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自分の居場所をつくる

今までと同じようには生きられない

ずいぶん前から仕事が長続きしない。派遣で契約期間がある仕事だから、というのもあるし、若い時のように無理がきかない体になってきた。

まわりを見回してみると、会議、残業、子育て、家事、その他諸々、年度末ということもあるせいか、とても忙しそうだ。

若い時はそれでも体力もあるし、多少無理をしてもリカバリーができた。しかし、私はそんなにタフじゃなかった。うつ病になったり、バセドウ病になったり、最近は『あ、これ無理そうだな。』という、体が壊れる3段階前くらいからもう気付けるようになってしまった。

私はきっとまわりの人たちと同じようには到底頑張れない、と満員電車に乗りながらふと考える。そしてこんな生活がいつまで続くのだろうかと、とてつもなく不安になる。

今までは短期契約の仕事を何とか繋いで、奇跡的に生きて来られた。日払いのバイトをしたり、貯金を切り崩したり、失業保険をもらったり、職業訓練に通ってみたり。

しかしこれからはもっと頑張りがきかなくなってくるし、今までと同じように綱渡りのような行き当たりばったりな人生にも無理が出てくるだろう。

『帰る場所』がないという気持ち

今まで会社やどこかのコミュニティに帰属できなかったので、いつも『帰る場所』のようなものがないような気持ちがあった。

一般的には、それが故郷とか家庭とか、趣味の集まりだったり、学校や会社など、今はネットの繋がりもあるだろう。

私は人付き合いが苦手で、親しい人と一緒にいても気疲れしてしまうタイプだ。なるべく人と関わらないで静かに暮らしたいという気持ちがあって、そんな場所を作ったり、関わることを避けてきた。

これからはひとりになって充電することは大切にしつつ、元気な時は人と会ったり、わずかでも社会と関わりを持ちたいと思っている。

そこには必ず人がいる

お金を稼ぐということは、やっぱりそこには必ず人がいて、何かしてあげて、感謝の気持ちがお金に変換されているような気がする。やっぱり間接的にでもネットでも、『そこには必ず人がいる』ということがキーワードになっている。

とても苦手な人との関わり、そしてとても救われている人との関わり。私にとって『人との関わり』は良くも悪くもすごく大切なのだと気づいた。

日記でもいい、それでも書きたい

ブログを書いて公開することも、なんてことない他人の日記なんて誰も読まないし、ましてや稼げない、というのは当然なのだけれど、それでも書きたくなってしまうのなぜだろう?とふと考える。

文句や悪口など思う存分書いて、鍵をかけてクローゼットにしまっておけばいいのに、誰にも読まれなくても、わざわざネットで(全世界に)公開している自分の行為が不思議だと思う。

日記なんて誰も読まない。そうか、それなら心置きなく開き直って、自由に書いてもいいのではないか、と思った。

自分の居場所をブログでつくる

変なプレッシャーや、うまく書いてあわよくば稼いでやろうという自分の下心を吹き飛ばして、自分が欲しかった、そしてずっと求めていた『自分の居場所』をブログで作っていけるような感覚を少しずつ持ち始めている。

何よりも、誰よりも、自分で書いた文章に自分で励まされている、という究極の自己満足が得られている。そして通りかかった人にもさりげなく読んでもらって、『いいね』を頂いたりもしている。こんな稚拙な文章にもプレゼントを頂けたようで本当に嬉しい。

数字では表せない良さがある

巷にあふれるブログの書き方や、稼ぎ方のハウツーとはもう全く逆のプロセスなのかもしれない。本当にいつも脈絡のない日記ブログなので離脱率100%なのですが、数字(フォロワーの数やPV)では表せない良さが日記にはあると思う。

誰にも言えなかった本音が書けるというか、何の制約もなく自由に書ける良さがあるし、『私』という人間が素直に表現できる感じがする。

noteのおかげでそんな自分の気持ちを置いておける場所が私でも、そして誰にでも作れるということは本当によかったと思う。


梶井基次郎の『檸檬』という小説のように、檸檬をひとつ、本屋の棚に置いて帰るように、ブログを書くことで、ささやかな世界が広がっていく感じがする。






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