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会社員の哲学 柿内正午著 を読んだ感想とその周辺。

会社員の哲学
一章
会社員にすぎない一個人における自己実現とは結局会社にとって都合のいい規格化にすぎないと暴く。
会社の給料は成果に対するものではなく、労働力に対するものではないかと。
確かに賃金は労働サービスの需給バランスで決まる価格である。(業種によって賃金が異なるのは、この労働サービスの需給バランスが異なる(=別のグラフ)からだと理解できる。)

フォーディズムから新自由主義への移行するのと同時に、自己実現が求められるようになってきたと。昔は、自己実現をしなくても主従の関係性において、人として見られていたため、熟さなくても、自己実現をしなくてもよかった。今は、誰も守ってくれないから、自己実現という形で成長を求められる。歯車だったときはよかったとする。
確かに、歯車故に、同じような作業をして、大きな完成品を作るという過程の中で、帰属意識が高められ、主従の関係においても、アウトプットがどうであれ、みんな仲間だということで包摂されていた時代から、アウトプットのみを見られ、それが故に帰属意識が低下する現代に陥ったと言えそうだ。今、僕個人としても会社に対する帰属意識が薄れている(=むしろ毛嫌いするような態度をとる)のは会社が守ってくれないだろうと信じているからだとし、また、個人の自己実現や新自由主義的なものを内面化しまくっているからなような気がしてきた。目の前のチームメンバーに仲間意識を持つことが一つの抵抗の姿。

あらゆることがmeasureableになっていく(=貨幣に還元可能)な社会が資本主義社会だと言う。貨幣に還元される限りでの多様性を包摂するという。
スマートシティの欺瞞さはこういうところにあると思う。なんでもない、交換価値のないモノは見捨てられるし、規格化されたら最後、常にアップデートすることが求められる。人口減少の中で、人手不足の代替として、IT化・スマート化が叫ばれるが、結局はそのカギかっこの範囲での解決にしかならない、とはいえやらないよりはマシというスタンスではあるものの。。

二章
そもそもそれぞれの部署なり組織が会社内において部分最適化されている。これは構造上、不変と言えそう。で、その前提上、部分的な仕事をする必要が出てくる、部長の承認を得るためのプロセスを整備するためだとか。その時点で、自己実現と言いながら、部分的な仕事に陥る。つまり、実務の仕事の意味は極小化される前提に立っているが、自己実現というか内面的には極大化させられる。
ここに一章の自己実現の欺瞞さの所以を見る。構造上、部分的なのに、どうも一人で仕事を回したとするような。これは、例えば転職や社内の評価面談などでもよく見る構造だ。会社に入って間もないときはそのズレに対して許せなかったが、そういうモノだと割り切れるくらいには大人になったなと思う。が、結局クソである。

とはいえ、会社に自発的に隷従しているという側面もあり、否定できない。なぜなら、その細分化されたプロセス、階層によって、責任を分散させてくれてもいるからだ。
会社で働くことを忌避することが多い昨今において、会社の良さを可視化したのはおもしろい。とある友人は自分で会社を興したり、Youtuberとしても活躍しているが、そんなことを自分ができるとは到底思えない、自分を切り売りすることでお金を稼ぐようなことはできないと思う。そうなるとどこに向かいたいのか。人と新しく付き合い始めるのだとか、自分を切り売して稼ぐだとかいうのは、自分を表現しないといけなく、しんどい。趣味とか好きなことが明らかであり、かつその好きなこと/趣味が万人に共通的に広く理解できる必要があるように思う。万人が分かるキャラ化がこんな一介の凡人においても求められる、これはまさしく個人主義、新自由主義的な話だろう。

そんな云わば、個人が個人として確立することが求められる中、どうもそのスタンスに立つことができない自分がいる。ただ、せめて万人にウケなくても、自分が好きなものを好きな人とは仲良くやれよせめてと自分自身に対して思う。自分の好きも完全ではないと思ってしまっているからだろう。とはいえ、自分が会社のロジックに押しつぶされそうにもなる。仕事はある種簡単に成果が出るからだ。ただそんなことよりも、もっと社会における自由を求めるために、自分は自分の言葉を求めよう。偉そうに、分かったような口をして、会社の業績がどうだとか経営層視点の話を知ったかぶりするのではなく。そうならないためにも、自分の好きに対して誠実でありたいと思いたい。
常に差異ばかり見てしまう。自分が理想とする好きな人像が自分とはずれる、その時点で自分はそんなに好きではないのかもしれないと思ってしまう。そして、それは永久に埋まらない。似たジャンルを読んでいるような人に会いたい・コミュニティに参加したいと思いつつ、忌避してしまう。自分の好きが至らないのではと思ってしまうからだ。ただそういうところに行こう。抗おう。会社から自由になるために好きなところでちゃんとする。書くことで、進む。会社/貨幣の世界に逃げずに自分の言語でやっていきたいという話。
身体と言語のそのギャップに悩んでしまうが、今定期的に参加しているボランティア団体はかなり作業的であるから続いているように思う、ただそこにいる、つまりきわめて身体的な場所である。どんな人であってもそこにいることができる(現に何の仕事をしているか何歳か分からない人がほとんどだ)。だから、そのギャップに悩むことなく、なんとなく続けれているのかもしれない。その意味で自分はボランティア活動に逆にかなり救われている。

三章
会社に属しながら、会社の戦略に従い、自らの戦術に従う。このバランス。これは、全力で仕事しないことが一つの闘争の形ではないかと思っている僕と近いような気がする。自分のリトリートというかそう形容してしまうと、どうも仕事のため感が出るけど、もっとプリミティブな形での自分の領域を持つために、仕事をしながら、仕事から逃れる。換骨奪胎の精神。飲み込まれすぎない精神をもつ。サボることこそ、今の社会の固定化に抗う手段だと。むしろ生命が第一主義すぎて労働ばかりに目がいくこの現状を憂うべきであり、もっと無駄なものを渇望しようぜ。パンくらい当然のように受け取り、バラすらも要求しようという。
ここはすごく身に染みた。抜本的な仕事生活の見直しをできるわけではないが、それでもこの現状に対して何も考えていないわけではない、ただ、この現状でそれなりの生活ができてしまっていると思っていたが、もっと仕事をしなくても回る世界であるべきだし、もっと無駄なものとか芸術とか求めようと。今の自分の生活は足りているわけではない、と思わせてくれた。

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