創作、ポエム、アートを通じ、わが心を知る。
創作というものを考えていたとき、ある文にとても感銘を受けた。
なるほど云い得て妙である。
他者の作品や文章に触れたときに「なんか好きだ」と、思うことがある。
たいていは、なんだか暗い。なんか性格悪そう。そんな書き手の印象を受けるものに惹かれる。しかし正直なのだ。自分の言葉に一切の嘘がつけず、だが、言葉を扱う以上は嘘をつくことを避けられない。この矛盾を無視できない、無視したくない。そんな不器用な人間が作った作品、書く文章。
そう。私が好む作品は総じて長ったらしく、執拗なほどに理屈っぽく、「俺”自身を肌で感じろ!」と言わんばかりの情熱がビンビン伝わってくる。そんな臭気に満ちた作品。
何度も本を出しているような著者や持ち曲が多数あるアーティストの場合、テーマが違おうが何十年経とうが、言ってることはだいたい同じだったりする。異様なまでにくどく執拗で、そこがとても愛らしい。
逆の場合もしかり。作品に共感を示されたとき、相手や自分をまた一歩知れたような気がする。言葉を交わさずとも、自分の書いた文章や作品を読みつづけている人がいるということは本当にうれしいことなのだ。
アートという衝撃波
稀に、創作をとおして衝撃波を打たれることがある。
一つは「これは私か?」と錯覚するほどのシンパシーを呼びおこす作品。哲学書、リリック、漫画やイラストしかり………。シンクロ率100%の盲目的な錯覚は、『どこかにいるもう一人の自分』を見つけた気がしてウキウキする。
そして二つめは、あまりにも自分とかけ離れたセンスを持っている表現家に出逢ったとき。
単体のイラストレーション、物語、その表現方法。いったいその色使いはどこからくるのか。その空間の歪みは?背景と人物との融合は?すべてが一線を画しており、もはや感動を超え、茫然自失といった症状にさらされる。スーパーカメハメ波を喰らったかんじだ。
感動は衝撃をもたらし、深い共感となる。
共感は共鳴の波となり、やがてその波はとてつもない鬱を呼び起こす。
それは理想なのかもしれないし、もしかしたら只の嫉妬なのかもしれない。