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読書感想文 なぜ働いていると本が読めなくなるのか 


読書文化が成立してきた明治期から、自己啓発を目的とした読書の文脈はあれど、摂取から咀嚼、アクションまでの時間をどんどん短くしてきたというのがざっくりとした歴史で、インターネットやネオリベ(市場原理に全て任せる)的な背景も合わさり、行動のみが語られる形に昇華したのが現代といえそうだ。情報とはその瞬間瞬間に必要なものであり、思考したり内面化することで行動するこれまでとは異なり、ぶっ飛ばしてただただ行動を促すものと定義する。
そういったSelf-disciplinedな行動を促し、他者の文脈や歴史的背景を透明化する現代においても、我々は一人では生きていけないという事実が横たわる。その極小点にて他人の文脈に対して開かれる必要がある。推しとか仕事とかの自分の文脈以外に開かれているべきだと。
ここまでは筆者と合意するが、筆者は読書を他人の文脈に触れることだとする。
ただ読書なんてのは基本自分の文脈である。自分の知りたいことの域を出ない。これまでもあり方は変われど、個人の行動や規範を変えてきたのが読書であるからだ。家庭の問題に悩む時は家庭の問題解決の本を手に取るし、仕事に悩む時はビジネス本を手に取るし、自分の気になる文脈を手にするとこの本でも言っており、その意味で自分の興味・関心の域内だなと思う。仕事以外の文脈も自分のコントローラブルな範疇である。
なので、他人の文脈を引き受けるために、「本を捨てて外に出よう」がメッセージになるのではと思うし、個人的にそう捉えた。
悲しいことがあった友人がいれば一緒に泣いたり、困っている人がいれば手を差し伸べたり、デモを起こしたり、他人の文脈を自分ごととして引き受けることが、大事ということではないだろうか。
仕事や推しなどの自分の好きや知りたいことの外側の世界と繋がる(言い方を変えれば、巻き込まれる)ことが必要という話ではないだろうか。
もちろん、全身全霊で仕事のみの文脈を引き受けるような働き方には抗いたい(そういう力学が強くはたらいてしまうし、自分もそれに引っ張られがち)ので、半身で働いておきたいとは思う。ただそれは自分の好き・興味・関心を忙殺させないようにと、他人の文脈を取り入れるためにだなと思う。


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