鞄から見る認知症

鞄から見る認知症 
         デイサービス 生活相談員

デイサービスでは、利用者様の楽しそうな声が響き渡り、会話に熱中しているようだ。

そんな光景を見ていると、ふと昔を思い出すことがある。

それは学生時代のこと。

特に高校生の頃は、部活動に熱中していたこともあって、恥ずかしながら勉強道具を持ち帰るという習慣がなかった。いわゆる『置き勉』というやつだ。

大学生の時、初めて教科書だけが入ったカバンを手に通学した時は、何だか少し大人になった気がした。

しかしそこで気付かされた、思いもよらぬ苦悩。


そう
鞄が、とにかく重たいのである。”


どんなに気に入っている鞄でも、教科書を入れればやはり基本的に重たくなるし

ましてや電車通学ということもあり、そもそも鞄が邪魔になる。

鞄を持つことに少々の憧れを抱いていたことが嘘のように
毎日悩んでいたことを覚えている。
デイサービスに勤務するようになり、学生の頃ほどカバンを持ち歩くことが無くなった私と、やたら個性豊かなカバンを持参される利用者の皆様。

その中において、カバンを持参せず、手ぶらで来る利用者様も数人いる。
その一人が、認知症と診断を受けている、利用者A様であった。


私:「Aさんはカバンを持って来ないから身軽でいいですね!」

利用者A様:「ほぅやほぅや!何にも身一つで来れるでの!」

うーん、なるほど。
確かに元気いっぱいのA様は、車に乗るときも散歩をする時も、とにかく元気な印象だ。

私:「私も身軽な方が好きなんです。私とAさんは、身軽同盟ですね!」

そんなある日の事。


帰りのお送りの為に、利用者の皆様に送迎車に乗って頂いた時のこと。


この日いつもと様子が違ったのが、A様だ。


利用者A様はいつも他の方が乗り込むまで待っていてくれる穏やかな方だ。

ところが、今日はそのA様に落ち着きがない。

「待っててくださいね!!」と声を掛けても、またすぐにソワソワしている。


よく聞いてみると、どうやら鞄がないらしい。


私は少し驚いた。


いつもカバンを持たずに来ているA様らしくないではないか。
そうとはいえ、認知症の診断はされているし、この梅雨明けの時期に少しばかり症状に進行があったのだろうか。


この場合は「カバンなんて持ってきてないよ」
などと、軽率な声掛けをしてはいけない。なるべく丁寧に、わかりやすく伝えなければ。

遂に10年来の福祉従事者としての私の力量が試される瞬間が訪れたのである。


私:「Aさん、今日はカバンを持って来ていませんよ。Aさんはいつもデイサービスにはカバンを持って来ていないんです。だからカバンは、ちゃんとご自宅にあります。何も心配いりませんよ。」


言えた!!


わかりやすく、しっかりと伝えることが出来た!!


見てくれましたか、福祉の神様!!


私はこの瞬間の為に生まれてきたのです!!!

ところが
A様から帰ってきた言葉は、思いもよらぬものであった。


利用者A様:「いや、えっと…確かにカバンを持って来ているはずなんだが…。」


む!これは手強いパターンのやつ!!


絶対にカバンを持って来ていないのに、本人はカバンを持ってきたと信じて疑わない、思い込みが起きている。

ここからの声掛けは、かなり繊細さかつ専門性が求められる。


私は再度、気を引き締めた。

私:「Aさん、今日、あなたはデイサービスには鞄を…」


その時だった。

介護スタッフB:「あ、良かった間に合って!これ、持って行ってくださいね!!」


見慣れないカバンを差し出す介護スタッフBさん。


介護スタッフB:「はい、Aさんのカバン!!」


Aさんの・・・カバン?


介護スタッフB:「Aさん、デイサービスでの初めてのお風呂喜んで頂けて良かったです!またお風呂のお手伝いしますね!」


目の前で起きていることを単純に解釈するならば
どうやらAさんは今日初めてデイサービスで入浴をされたらしい。


そして今までは持ってくる必要のなかった、バスタオルや着替えの入ったカバンが存在しているらしい。


事態の全てを飲み込むことが困難なこの状況において、私は何も言うことが出来ず

ただただ二人の会話のやり取りを聞いているしかなかった。

そして数秒前のことを思い出していた。


突然カバンがないと言い出したA様。

爽やかな笑顔でカバンがないと伝えた私。

それでもカバンがあることを確かに覚えていたAさん。

完全にカバンは持って来ていないと決め付けた、Aさんの言葉を信じなかった私。


走馬灯のように蘇る先程の記憶を辿り立ち尽くす私の目の前には


直接カバンを手渡す介護スタッフのBさんと
それを満面の笑みで受け取るAさん。

夢なら覚めて欲しい光景がそこにある。


利用者A様:「助かったよ。今日は本当にありがとうね!」

介護スタッフB:「いえいえ、私もお風呂が好きですし、私とAさんは、お風呂大好き同盟ですね!」


もう勘弁してくれ、あんまりだ。

これは…何なんだ?


認知症とはいえ、初めての入浴の為にカバンを持ってきたことをしっかりと覚えていたAさん。

必死にカバンの所在を訴えるA様を自信満々で制する私。


そもそも思い返せば、A様が今日からデイサービスでお風呂に入るという状況を他のスタッフに伝えたのは、他でもなく、生活相談員の私ではないか。


こんなはずではなかった。


しかし、思い返せばいつも手ぶらでデイサービスに来るからといって


すぐに認知症の症状なのだと思い込んでしまった私の失敗である。


こうなってくると、これはカバンというものをきっかけとした、A様の優秀な管理能力の話になって来る。

私はどうやら、状況を見誤ってしまったようだ。

そして、認知症というものを、狭い視野で捉えてしまっていたように思う。


利用者A様の言動、そこには大前提に、本人の確かな記憶があるのだということも忘れて。


認知症か、確かな記憶か…その判断の難しさたるや。

しばし全ての思考が止まり、この世界の全ての出来事を信じられなくなった私だったが

何とか自分の未熟さを克服する必要があった。


私:「Aさん!素敵な鞄ですね!きっと、いいお値段したんじゃないですか?!」


利用者A様:「これは・・・先日亡くなった妻のでね・・・。」

・・・・・・・

別に私は自分の経歴に絶対の自信があると思っているわけではない。


ただ、こんなにも辛い雰囲気になるものなのか。


何より、カバンに対する感性などない私が


何故カバンを褒めることを思いつき、とっさに口にしてしまったのだろう。

まさしく、後悔先に立たずの状況。


完全に場をしらけさせてしまった、渾身の私の話に静まり返った送迎車内は

何とも言えない重苦しい雰囲気になっていた。

・・・・・・・・・・・・・


・・・


10年来の福祉経験。


今ではたったの10年で、何を理解した気でいたのか恥ずかしくなる。


天狗になっていた鼻がポッキリと折れた私を残し、Aさんを乗せた送迎車は出発した。


ただ一人、残された私。                              

何からも取り残された私の心には、ポッカリと穴が空いていた。

そんな

そんな儚い出来事であった。
                 完

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