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レイデン Leiden オランダ/南ホラント ~1575年、一年の籠城に耐えた街にはオランダ最古の大学が建設される

※ 訪問記はかなり前、2009年4月時点の情報です。八十年戦争に関わる場所を訪れています。一般的な旅行記ではありませんのでご注意ください。

日本では「ライデン」と表記されることが多いようです。


八十年戦争の中でも前半のハイライト、1573年10月-1574年10月3日の攻囲戦争で有名。レイデンの街は約1年に渡りスペイン軍の攻撃に晒され籠城していました。飢餓の中、市民は耐えて、最終的には洪水によってスペイン軍を撃退しました。これは偶然の自然現象だったとはいえ、前年のアルクマールに続きスペイン軍の撃退に成功した事例となり、「反乱」の象徴的な出来事の一つとなっています。

この10月3日、「レイデン解放の日」は、今でも各種イベントが行われ、日本のオランダ大使館でも毎年ニシンパーティーが開かれています。


城塞

1150年頃からあるという古い円形の城塞。レイデン攻囲戦のときに市民がここに立て篭もったそうです。直径は50mもないと思われ、籠城するにはとても狭そうです。

トップの古地図にも、ちょうど中心に円形で描かれているのですぐにわかります。そのすぐ右にある教会が聖パンクラス教会です。


レイデン大学

レイデン解放のご褒美として、ウィレム沈黙公が1575年に設立した大学。オランダ唯一の日本語学科もあり、歩いているといきなり日本語で話しかけられたこともあります。

大学内部には、ウィレムと息子のマウリッツの肖像が掛けられている部屋があるようです。


ラーペンブルフ

運河沿いのラーペンブルフ通りは、街並みの美しさから観光ルートにもなっています。レイデン大学もこの運河沿いにあります。冒頭の地図だと、中央を流れる運河の下に、半円形の弧を描いたやや狭い運河がありますが、この運河の両端がラーペンブルフです。運河の下側一体がレイデン大学になります。

少年時代のナッサウ伯マウリッツやフレデリク=ヘンドリクが、レイデン大学に通うために住んだ建物もあります。一時期のオランイェ公妃ルイーズ・ド・コリニーや、晩年のユスティヌスも住んでいたことがあります。建物の前に「Princehof」と書かれたプレートが掛けてありました。

ここに挙げた写真だと、いちばん手前の白い建物より左側の3棟になります。(Rapenburg 8-10)


聖パンクラス教会 Pancraskerk/ Hooglandse Kerk レイデン

10月3日(レイデン解放の日)、またはイベント開催時しか一般には公開されません。 レイデン市内でもかなり大きなプロテスタント教会。ナッサウ伯ユスティヌスとその妻が葬られています。ユスティヌスは晩年をレイデンで過ごしましたが、そのままこの街に葬られたようです。正嫡ではないため、ブレダやデルフトのナッサウ家の墓所には入れなかったものと思われます。

レイデン攻囲戦(1574)時の市長ファン・デル・ウェルフの墓所もあります。

ちょっと離れた要塞から全体を撮るとこの角度で写ります。大きいので、ここまで離れないと全体がなかなか入りません。冒頭の正面あおり気味の写真と印象がかなり違います。

ぎりぎり17世紀の彩色版画です。今と雰囲気はあまり変わりません。


アクセス

レイデン中央駅から教会と要塞のある旧市街中央まで2km弱。レイデンも旧市街周囲に星型堡塁跡が残っている街でもあります。

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