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ペルーの旅とアヨワスカ

<クイチとの出会い>
それは90年代後半ことだった。某雑誌社が日本初のニューエイジ・フェスティバルを開催し、その基調講演にペルーの若手シャーマン、クイチが招かれた。そして何の巡り合わせか、私にその通訳のお鉢が回ってきた。

南米と言えばブラジルのアマゾン熱帯雨林やリオのカーニバル程度しか知識のない私にとって、それは初めて南米を身近に感じ、さらに昔栄えた古代インカ帝国にまで遡る大陸のスピリチュアリティーに触れる機会でもあった。クイチは、ペルーの虹の同胞団と呼ばれるシャーマン達の代表として来日し、この基調講演のほかにも各地でワークショップを開催し、特に現代人たちの意識に甦えらせることが必要だと言われる古代からの教えを伝えることをミッションとしていた。

その教えは、母なる地球をパチャママ(大地の母)と呼び、大地や自然界との繋がりを重んじるものだった。それは聖典をベースに理想をかかげる教義というより、日常をバランスよく生きるための知恵と姿勢であり、肌で感じ、生活の中で活かしていく信仰だった。そのように生きるペルーの原住民たちには、いつも大地にパチャママと呼びかけ、祈りを捧げ、その恵みに感謝と敬意を払う伝統的な習慣があるという。

その教えの中でも、私の記憶に今も深く刻みこまれているのは、「嘘をつくな」という教訓だった。あらゆる嘘は、精神的な問題から体の不調にいたるまで、さまざまな不和を生むという。それは自分に正直でいること、約束を守ること、他者に嘘をつかないこと、盗みをしないことなど、自分の心の中に虚りのない状態を保って生きることの大切さを教えるものだった。たしかに、波動の観点からも、偽りごとは心に歪みをもたらし、内面だけでなく、外界に向けて不調和の波及効果をもたらすという洞察には納得がいく。それは、人間界をも含む自然界にも悪影響を及ぼすにも違いない。

長い黒髪を後ろで束ね、真っ白いシャッツにカラフルな伝統的織物のベストを着た30代半ば程のクイチは、南米大陸のパワーに満ちたカリスマ性を漂わせていた。クイチの基調講演は、フェスティバルで評判となった。さらに、それを後押しするかのように、彼の日本の友人が、クイチがガイドするペルー・ツアーを企画することになった。すると、シャーマニズムに関心をもち、クイチのワークショップを受けた私の友人の何人かがさっそくそのツアーに申し込み、なんと私にも一緒に行かないかとお誘いがきた。もしろん一緒に行きたいのはやまやまだけれど、地球の反対側へのツアー費は結構な値段だった。

返事を躊躇していると、友人のひとりがオーガナイザーに掛け合って、ツアー中に私がクイチの通訳をすることを条件に、航空運賃を除くツアー費を免除してくれるように交渉してくれた。私としてはペルーに特別な関心があるわけではないけれど、南米に行くこんなチャンスは人生に2度とないだろうし、気心知れた友人たちと一緒ならきっと楽しい旅になるに違いない。それに、クイチはシャーマンの教えを解きながら、ふつうでは行けないような秘境の地へもきっと案内してくれるだろう。うーん、こうなったらもう行くしかない、と優柔不断な私はやっと自分にゴーサインを出した。

<いざペルーへ>
出発の当日、私は成田空港からユナイテッッド航空でロスアンゼルスへ飛び、そこからペルーの首都リマに南下するペルー航空の飛行機に乗り継いだ。一方、他のツアーメンバーのほどんどは、旅行社に言われるままフロリダやダラス経由の遠回りな飛行ルートで現地入りをした。こうして、それぞれ異なるルートをとりながらも、全員が同時にリマ空港で集合することになっていた。空港のロビーでは、相変わらず真っ白いシャッツとカラフルなベスト姿の長い黒髪を垂らしたクイチがにこやかな笑顔で私たちを出迎えてくれた。

南米の大地と空気に初めて触れた10名ほどの私たちツアーグループは、全員胸をときめかせながらミニバスに乗り込み、クイチと共にリマの町へと向かった。車中では、「コンドルは飛ぶ」のBGMがずっとかかっていて、私たちの心はさらに高揚するのだった。中には、故郷に戻ったような懐かしい気持ちになってほろりと涙を流すメンバーがいたり、「私は過去生でペルーにいたのよ」と語るメンバーもいた。

ペルーの首都リマは海抜ゼロの海辺の町だった。私たちはリマに一泊したけれど、街を散策する時間はあまりなかった。とはいえ、翌朝にはインカ帝国の黄金の遺産が数多く展示されている国立博物館をゆっくり見学し、その足でそのインカ帝国の首都だったクスコへと飛んだ。

飛行機に搭乗する際に、「クスコに着いたら、走ったり、大声で笑わないように」と私たちはクイチにくぎを刺されていた。標高が高いので、高山病になるかもしれないと言うのだ。事前に下調べをしてこなかった私は、それがどういうことかぴんとこなかった。現地の住民たちには、高山病にならないようにコカの葉をかんだり、コカ茶を飲む習慣があるとクイチは説明を加えた。それを聞いた参加者たちは高山病のことより、日本では御法度のコカの葉を是非試してみたいと大いに好奇心にかられた。

飛行機の小さな窓からはジャングルのような森林地帯や今まで目にしたことのないような乾燥した岩肌の雄大な山脈が眼下に広がっていく。「チベットの山々によく似ているわ」という声が参加者の中から聞こえた。チベットに行ったことがない私には比較はできないけれど、何よりも初めて見る南米のエクゾティックな空間に、私はすっかり魅了されていた。

数時間の飛行後、私たちを乗せた小型プロペラ機は海抜ゼロの首都リマから標高3400メートルの古代インカ帝国の首都クスコに到着した。タラップを降りると、そこにはクスコの広々とした空間が広がっていた。私たちはその外気と空間に直接触れ、すがすがしい思いでその大地に降り立った。私自身は、ひんやりとした空気の新鮮さは感じても、クイチが言うような標高の高さによる空気の薄さは特に感じなかった。私たちは、さっそくミニバスに乗車して、クスコ市内にある老舗ホテルへと向かった。

ホテルに着くと、それぞれに部屋の鍵が渡され、私たちはスーツケースをひきづりながら各自の部屋へと散らばっていった。長い廊下を歩いて部屋に向かう途中、私は微妙に頭がキリキリ痛むのに気づいた。さらに部屋のドアの鍵を開け、室内に入って荷物を置く頃には、もしかして高山病?と思わざるをえない頭痛がしはじめていた。それは時が経つにつれ徐々に悪化し、まるで頭蓋骨がしめつけられ、脳がぎゅっと圧迫されるかのようだった。そうなると、立っていることもおぼつかない。しばらく横になっていれば引いていくだろうと軽く考え、ベッドに横になってみた。が、いつまでたっても、その状態は変わらない。体を動かすことも、話すこともおぼつかない今まで経験したことのないような最悪の頭痛、それは予想外の緊急状態だった。ルームメートの友人が心配して、さっそく状況をクイチに知らせにいっててくれた。

しばらくするとクイチがコカの葉とコカ茶を持ってやってきた。彼はそれを噛んだり、飲んだりすると治るよと説明し、安心させるような笑みを残して去っていった。しかし、コカの葉を噛んでも、ただ苦いだけで何の効果も感じない。さらに、コカ茶を飲むと吐き気がし、その締め付けられるような頭痛はただ耐えるしかないように思えた。みんなが、夕食を食べる時間になっても私は起きあがれず、悲痛な思いに駆られていた。確かに海抜ゼロから富士山より高い標高3,400メートルに一気に飛行機で移動すればこういうことになるよね、と思い知らされた。が、時すでに遅し。自分の体と共にいる限り、どこにも逃げ場がない。

こんなに辛い状態が待ち受けていようとは…。頭が割れそうな頭痛はさらに続き、一晩中寝返りを打つこともままならないまま、まるで悪夢に飲み込まれた境地で一睡もできなかった。これがずっと続いたら、どうしようというと不安にもかられていた。後で分かったことだが、ツアーメンバーの中で高山病を発症させたのは私だけだった。

翌日も、めまいを伴う頭痛は続いていたが、とりあえず通訳の役目に穴をあけることはできず、私は何とか起き上がってツアーに着いて行き、クスコの遺跡をあちこち案内するクイチの話を気が遠くなるような思いで通訳した。

私とペルーの相性は悪いのだろうか、と思わざるをえなかった。こんな地球の反対側に来たのがもともと間違っていたのかもしれないなどと、私は頭痛ばかりか、さまざまな悩ましい思いにもかられていた。それに高山病になったのは私だけで、みんなはけろっとしているのだから….

3日目もまだうっすらとした頭痛が続き、頭を左右に動かすとふらふらする状況が続いた。だから、できるだけ体を動かさず、会話はさけ、話さなければならない時はできるだけ小さな声で話す工夫をした。こうして3日間のクスコ滞在は、高山病のおかげで、私だけがまるで呪いにかかったような状態だった。

<クスコからマチュピチュへ>
4日目、私たちは緑豊かな山間部や広々とした平原や川沿いを走るペルー・レイルという電車に乗ってクスコからマチュピチュへと向かった。標高は徐々に低くなり、頭に蓋をかぶせられたような圧迫感はだんだんと薄れ、私は大陸の大自然の移り変わる風景を落ち着いた気持ちで楽しみはじめていた。あの頭痛は一体なんだったのだろうと、まるで悪夢から覚めたような安心感と爽やかな気分が心に浸透するように広がっていった。

長時間列車の旅が続いた後、電車はやっと山頂にマチュピチュの遺跡がある山の麓のマチュピチュ村に到着した。私たちの宿泊先は、広々とした美しい庭園の中にある高級ホテルだった。それは, 貧しいマチュピチュ村とは極めて対照的で違和感のあるヨーロピアンスタイルのリゾート施設だったが、遠路はるばる日本からやって来た私たちにとっては、ほっとできるありがたいスペースだった。

私たちは、さっそく日本の一昔前の温泉町を思わせるお土産屋や食堂が立ち並ぶマチュピチュ村の大通りに繰り出し、散策やショッピング、ティータイムを楽しんだ。私が立ち寄った駄菓子屋兼茶屋では、BGMにペルーの音楽ではなく、ビートルズの曲がかかっていた。このペルーツアーの直前に、たまたまビートルズの音楽ディレクター・ジョージ・マーチン氏の通訳をしたばかりの私は、なんとこんな世界の果てでビートルズの曲に出会うとは…と、微笑まずにはいられなかった。それも、その曲は「All you need is love」。なる程、世界中が必要としているのは愛、そうだよね、とひとりにっこりせずにはいられなかった。

その夜、クイチは私たちを村のど真ん中にある公共野外温泉「アグア・カリエンタス」に連れて行ってくれた。それはコンクリートで作られた古めかしいプールだったが、少なくとも広々としていた。満点の星空の下、私たちは水着を着て、地元の住民たちと一緒にプールに入り、その生温い茶色い温泉に長時間のんびりと浸り、ゆるみ、くつろいだ。その後、さらに村のお祭りに繰り出し、またまた現地の人たちに入り交じって、ペルー特有の音楽に乗ってみんなと一緒に踊るのだった。

翌朝、私たちは日の出前のまだ暗いうちに、クイチの後をついてマチュピチュの遺跡のある山頂まで急な山道を登って行った。登山はかなりハードで時間を要した。途中、私たちは日の出前には頂上に到着できないかもという思いに駆られていたが、クイチの魔術が働いたのか、時間がとまったかのようなフローゾーンに入り込み、日が昇り始める直前に見事に頂上に到達することができた。そして人けのまったくない山の頂で、私たちは向かい側の山から登る感動的な朝日を拝んだ。その時、今まで薄暗かった周りの空間には、ポスターなどで見たことのあるあのマチュピチュチュの遺跡が黄金色の朝日に照らされ、くっきりと姿を現した。

私たちは、クイチに案内され、まるで迷路のような広大なマチュピチュの遺跡をゆっくりと見学してまわった。クイチの説明は、かなりエソテリックな側面にも触れる興味深いものだった。2時間ほどみんなで全体を見学した後、私たちは自由時間を与えられ、それぞれ好きなように過ごすことを勧められた。メンバーたちはそれぞれに何か感じるものがあったらしく、思うままに惹かれる場所へと散らばっていった。一方、クイチの通訳の役から解放された私は、突然自分の気分がすぐれないことに気がついた。そして、遺跡をゆっくり探索するどころか、正直言ってホテルにはやく戻って休みたいというみじめな気持ちに駆られはじめた。こうして、世界遺産でもあるこの神秘の遺跡を目の前に、なんと情けないことに私は入口脇の小さな待合室のベンチでぐったりし、時間が経つのをただじっと待つことになった。

後から思えば、この遺跡のエネルギーは私にはあわなかったのかもしれない。これが、自分のマチュピチュ体験であるのはとても残念だが、その良し悪しは別として、人には自分のエネルギーと合う場所と合わない場所があるのかもしれない。あるいは、私の中に何らかの無意識の抵抗があったのかもしれないし、2,450メートルの標高で高山病が再発したのかもしれない。それは未だに私の知るよしのないミステリーだ。

私たちは、ローカル・バスに乗って下山することになった。バスに乗り込んでから窓の外をふと見ると、バス停のそばには小学生程度の男の子たちがひとかたまりになって何かの順番待ちをしてしていた。さっそくバスが発車して、いろは坂のような山道を下りはじめると、その中のひとりが自分の番になったらしく、道路ぞいの歩道をバスの脇について一緒に走りはじめた。まるで走れメロスのように…。

なんと、この少年はバスの乗客たちのために走るショーをしているのだ。時々、小柄な少年はこちらに笑顔を見せて手まで振る。その笑顔は純朴で、その目は純粋な子供らしさに輝いていた。彼はただ懸命に走りつづけた。最後にバスから下車する私たち観光客からチップを得るために…。子供にそのような芸をさせなければならないほど、この村は貧しいのだ。そのけなげな姿を観て、私は励ましたいのと同時に南米の貧困のリアルさを思い知らされた。その子は、何度も練習し、ほぼ毎日このような仕事をしているのかもしれない。それ以外にチョイスがないのだろうか。その子は、引き続き、窓越しの私たちの方に顔を向け手を振りながら見事に駆け下りていった。時には道が狭いために藪の中を走りながら…。一方、途中のバス亭には、もっと小さな子どもたちがバスのまわりに集まってきた。私は、よかれと思って、窓を開けて手持ちのキャンディを一人の男の子にあげようとした。すると、何人もの子がそれを取り合うという惨事が起きた。状況をきちんと把握しないまま相手を安易に喜ばせようとすることが、不和を生むことがあることを見せつけられる瞬間だった。しかし、このような状況の中においても、彼らがたくましく大地に生きていることを忘れてはならないだろう。

山頂から長い下り坂を走りきった少年に、私は「頑張ってね」と言い、彼の人生が彼にとって善きものとなりますようという願いを込めて、心ばかりのチップを手渡した。その素朴で純粋な少年のはにかんだ笑顔に、何かやりきれない切なさを感じながら…。

<アマゾンのジャングルへ>
その翌日、私たちはアマゾン川のある支流を船で下り、ペルー側に広がるアマゾン・ジャングルへと向かった。そこでは、母なる大地パチャママの豊潤さを思わせる生命力にあふれる熱帯の植物や樹木が私たちを迎えてくれた。私は、ペルーに来て以来、このジャングルでやっと水を得た魚のようにいきいきとし、心の奥からの喜びに満たされた。小さなモーターボートの上で新鮮なそよ風に吹かれ、まわり一面360度の広々とした風景を楽しみながら、私たちはさらにジャングルの奥地へとに向かった。そんな心地よさを味わいながら、ボートはいずれある川沿いのキャンプ施設に到着した。それは、ジャングルの中にスポット的に開拓された小さな平地で、トタン屋根に覆われた野外食堂の素朴な建物のまわりに、小さな宿泊用のコテージがいくつか並んでいる以外はとりあえず自然しかない場所だった。

私たちはそれぞれに部屋に落ち着くと、さっそくクイチに連れられて、ジャングル・ツアーへと出かけた。どこへ連れて行かれるのか、全く分からないまま、私たちはジャングルの道なき道をクイチについていった。30分ほどジャングルの中に入って行くと突然、人が住んでいるような小さなスペースと小屋が前方に見えた。こんなところに一体誰が住んでいるんだろう?と皆んなで顔を見合わせた。

クイチが、「オーラ」とスペイン語であいさつの声をかけると、木々の向こうから肩に小さな子猿を乗せた、髭ぼうぼうの上半身裸の老人が現れた。彼は、なんとも言えない柔和な笑顔で私たちを迎えた。にっこりとしたその口には歯がほとんどなかった。クイチは、私たちを彼に紹介し、ひとりひとりが彼と握手をした。彼はこのジャングルで猿たちと一緒に暮らしている隠遁者だった。

そうしているうちに、ジャングルの中から数匹の猿がどこからともなく姿を現し、私たちに近づいてきた。警戒心がまったくない、子供のように天真爛漫な彼らの様子がほほえましかった。なんと、平和に満ちた生活をしていることか、と私は感慨深く思った。老人は私たちと猿たちの間を取り持ってくれたり、彼の小屋やその生活の一部を笑みを浮かべながら、無言で紹介してくれた。クイチと彼は互いに親しい間柄のようで、彼らはしばらく一緒に話し込んでいだ。その話が終わるのを待って、私たちはこの愛すべき老人と猿たちに別れを告げた。

それから、私たちはアマゾン川支流の広々とした川岸に行って、その茶色い川の中に飛び込んだ。そして、その流れに身をまかせて流されたり、泳いだりと子供のようにはしゃぎ、きゃっきゃっと言いながら、思い切り解放感に浸った。まるで、母なるアマゾン川に抱擁され、その大きな愛に満たされるそんな瞬間だった。その時、私はクスコやマチュピチュでの苦しい体験をすっかり忘れて、この地に来られたことを心底ありがたく思った。

<アヨワスカの儀式>
夕食時に、私は友人から翌日の夜にアヨワスカの儀式が行われることを知らされた。なんと、それを知らなかったのは、私だけだったらしい。正規に参加を申し込んだメンバーたちは、ツアーの詳細やスケジュールをしっかりと読んでから申し込んでいた。一方、私はといえば、行き当たりばったりの成り行きで、この参加を決めたこともあり、事前にツアーの詳細をきちんと読んでいなかった。後で知ったのだが、私の友人たちも含めて参加者全員がこのツアーに一番期待していたのは、なんとこのアヨワスカの儀式だったという。それなのに、この私はアヨワスカが何かもまったく分かっていなかったのだ。

ルームメートの友人が、アヨワスカはインディオたちが聖なるメディシンと呼ぶ(幻覚剤の作用をもつ)薬草で、北米インディアンのペヨーテ(儀式に使われる聖なるマッシュルーム)に相当するものだと教えてくれた。私は、それが何かよく分かっていないこのアヨワスカの儀式で、クイチの通訳をすることになっていたのだから、後から考えれば何と無謀なと言わざるを得ない。

そうこうしているうちに、翌日の夜がやってきた。夕方近く、クイチたちが外の小さなスペースに薪木の火を燃やし始めた。しばらくすると、私たちは皆、その火のまわりに輪になって地面の上に座るように指示された。

まわりのジャングルの暗闇からは、時々熱帯の鳥や野生動物たちの鳴き声が聞こえ、真っ暗な夜空には満天の星々が輝いていた。輪の中心にある薪木は、パチパチと火花をちらつかせながら、めらめらと炎を立ち上らせている。そこには、クイチの他に、やはり長い髪をうしろで束ねた初老のインディオの男性がいた。私はクイチが儀式を司るのかと思っていたが、実際はこの男性がクイチの師匠のシャーマンで、今回の祭司だったということをその場の成り行きで知った。この師匠に何かシャーマンを思わせる風貌があるかといえば、何も知らずに道端で通りすぎたら普通のインディオのおじさんという感じで見過ごしていたに違いない。

儀式では、クイチも通訳になり師匠のスペイン語の話を英語に訳し、それを私が日本語に訳すということらしかった。儀式は、事前になんの打ち合わせも説明もなく、いつのまにかスタートしていた。私たちの輪の外側の片隅には2,3個のバケツが用意されていた。どうも、その中にアヨワスカのお茶が入っているらしかった。儀式をリードするこのシャーマンはクイチと違ってエンターテイナー的な愛嬌はまったくなく、無表情のままみんなに簡単な挨拶した。それから一本のタバコに火をつけて、それを口もとに持って行き何度か蒸して火を安定させると、それを片手で額の上あたりにかざし、空中で三角形を描くようにゆっくりと動かしながら、低い声で歌い始めた。それは単調なメロディーの歌で、その響きの中にクリストスという言葉だけがはっきり聞き取れた。それはたぶんスペイン語でキリストという意味らしい。彼はきっとイエス・キリストに向かって祈りの歌を歌っていたのだろう。しばらくの間、私たちは地面に座ったまま、薪の炎を見つめながら彼の歌を静かに聞いていた。

歌が止むと、シャーマンはクイチに合図を送った。クイチはうなずいてから、脇に置いてあったバケツのひとつを輪の中に運んだ。そして、シャーマンが何かつぶやいた後、クイチが「これからアヨワスカを皆んなに回していくので、それぞれに飲んでください」と通訳した。それから、バケツが順番に回され、ひとりひとりが柄杓でその中の茶色い液体を口に含ませた。私は、一体どんな体験になるのだろうと、ある意味心をときめかせなあがら自分の番を待った。シャーマンは、もう一本のタバコに火をつけ、またさっきのように空中に3角形を描きながら歌い続けた。

私は静寂の中に静かに響くシャーマンの低音の歌を聞きながら、いつの間にか厳粛な気持ちになっていた。そして、心が静まって落ち着いた頃、やっと私のもとにアヨワスカが回ってきた。私は敬虔な気持ちでお茶を柄杓ですくってほんの少し飲んだ。それは全くなじみのないエクゾティックな苦い味だった。そして、2回目にバケツが回ってきた時、私はより大胆になって、さっきより少し多めに飲んでみようという気持ちになっていた。そしてぐいっと多めに飲んだ直後、クイチが「皆さん、横になってください」と言った。私は、それを通訳してから、自分自身も地面の上に腹ばいになった。そしてそのまま、クイチが時々言うことを通訳しながら、同時に意識が不思議な感じになっていくのに気づいた。

なんと、顔をふせて腹ばいになっている自分の体が地面の中に沈んでいく…、そして地面と一体になっていくように感じていた。さらに、サイケデリックなイメージが意識に広がり、まるでカラフルな万華鏡のように不思議なパターンがゆらゆらと動き出し、その合間からゾウのような動物が現れたり消えたりしている。それは、まるでサイケデリックなホログラムの中にすっぽりと入り込んだような感じだった。今まで慣れ親しんであたり前と思っていた意識の世界ががらっと変わって、まったく異次元の意識が広がっていく。最初は、わーお、一体これは何?という好奇心に駆られたけれども、しだいに何か入り込んではいけない領域に足を踏み入れたような感覚と自分を喪失していくような感覚があり、本能的にそっちに入っていってはいけないという意識が働いた。それはもしかすると小心者の私の恐怖心からだったのかもしれない。しかし、面白いことに、私にはいつのまにか自分の知る最も高次の存在である善なる神、グルのアンマ、仏陀、キリスト、観音様、天使たちに一点集中的にフォーカスしようという自発的な意志が働いた。私はそちらに向かっています、だからどうぞお守りください、お導きくださいと心底から祈っていた。そうこうしているうちに、シャーマンの声がして、クイチが「起き上がれる人は起きて、地面に座ってください」と言った。私は、まだうっすらとサイケデリックな意識の中にいながらも、その瞬間に通訳モードに戻って、それを日本語に通訳した。同時に、ゆっくりと起きあがろうという意志も働いて、体を起こし地面に座った。まわりを見まわすと、リラックスして座っている人もいれば、横になったままの人もいた。それぞれがそれぞれのスピリチュアル・ジャーニーをしているのだった。シャーマンは暗闇の中で立ったまま、ずっとタバコの火と共に三角形を描き、夜空に目を向けて歌い続けている。

<魂からのメッセージ>
今までの人生で一度も体験したことのない変性意識に驚きを覚えながら、同時に通訳をしなけれなならないこともあり、私はその体験の中に完全に身を委ねることができなかった。そして徐々に平常の意識に戻りながら、ジャングルの静寂の中に響いているシャーマンの不思議な歌声に聞き入っていた。そうしているうちに、今まで横になって唸っていた一人の男性が、地面の上に大の字になったまま狂ったようにドタバタしはじめた。まわりに、一瞬緊張が走った。彼がもがきながら無意識に火のそばに近づきそうになった時、クイチと、参加者の中の2人のヒーラーさんたちが、彼を抑えようと助けの手をさしのべた。本当に、危なそうに見えたので、私も助けに入ろうかどうか一瞬迷った。が、手を貸そうと彼に触れる度、クイチも、ヒーラーさんたちも、暴れる男性にキックされたり、パンチをくらわされたりしている。私は、思わず、なんとかしないでいいんですか、と訴えるような気持ちでシャーマンの方に目を向けた。彼はただ静かに歌を歌い続けている。しかし、私の視線に気づいたのか、彼はこちらに目をむけて私と一瞬目を合わせると、アヨワスカの入っているバケツの方を振り向いた。まるで、私にそれを見よというように。

その時、私には不思議と彼が無言で言おうとしていることを直感した。それは、「アヨワスカを信頼するのだ」というメッセージだった。彼は儀式を司るシャーマンとして高次の次元とつながり、アヨワスカが必要なプロセスを起こしていることを信頼し、儀式の場をただ見守っていたのだ。その時、私はその極意を理解した。

火のそばであがいていた男性は、バッド・トリップに入り込んでいたのだ。だが、それは彼の魂のプロセスであり、アヨワスカがそのプロセスに働きかけているのだ。途中で他者がそのプロセスを助けようとすることは、ある意味、アヨワスカが働きかけているその人のプロセスを邪魔することになりかねない。ヒーラーと言われる人たちは助けようとするあまり、そのような罠に陥りやすいのではないだろうか。もちろん、瀬戸際で本当に危ない時は助ける必要があるだろう。ただこの時、私はアヨワスカとこのシャーマンから、目先の現象に惑わされず、背後にある見えないプロセスを信頼するということを学ばさせされた。そして、そのプロセスの中で、何よりも高い次元に意識を向けていることの大切さを。

私自身、アヨワスカのプロセスによって変性意識にトリップしたことで、自分の魂のGPSがどこに目を向ける性質をもっているかをはっきりと知ることができた。人生でどんなことがあれ、植物が太陽に向かって育つように、自分の魂は高い次元を求め、そちらに向かおうとしているのだと。

南米のインディオの伝統では、子供が大人になる際に通過儀礼としてアヨワスカの儀式を行い、それによって人生のヴィジョンを得るという。であるなら、私にとって偶然出会ったとはいえ、このアヨワスカの儀式は、自分の魂が真に求め、向かおうとしているのが高次の次元であるというヴィジョンをもたらしてくれた。人生の中で様々な体験やプロセスを通して迷いながらも、その時々の自分の道を正し、成長しながら、高次の次元へと向かおうとしているということを…。

後に、この祭司を務めてくれたインディオのシャーマンが確かに歌を歌いながらキリスト意識につながり、アヨワスカのスピリットと共に儀式を行なっていたことをクイチから教えてもらった。その時、私は以前どこかで聞いたことのあるシャーマンの定義をふと思い出した。「シャーマンと精神異常者の違いは、シャーマンは精神異常者が迷い込む意識の世界に一緒に付き添っていくことができるが、必ず自分の中心に戻ってくることのできる力をもっているということだ」と。

こうして地球の反対側のペルーへの旅で私を最終的に待っていたものがアヨワスカの儀式であり、自分の人生の指針となる自分自身の魂からのヴィジョンであるとは夢にも思っていないことだった…。








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