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藤原ちからの欧州滞在記2024 Day 19

水曜日。リュブリャナのバスターミナルへ。日本のように整列してバスを待つとかはありえないので、今日もここはカオスな雰囲気だ。やってきたFlix Busの運転手である大柄な白髭のおっちゃんは、そんなカオスな乗客たちをあしらうのに慣れていて、ミラーノ!ミラーノ!と大声でアナウンスする。運転手のおっちゃんはイタリア語話者のようだ。もちろん乗客全員がイタリア語を話せるわけではないので、混乱した人々の英語の声も聞こえる。「Trieste, due, per favore」と行き先と枚数を伝える。去年の経験からすると、こういう時にカタコトでもイタリア語を使うと、こちらにちゃんと注目してくれることが多いように思う。

席を探していた女性が、わたしたちのすぐ後ろの席に座る。隣の席の男性に話しかけて「ここ座っていい? ごめんなさいね、私すぐトリエステで降りるから」「あ、ぼくもです」と会話が始まり、たまたまふたりとも音楽家のようで、そこからずっと英語での会話が続く。彼女はスロベニアやセルビアにルーツがあるらしい。彼はナポリが実家のようで、東欧のほうに用事があった帰りに、リュブリャナにはただ乗り換えで立ち寄ったのだという。聞き耳を立てるのも悪いなと思いつつ、母語の異なる見知らぬふたりが英語でどんなふうに会話を繰り広げるのか興味深くて、つい聞いてしまう。高速道路に入ったあたりで渋滞したこともあり、1時間半のはずの旅程は2時間に。彼女が質問上手ということもあって会話は途切れない。ワインの話とか、ウィーンやドナウ川や北京は言語によって呼び名が変わるよねとか、気候変動と航空券価格の高騰とか。ナポリの彼のほうはドイツへの対抗意識のようなものがかなり強いみたいで、ドイツの給料はイタリアの3倍だ、と憤っている。彼女のほうはオペラ歌手としてインターナショナルに仕事していることもあるのか、もう少しフラットに、国ではなく都市単位でものを考えているような気配がある。それは「we」という主語の使い方にも表れている。彼が使うweはイタリア人のことであって、彼女が使うweは自分の楽団や家族のことを指している。この偶然の出会いによって生まれるものが友情なのか恋愛なのかわからないけど、この違いは結構のちのち大きいかもしれないな……と感じていたら、驚いたことに、ふたりは連絡先も交換せずにトリエステで別れた。Instagramの交換とかもしないんだ……ふーん。わたしの観察では彼女のほうがオープンで、「トリエステに着いたら何するの? 私はすぐコーヒーが飲みたいわ、コーヒー、コーヒー、コーヒー!」とはしゃいでいて、一緒にどう?と誘ってみたい気持ちが含まれていたのだと思う。でも彼のほうは、「友達を訪ねてごにょごにょ……」という感じだったから、そこでもう話は終わっていたのかもしれない。


バスはやがて、山から海へと急な坂を降っていく。窓から見えるトリエステの海は感動的な景色で、かつて須賀敦子が「きらめく海のトリエステ」と形容したのもわかる気がする。リュブリャナからはバスでもミラノまで行けるんだけど、乗り続けるのはしんどいからどこかで一泊したくて、でもヴェネツィア・ビエンナーレを観るほどまとまった時間はとれそうにないし……とかいろいろ考えて、そうだ、いつか行きたかったトリエステに一泊しよう、と決めたのだった。

まだ早すぎる時間帯のため、ホテルに荷物だけ預ける。しかしやや信用できない(誰でも荷物を持ち出せる)ストレージに放置する感じだったから、デバイス類はリュックに入れて持っていくことに。その重さもあり、空腹もあり、昨日の軽い熱中症やハードな打ち合わせの影響もあってか、ちょっとバテてしまう……。

チェックインしてから小一時間昼寝する。それで持ち直して、ウンベルト・サバ書店を観に行く。ここはかつては「ふたつの世界の書店」と呼ばれていたはずで、絶対そっちのほうがいいと思うんだけどな。須賀敦子のエッセイでたしか彼女は、詩人ウンベルト・サバの後継ぎの店主の、いかにも観光客を相手にするような応対ぶりに幻滅していたけど、そもそも、こんなに中心街のど真ん中にあるとは想像していなかった。書店は閉まっていて、それが今日たまたまなのか、恒久的にそうなってしまったのかはわからない。

ローマ時代の劇場の遺跡を横目に見て、坂をのぼってサン・ジュスト大聖堂とその隣にある城へ。大聖堂は大きさはそこそこだけど、内装は圧巻の、というか静謐な美しさ。でも若い頃に須賀敦子のエッセイを愛読していたわたしにとっては、大聖堂そのものよりも、トリエステの坂道を歩いたことのほうが感慨深い。


坂道を下る頃に、雨が降ってきた。ここまでもってくれて助かった。山が霧でけぶる。海のほうへと行ってみる。豪華客船が停泊している。埠頭の突端にいた人たちは、雨足が強くなってきたので、ほとんどの人が陸の方へと引き上げたのだけれど、車椅子の人と、もうひとり、黒髪の少女が、雨に打たれたままずっと海を見つめている。彼らは何を見ているのだろうか。少し心配になって話しかけてみようかと思ったけど、海に身投げするような雰囲気ではないし、風邪だけ引かないようにね、と祈りながら、埠頭を後にする。


実里さんが誰かのブログで見つけたという、茹で豚専門のお店へ。礼儀正しい給仕の人が、英語で、我々の店についてはご存じですか、伝統的に豚料理一本でやってきたのです、私のお勧めはこちらを2人前と、ザワークラウトなどいかがでしょう、とのことなので、それに加えてビールと赤ワインを注文。おお……これは……とろけるような豚肉の旨さ……。ありがとう、見ず知らずのブログ主さん。店は100年以上続く伝統があるようで、働いている給仕たちはマニュアルがある感じではなく、給仕それぞれのプロ意識に基づいて仕事をしているようだ。

わたしたちのあとに隣の席に来た、大きな犬を連れた外国人らしき白人系の老夫婦は、イタリア語を話せないがゆえの齟齬があったらしく、席に着くなり「注文はビールだけか?」と英語でぶっきらぼうに給仕にあしらわれ、なんだかギクシャクしている。今朝のFlix Busの場面を思い出してみても、様々な言語圏の客に対応しなければならない、ということを負担に感じながら仕事している人も、中にはいるのかもしれない。あるいはただ、ちょっと虫の居どころが悪かっただけかもしれない。なんだか隣の老夫婦が可哀想な気持ちにもなり、ちょっと空気を変えてみようと思って、目が合った給仕たちとアイコンタクトをしたり、積極的に話しかけてみたりする。ちょっぴり恥ずかしがり屋の給仕や、この店の料理を誇らしげに自慢する給仕もいたりして、彼らとふたことみこと話しているうちに、隣の席のギクシャクも少し解消されたようだった。


ホテルの中にあるバーで、チャンピオンズリーグの準決勝でも観ながら作業するか、と思って21時にバーに行くと、「もう閉めたわよ」冷たく言われる……まじか……。外は強い雨が降っているし、近場のバーももう店じまいしているようだから、しょうがない、部屋で作業するか、と戻ってはみたものの、実里さんはもう早くも寝てしまっているし、そもそも机も椅子もないから、こんなんじゃ、やる気出ないや……。ふて寝しちゃうことにする。そんな中途半端な気持ちのまま、眠りがやってくる。トリエステで過ごす唯一の夜が終わる。


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