に他なりません。

 これは前作『天北原野』のラストシーンと非常に深く絡み合っているような気がします。他作品のラストシーンに深く言及するのは避けますが、ヒロインの貴乃がもし「我々読者が通常望むような幸せ」を手にしたなら、果たしてそれは本人にとって読者同様の幸福が得られるものだったのか。
 恐らく福子と同じく、誰かの犠牲によって得られる幸福を、誰からの赦しも得られぬままに享受するという「新たな罪」を背負ってその闇をさらに深めたのではないでしょうか(なので私は『天北原野』のラストシーンは「貴乃にとって」この上なく美しく残酷なハッピーエンドと解釈しています)。

 さて福子に話を戻します。もちろん福子にとって深雪楼からの逃亡がゴールなどではありません。残してきた同僚がこれから酷い目に遭うであろうこと、拓一に莫大な借金を背負わすこと、深城からの追手が迫るであろうこと、そして何より逃亡の先にある無垢な拓一との暮らし。
 おそらく自分自身を酷く穢れた存在として捉えている福子は拓一が純粋であるほどその罪の意識は深まっていくことでしょう。
 揺るぎない開拓者精神でまさに村全体を牽引する立場に成長した拓一ですが、それと福子の精神的な(しかし望まなかったであろう)成熟は全く意味合いが異なります。14歳で売られてからの福子が何を経験し、何を思い、何を見聞きしたのか、物語では多く触れられていませんが、勢いのある開拓農村の遊郭で(おそらく)ナンバーワンを張っていた「小菊」という遊女は、私たちの知る「福子」とは別人だと思わなければなりません。

 「雪間」の章の第二節、兵隊に取られた国男の代わりに拓一、耕作、権太の三人が曾山家の畑仕事を手伝うシーンがあります。モンペ姿でフォークを持って現れた福子の、心の拠り所として、一時の心休めとして、ある意味ではこの上なく贅沢な娯楽として拓一を含め幼馴染みたちとの時間を慈しむ様子がとても印象的な場面です。
 ここで注目すべき点は、福子と接している時の耕作、拓一、権太は子供の頃のような言葉遣いになっていますが、あくまでも「いつもの」沢の青年として言葉遣いだけが親しみと懐かしさで昔に戻っているに過ぎないこと。
 しかし福子だけは非現実的な世界で一時的に心を安らげるために「現実の」深雪楼の小菊ではなく、今は存在しない「沢の福子」に完全にスイッチを切り替えているのだと思うのです。

 福子にとって本当に心安らぐ大切な時間であり心から幸せではあったのでしょうが、あくまでもひと時の仮想現実だったわけです。だってもうそっちには戻れない(はずだった)んですから。
 しかしラストシーンの汽車が向かう先に待っているのは、とうに諦めていた生身の生活です。仮想現実がリアルにとって代わること、これはまさに未知の世界。ポジティブな感情は不安によってかき消されることでしょう。「深城から逃げおおせたわ!いえい!いえい!」とはいきません。
 もちろん福子はいずれそれらを克服あるいは整理して本当の幸せを手に入れるのでしょう。ですが綾子さんがラストシーンで福子の心情に触れないことで手放しのハッピーエンドとしなかったのは、あの始発列車が物語のラストシーンではあるものの登場人物たちのゴールシーンではないことを強く示しているのだと思います。
 大きな罪を背負い、試練と苦難に満ちた、しかし希望にも満ち溢れる新しい道。先に拓一が歩んできた「生きる」ことそのものを示す道に、手探りながらようやく福子が足を踏み入れた、というラストシーンだと思っています。

 ファンとしては村の復興やそれぞれの恋の落ち着き先など泥流地帯3部作として「その後の泥流地帯」があるなら読んでみたくてたまらないのですが、これは『続泥流地帯』で完結しているのがやはり正解なのですよね。
 深い闇を抱えたまま眩い光の中に飛び込んでいった福子が今後どのような人生を送るのか。この先の物語は我々読者がそれぞれ心の中で紡いでいけるよう、拓一、耕作、節子、そして上富良野の人々を通じて綾子さんと光世さんが既に作品の中で示してくれており、きっと多くの読者が三浦夫妻に導かれるように同じ結末に向かっていけるのだと思っています。

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