眼鏡を外した日

2023年8月1日、今日という日を絶対に忘れない。

ここ数週間やりがいのある仕事を終えた後、次にやっている仕事はまさに単純作業だった。やりがいを見出そうとしては打ちのめされて、の繰り返し。

そこに重なる自信の制欲との葛藤からくるストレスがある。笑い話ではなく真剣に葛藤していたのだ。それはまた別の機会に話すとして。

極め付けは今日の大遅刻だ。社会人としてありえない、と電車の中で自分を責める。懐かしい脂汗が吹き出す。実質的に私がいなくても成立する会議だっただけに自分の存在意義が薄れる。いてもいなくてもいいところに居させてもらっている環境においてそれは最悪だった。

消沈の中今日の業務をこなし前日に予定していた同期との飲み会があった。

その会は同期が報告したいことがあると言われ集まった会だったが、その話もそこそこに私の切実な悩みを打ち明けた。いわゆるただの愚痴なのだが、同期たちは予想以上に受け入れてくれた。ただ話を聞いてもらっても落ち着くが、根本的な解決にはならないのは分かっている。そのモヤモヤを残したまま、解散の時に同期の一人が言うのだ。


「たとえ上手くいかなくてもやってみて、めちゃめちゃ傷ついても、それが面白いじゃん」




そんな当たり前のことを忘れていた気がしたのだ。それは分かっていてもその通りに考えられることとそうじゃないことを無意識に分けていた。


帰り道音楽を聴いた。心にモヤがかかっていた状態からスーッと晴れていくのだ。

自分は人間性で言えば合理的な部分が強いと思う。行動計画も逆算的に考えるし、見る動画は2倍速。何かのついでに何かをしたいし、余分な時間は作りたくない。眼鏡やコンタクトをつけるのもそう。私は裸眼で0.2くらいで街の文字は見えないがなんとなく道は分かる程度。同じくらいの視力の人でも裸眼でいて、デスクワークの時だけ眼鏡をかける人は一定数いるだろう。


今日は不思議と曖昧な世界を見たかった。職場は飯田橋、自宅は阿佐ヶ谷のため、普段なら直通が多い総武線に乗るのだが、今日は改札まで一緒に話したい(明日になれば会えるのに)という理由だけで乗り換えが発生する東西線に乗ったものそのせい。中野のホームで電車を待つ中、普段ならサブスクのミュージックアプリで聴く音楽をわざわざYoutubeで聞く。課金もしてないのに。普段なら煩わしく思う広告もなんのその、いいインターバルだ。画面をつけっぱなしにして適当に流した(多分吸い寄せられていった)ミックスリストを選択し、眼鏡を外してカバンに入れる。ホームから見るビルとビルの隙間の商店街らしき光がぼやけて輝く。

「明日はきっといい日になる、いい日になる、いい日になるのさ」

「ああ、もう泣かないで。君が思うほどに怖くはない。ああ、まだ追いかけて。負けっぱなしくらいが丁度いい。」

「悲しみで花が咲くものか」

「たまにはこうして肩を並べて飲んで、ほんの少しだけ立ち止まってみたいよ。純情を絵に描いたようなだんだん虚しい夜も笑って話せる今夜はいいね」


曖昧な世界はいい。普段なら大人しく歩く帰り道も眼鏡を外すと人がいるかも分からない。イヤホンをしていれば周りの音も聞こえない。羞恥心はどこへやらスキップをして鼻歌、いや本歌で帰路に着く。


あースッキリした。明日は楽しくなりそうだ。

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