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おまじないと占いと天使

 おまじないと占いと天使。こう書くと、なにやらスピリチュアルめいてくるが、ここではスピリチュアルな事柄は特に扱わない。では、なにを扱うか。女性作家が書いた短編作品集だ。西加奈子『おまじない』、木内昇『』、市原佐都子『マミトの天使』、3つ合わせておまじないと占いと天使である。私にしては珍しく、ここ1年は女性作家の作品集を読む機会が多かった。意図的に選択したというより、偶然そうなったのだが、この偶然はおそらく必然。本を選ぶとは、結局そういうことだ。
 おまじないと占いと天使。まずは『おまじない』からいこう。とはいえ、『おまじない』には、「おまじない」というタイトルの作品があるわけではない。この言葉は、本に収録されている8編の短編をまとめあげ象徴する、総タイトルとして現われているだけである。この1冊が、なんらかの効果を持つ「おまじない」であるというわけだ。
 目次を見ると、それぞれのタイトルの上には、イラストが付されている(このイラストのカラーバージョンは、カバー・表紙・見返しで確認できる)。一読すると、これらのイラストが、短編の内容と関連するものだということがわかるが、未読の状態では、両者の関連性を推測するのが難しい組み合わせの方が多い。冒頭で、スピリチュアルなことには言及しないといっておいてなんだが、この目次のレイアウトは、なんというか、とてもオラクルカードっぽい。だから、この本は頭から愚直に読んでももちろんいいが、イラストを見てピンときた作品から目を通すというオラクル読み(?)にも十分耐え得る。
 帯の表面には、「あなたを救ってくれる言葉が、この世界にありますように」という作者からのメッセージが書かれている。裏面を見ると、各作品から1行ずつ、「言葉」が抜粋されている。こういうところも、オラクルっぽい。私は、「ドブロブニク」からの抜粋「おめでとう」にピンときて、この本を購入した。
 「ドブロブニク」に付されたイラストは、「Dubrovnik」のロゴで、映画が好きな人なら、カウリスマキの「浮き雲」のアレだとすぐにわかる。そして、おそらくこの作品には、なんらかの形でカウリスマキの映画が絡んでくるんだろうと推測することもできる。ただ、そうなると、どこがどう「おめでとう」なんだという気持ちになるかもしれない。「浮き雲」なんか特に、あんまりおめでたくない内容だし。気になる人は、読んでみてください。
 さて、肝心かなめ、「おまじない」の効果とは何か? それもやはりオラクル同様、この本に書かれた「言葉」を読む人の解釈の仕方によって、様々に変わるだろう。「おまじない」は、「お呪い」とも書く。世慣れた占い師ならばこう言うかもしれない――「おまじない」を「救い」にするか「呪い」にするか、それはひとえに、あなたの心のありかた次第なのデス。
 というわけで、次は占い。『占』というタイトルの通り、連作形式になっている短編には、重要な小道具として占術が登場する。連作の舞台が大正期なので、名称が少々古めかしいが、今どきの言葉でいえば、「チャネリング」みたいなものだ。帯には、かの有名な鏡リュウジ氏がコメントを寄せている。本格的な「占い小説」だ。ただし、占い大好き!、という人にとっては、少々耳の痛いことも書かれている。中には、占う側の立場から書かれている作品もあるので、実際に占いをしている人にとっては、「あるある」と頷きたくなるような場面もあるかもしれない。
 占い師の基本的な心得の1つに、「占いの結果は偽らない」というのがある(はず)。メッセージに、良いも悪いもない。それは、人生に良いも悪いもないというのと同じことであると思うのだが、私も含め、そんな悟りの境地に階段100段飛ばしで到りつける人間はさほど多くないというのも事実なので、なにをもって「良い」と判断するかの基準すら持たないまま、漠然と与えられた――しかし誰に与えられたのだろう――「良い」のイメージを踏襲して、ついつい「良い」ことばかり続けばいいな、と願ってしまいがちである。そのような、うっすらとした、しかし根付き方はかなりしっかりとした願望に抗って、「悪い」とされていることを伝えるには、相応の覚悟が必要になる。
 「山伏村の千里眼」の主人公は、この覚悟をする前に、なし崩しで「千里眼」を持つ占い師となってしまったため、相談者の「良くあれ」という圧力に屈して、耳触りのよいことを伝えてしまう。そのことが最終的にどのような結末をもたらしたか、気になる人は、読んでみてください。
 占いは万能ではなく、占い師は天使ではない。相談者と同じ人間である。そうである以上、占い師と相談者は言葉でもってコミュニケーションするしかない。占い師は直感を言葉にして伝えるが、この時点で、誤解・誤読その他、あらゆるディス・コミュニケーションの芽が生まれている。この芽をできるだけ摘み取るため、占い師は日々語彙を増やしたり、「伝え方」を工夫したりするが、それでも最小限の解釈のズレは生じてしまう。
 そしておそらく、占いに迷走する人たちは、このズレが大いに不満なのだ。このズレをぴったり埋めてくれる「結果」に行き着くまで、彼らは占い師の言葉の沼に溺れようとするが、無論、そのような「結果」は存在しない。「時追町の卜い屋」の、典型的な占いジプシーとなってしまった主人公の職業が、ある言語を他の言語に移し替える際に生まれる葛藤に耐える術を最も身に着けているはずの「翻訳家」であるのは、なんとも皮肉なことである。もし、このアイロニカルな職業設定が、直感によるものであるならば、それこそ、小説家は天使の祝福を享けているというしかない。
 ところで、天使は存在するのだろうか。定義の仕方によっては、存在するともいえるだろう。「マミトの天使」の「天使」は、「人々の欲望を気持ちよく満たす手伝い」をする存在で、主にスーパーのレジカウンターに生息している。
 買い物かごの中身というのは、個人情報の塊だ。たとえば、食品や日用品ひとつとっても、どの値段帯のものをどのくらい買うかで、生活水準のおおよそを推測できるし、本やDVDなどの購入傾向で、趣味嗜好をおしはかることも可能だろう。もし、レジカウンターにいる人間が、そのいちいちに対して、ああでもないこうでもないと品評してきたり、個人としての見解を述べてきたりしようものなら、私たちは恥ずかしくていてもたってもいられないにちがいない。
 しかし、「マミトの天使」は「天使」なので、そのようなことは一切しない。ただ無機質に、バーコードをピッと読み取り、「人々の欲望」を、緑単色の数字に置き換えて、貨幣と交換する。
 「天使」は自分の仕事を、「誰にでもできる仕事ではありません」と自負している。「天使」は、「ありきたりで忘れられるほどにありがたく人々の欲望を満たすもの」を目指しているが、それは事実上、排泄という「欲望を満たす」行為を可能にする「もの」である糞便によく似た「汚物」を目指すことでもある。そういえば、フェティッシュという点で、貨幣と糞便は似ている。してみると、「天使」の仕事とは、「欲望」という「汚物」を、貨幣という別の「汚物」に引き換える汚辱に塗れた作業ということになる。なるほど、汚れ仕事を進んで引き受けることは「誰にでもできる」ことではないだろう。
 「汚物」にまみれた「天使」は、かつて「ミヤ」という犬を飼っていた。「ミヤ」という名は、テレビに映る「ミヤサマ」であるところの「ミヤ」と、この犬の顔がそっくりだという理由でつけられている。そもそも、「天使」の一家は、「ミヤのものまね」に「とても向いている」ほど、「ミヤ」に似ているのだ。それでは、「天使」とは「ミヤ」なのか。いや、「ミヤ」は「イヌ」だ。だが、「ミヤ」と名付けられてしまった「イヌ」は、もはや「普通のイヌ」ではない、「ミヤ」であるところの「イヌ」なのだ。それは、「イヌ」と同じように見えるが、「イヌ」とは区別される。ちょうど、「ミヤサマ」である「ミヤ」が「ニンゲン」と同じように見えるが、「ニンゲン」とは区別されているが如くに。「ミヤ」は「ミヤ」と名付けられた時点で、「ミヤサマ」の「ミヤ」、そして、「ミヤサマ」の「ミヤ」に似ている「天使」と同じカテゴリーに入る。それに、「ミヤ」も「ミヤサマ」の「ミヤ」に顔が似ているのではなかったか? つまり、「ミヤ」と「天使」も、「ミヤサマ」の「ミヤ」を介して似ていることになる。それではやはり、「ミヤ」は「天使」であるのか。
 ともかく、「ミヤ」が「ニンゲン」でないことは、作中で何度も確認される。しかし、「ミヤ」はふいに姿を消し、「ミヤサマ」である「ミヤ」も結婚して「一般人」となる。「ミヤ」が「ポチ」その他「イヌらしい」任意の名前をつけられ「普通のイヌ」の暮らしをしているかもしれないように、「ミヤサマ」である「ミヤ」も任意の名前をつけられ、「ニンゲン」として暮らしている。
 いずれにしろ「ミヤ」はもはや、「ニンゲン」(か「イヌ」)である。「ニンゲン」(か「イヌ」)は「天使」ではない。「天使」ではない以上、「誰にでもできる仕事ではない」仕事に従事する必要はない。「ミヤ」たちは、彼らに似ている「天使」を置き去りにした。しかし、「天使」は絶望せず、「ニンゲン」になりたいなどとも望まない。むしろ、「ミヤ」の抜け毛を体中に貼りつけ、「ミヤ」と獣姦していた「バーコードのおじさん」の「子供」、「ニンゲンとイヌのハーフ」に擬態する。

そこには新種の生物がいる。この生き物は。茶色い毛が全身にまばらに張り付き股間は黒々と縮れた毛が根を張っている二足歩行の獣。

 「ニンゲン」と「ミヤ」の「雑種」、それが天子、もとい「天使」の正体なのか。しかし、これほど不穏な「天使」から受け取るメッセージとは、どのようなものなのか。きっと、とびきり不敬であるにちがいない。しかし、メッセージに良し悪しはない。占いの結果を偽ってはならない。そして、「おまじない」の効果を「救い」とするか「呪い」とするかは、あなたの「言葉」への感度次第である。ちなみに、「天使」は最後にこう言っている。

いまお腹が空いてることだけは確か。どうしたって生きるわ。このまま適当に息するわ。

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